第64話

 ゴウン――


 ゴウン――


 ゴウン――


 周囲の未来的な機器から、規則的に重低音が響き上がっている。八千代ちゃんが再び動かした、忘却装置。私はまた全てを失ってしまうのだろうか。いや、そんな筈はない。


『時間を稼いだのは、俺も同じだ。もう二度と、この名を失うことはない』


 不敵な笑みを浮かべてそう断言したのは、他でもない、吾朗だ。


元の世界では私と一緒に遊んだり勉強したり喧嘩したり、色々あったけど、私が誰よりも信頼している吾朗だ。この世界に来て、柄にもなく落ち込んでしまった私を支え、何があっても諦めず、そして私の名を取り戻してくれた吾朗だ。


 だから、私は信じる。




「へえ、あなたも時間を? そんなことして何の意味があるのかしら」


 そう返す八千代ちゃんも、表情には現れないが内心の余裕が滲み出ていた。


 何度も奇跡は起こるものではない。恐らくこの骨が何らかの寄与をして私達の記憶が戻ったのだろうけど、もしまた記憶を消されたら、この骨すら取り上げるつもりに違いない。そうなってしまったら、もう私達が記憶を取り戻すきっかけすら訪れないと考えるべきだ。


 ただそれはあくまで、本当に記憶をなくしてしまったら、の話。私達はもう記憶を失うことはない。だって、吾朗がそう言っているのだから。


「今に分かるさ」


 吾朗の言葉を最後に、地下室には沈黙が訪れた。ただ、無機質な機械の唸りだけがこだましていた。




 ゴウン――


 ゴウン――


 ゴウン――




「さてそこのあなた、お名前は?」


「海野だ。遠い過去から来た。お前の計画を終わらせる者だ」


「……まだ時間が掛かるようね」


 頃合いを見計らって八千代ちゃんが尋ねるも、吾朗はこともなげに答えた。


 大丈夫、忘れてない。


 私も念のために自分のこれまでを振り返った。


 家族のこと。友達のこと。学んだこと。楽しかったこと。悲しかったこと。


 吾朗のこと。


 どれも鮮明に私の胸を彩った。




 ピッ――




 すると、機械の1つがそれまでとは違った、鳥のさえずりを思わせる電子音を立てた。


 不意な変化に少し戸惑ったものの、私は平穏を保つことが出来た。


 ただ、1人だけ、明らかに動揺している者がいた。



「え? どうして?」



 それは八千代ちゃんだった。予備動作もなく直立した姿勢で体を移動させ、音のした方へと向かった。そして吾朗も黙って後に続き、私も少し遅れて吾朗に付いていった



「始まったようだな」


 吾朗がそう言うと、八千代ちゃんは振り返り、


「あなたが動かしたというの? どうやって? 管理権限は移行していないわ」


 と早口でまくし立てた。すると吾朗は少し面食らったような顔で


「細かいことは、そいつから聞いてくれ」


 と言い、音の主を指差した。


 その先にある宙に浮いた球体は、全体にぼんやりとした燐光を浮かべる他の機器と異なり、表面には細かな輝きがつらつらと流れていった。


「文字……!」


 それは紛れもなく、私達の知る文字だった。


 日本語。それもこの世界で何度も見た昔のものではなく、私達の時代のものだ。


 自分たちのメモ以外で現代の日本語を見るのは何だか不思議な感覚だ。


 だがそれ以上に、私はその文字の内容に意識を奪われていった。




 ――初めまして、夢の八千代。




 球体には、そう表示されていた。


 夢の八千代? ここにいるのは現の八千代であって、夢の八千代ではないと思っていたのに、どういうことだろう。


 私は不思議に思い、八千代ちゃんを見た。


 すると八千代ちゃんは口を開けたまま呆然と立ち尽くしていた。




「まさかあなた……夢の八千代?」


 今度は八千代ちゃんが球体を夢の八千代と呼び始めた。


 もう何が何だか分からない。そんな私の様子を見かねたのか、吾朗が私の脇から説明した。


「八千代にとって、夢で見るもう1人の八千代は『夢の八千代』。そして夢の八千代にとって、夢で見るこっちの八千代が『夢の八千代』。お互いにとって自分が現実、相手が夢なんだ」


 なるほど、と私は呟いた。


 とすると、この球体は……。




 ――ずっと会いたかった。夢でなく、こうして現実で。




 続く文字が表示されるや否や、八千代ちゃんはすかさず体を浮かせて球体にすがりついた。その顔には珍しく表情を浮かべていた。驚きと興奮と喜びが入り交じったような、まるで人間の表情だった。これまでの無機質な笑みとは違い、今まで見た中で最も人間らしい、感状のこもった表情だった。八千代ちゃんにこんな顔ができるのは驚きだったが、今はそんなことよりも、この2人の人間――どちらも機械の体だが――のやり取りが私の心を捉えて離さなかった。




「私も……会いたかった……! この世界にたった1人放り出されて……それでも希望を捨てずにいられたのはあなたがいたからよ。そして同時に、あなたが『存在しない』人間だって知って、どれだけ絶望したか……!」


 そうだ、八千代ちゃんは吾朗の問い掛けに言っていた。


『では、夢の八千代はどこにいる?』


『いないわよ? 初めから、そんな人』


 八千代ちゃんが夢の八千代を通じて永遠に儀式を繰り返すつもりなら、夢の八千代ちゃんは永遠に存在し続ける必要がある。それなのに、この世界には夢の八千代ちゃんがいないのではないか。その矛盾を突いた吾朗に、八千代ちゃんは確かに断言したのだ。夢の八千代は「いない」のだ、と。


 ――気付いていたのね。ごめんなさい。ずっとあなたに黙っていて。


 しかし、今実際に、八千代ちゃんは夢の八千代とこうして話している。あたかも、旧知の親友のように。実在する、「人間」と接するかのように。



 夢の八千代は、確かに存在したのではないだろうか?



 だが、夢の八千代を名乗る、その無機質な球体の言葉は、私の予測を大きく裏切るものだった。




 ――私は、あなたと違って、この世界に生まれなかった。

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