第63話
――遠い昔に、過去を変えようとした男がいた。
名を、伊那倭という。
未来を知ることが出来る妹を持ち、そして失った哀れな男。
妹を失うきっかけとなったのは、桐の祠の儀式。
妹から聞いたその儀式によって妻を失い、妹を責めた拍子に崖から妹が滑落した。
男は妹の死を自らの責とし、過去を変えようとした。
生前の妹の予知から、儀式の情報をひた隠しにすることで。
しかし、それは失敗に終わり、過去が変わることはなかった。
『……お前も、過去を変えようとしているんだな?』
八千代ちゃんは、伊那倭さん――つまり自分のお兄さん――と同じ道を進もうとしているのだろうか。私が驚いた顔で吾朗を見守ると、
「――うよ」
とか細い声が隣から聞こえてきた。
「ん?」
と吾朗が聞き返すと、今度ははっきりと
「だから、そうよ」
という声が上がった。八千代ちゃんだった。
「この世界には、人間がまるでいない。お前も、俺も、静稀も、あと代志……佐我屋さんも、みんな過去から桐の祠で飛ばされてきただけだ」
吾朗が続けると、私はふと思い出して、
「そ、そうだよ! それってやっぱりおかしい!」
と口を挟んだ。どう考えても、八千代ちゃんの発言は矛盾している。
「仮に八千代ちゃんが夢でもう1人の八千代ちゃんに指示を出してずっと桐の祠の儀式をさせ続けても、八千代ちゃんがお兄さんと代志子さんと3人で永遠に暮らしていくことなんて出来ないじゃない」
3人で永遠に暮らしていくためには、桐の祠で私達のような「生け贄」が永遠に送り飛ばされ続けなければならない。
「だって、今この世界に人が全然いないってことは、いずれ桐の祠で送れる人がいなくなるってことでしょ? お兄さんと代志子さんの代わりを作る人柱がなくなっちゃうってことは、いつか八千代ちゃんの計画も止まっちゃうってことだよね?」
そう、だから、八千代ちゃんの試みは、八千代ちゃんがこの荒廃した世界に降り立った時点で、そもそも不可能であることが確定している筈だ。それに、もう1人の八千代ちゃんが儀式を続けていくには、彼女も永遠に存在し続ける必要がある。でも、この世界にはもう1人の八千代ちゃんがどうやらいないようだ。つまり、もう1人の八千代ちゃんも、何らかの理由で今の時点まで存在し続けてはいない、ということ。
ずっと胸に引っ掛かっていたモヤモヤを吐き出して、私はじっと八千代ちゃんを見つめた。八千代ちゃんは視線を逸らすこともなく、また表情を変えることもなく、黙って見つめ返してきた。
「ああ、だから、過去とこの世界の因果を考える以上、こいつの計画は破綻している。だけど、こいつは決行した。ずっと、夢の八千代に儀式を続けさせてきた」
何かを企んでいるのか、八千代ちゃんは表情を変えることもなく、ただ黙っていた。代わりに、吾朗が私の後に続いた。
「それは何故か? 考えうる答えが1つあった。それは、過去とこの世界の因果が問題である以上、それを断ち切ればいい、と八千代が考えていたからだ」
過去と今の因果を断ち切る、と聞いて私はパッと意味が分からなかったが、先程の吾朗の発言を思い出し、ようやく腑に落ちた。
「そっか、だから過去を変える必要があったんだ。かつてのお兄さんが八千代ちゃんの予知の情報をコントロールして過去を変えようとしたように、今度はもう1人の八千代ちゃんへ与える情報をコントロールして……」
とそこまで言ったところで、私の言葉は不意に遮られることとなった。
「ええそうよ。そうよ。変える気だわ。こんな誰もいない世界に、永遠の未来も何もあったものじゃない。しかも、過去まで確定しているなんて、どうしようもないじゃない。だから、私は過去を変えるの。この世界から人間がいなくなってしまった原因を突き止め……あ」
急に喋り出した八千代ちゃんは、ふと目を丸くして言葉を濁した。表情には出ていないが、恐らくこれは「しまった」という目なのだろう。八千代ちゃんは、余計なことを言ってしまったのだった。
「へえ、原因を、突き止め、ね」
すぐさま吾朗が拾った。そうか、八千代ちゃんは知らないんだ。この世界の成り立ちを。どうして、人がいなくなってしまったかを。
「俺らの記憶を抽出していたのも、部分的には関係があるのかもな。この世界の機械には残っていない些細な情報をくまなく集めるため。そして人間がいなくなった原因さえ突き止めれば、それを回避するように夢の八千代に支持できる。その後は何だ? ずっとこのくだらない儀式を続けさせる気だったのか?」
吾朗が嘲笑うかのように言い放つと、八千代ちゃんは瞳を大きく開き、威嚇するかのように叫んだ。
「くだらないとは何よ! 過去を変えても、この世界まで変わる保証はないわ! 変わってしまった過去とは独立に、……ただ続くだけかもしれない。何の希望もない未来が、永遠に。だけど、儀式が続けられれば、私は悲願を叶えられる。それだけが私の……唯一の希望だと言うのに」
露骨に怒りと憤りを現した八千代ちゃんに、私は恐れではなく、哀れみを覚えていた。未来の技術で永遠に動き続ける機械の体。元の肉体から離れても、消えることのない魂。本来ならば永遠を謳歌させてくれるだろうそれらも、無人のこの世界においてはまるで呪いにしかならない。
そんな仕打ちを受けてなお、何が起きたかも分からない過去を変えるという、途方もなく深く暗い霧に包まれたような計画を抱いている。ただそれだけを目指して、これまでどれだけの回数、桐の祠の儀式を繰り返させたのだろう。どれだけの年数、この霧の中を歩き続けてきたのだろう。
そう考えると、私は八千代ちゃんを、ただ「かわいそう」と思ってしまった。
「ふん、でもいいわ、そろそろ時間よ」
すると、八千代ちゃんは急に元の余裕を取り戻したかのような笑みを浮かべた
「忘れたの? いえ、まだ『忘れて』はいないわよね? だって、今から忘れるんですもの。ねえ、これらの機械は、あなた達の心を上書きすることができるのよ?」
そう言って、八千代ちゃんはふわりと宙に浮き、両手を掲げた。一斉に周囲がほんのりと輝き、辺りからゴゥン、ゴゥン、という重低音が唸りを上げ始めた。
「何故あなた達が記憶を取り戻したのかは知らないけど、もう一度忘れてしまえば何の意味もないの。よくもまあのんびり話してたわね。おかげさまで再起動を済ませる時間が稼げたわ。一度起動してしまえば、後はもう避けられない。さあ、時間を掛けて、忘れていきなさい」
迂闊だった。記憶を取り戻したせいで安心していたのか、この屋敷には、この部屋には、私達の記憶をいくらでも改竄できる機械が置かれているのだ。
忘れることへの恐怖を思い出し、背筋を鋭い悪寒が襲った。不安げな面持ちで隣を見やると、そこには、口元に笑みを浮かべた吾朗がいた。
「時間を稼いだのは、俺も同じだ。もう二度と、この名を失うことはない」
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