第6章 静稀と吾朗と八千代

第62話

『遅くなって悪かったな、静稀――』


 一筋の風が吹き流れた。それと同時に、よく熟れた果実から果汁がにじみ出るかのように、じわり、じわりと色々な景色、声、匂い、想いが私の中に蘇っていった。


 跡形もなく失われていた思い出が、少しずつ、私の胸に染み渡った。


 嫌なこと、楽しかったこと、辛かったこと、頑張ったこと。


 今となっては1つ1つが大切な宝物のような思い出。


 ゆっくり、ゆっくり反芻するようにそれらが脳裏をよぎった。


 私は言葉をなくし、ただ鑑賞に浸っていた。


 安心したのか、嬉しかったのか、膝が折れて地につき、その眼からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。


 私はこの世界に来て異変に気付いた時のことを思い出した。自分や吾朗の名前も忘れ、ただ子供のように泣きじゃくってからまだあまり時間が経っていないのに、ずっとずっと昔のことのようだった。


 それもそうだ、私達は夢で永い日々を過ごしたのだから。


 これはもう夢じゃない。


 私達は、自分を取り戻したんだ。




「……!」


 そんな私とは裏腹に、八千代様……いや、八千代ちゃんは眉間に少し皺を寄せ、呆然と私達を眺めていた。相変わらず表情には出にくいようだが、まさに信じられないといった様子だった。


「記憶の消去は完全なものじゃないみたいだな。ちょっとしたきっかけで、こうも簡単に戻ってしまうんじゃ」


 吾朗が声を掛けると、八千代ちゃんは冷たい目線で吾朗を睨み、


「あんちゃん! 何てことを! ……一体どうやって!」


 と声を張り上げた。吾朗は飄々とした様子で怯むこともなく、


「落ち着け。俺は『あんちゃん』じゃない。『お前』の兄はもうとっくに死んだだろ」


 と返事をした。それには八千代ちゃんも目を丸くし、そして一瞬悲しげな表情を見せた。すぐに怒気のこもった声で


「うるさい、質問に答えなさい! どうして思い出したの!」


 と続けた。




 私が自分を思い出せたのは、「静稀」という名を取り戻したから。思えば私がこっちで吾朗に付けてもらった「お静」という名前は偶然なのか本名の「静稀」と似ていた。


『お静……? 何で?』


 と驚きを隠せずにいた八千代ちゃんの意図が今は分かる。忘れさせた筈の名前が思い出されたのかと勘繰ったのだろう。だけどそれ以上追求しなかったのは、「お静」という名が私の本名に近いということを悟らせないため。


 名前が特別な情報なのかは分からないけど、忘れさせた情報を思い出されると、今みたいに全てが戻ってしまうリスクがあったのだと思う。


 心と体は表裏一体。物質で構成される体は、すぐには変化させきれない。ほくろが増えたり体調が変わったりはあっても、心の器としての機能はそう変わらないのだろう。だからこそ、心を上書きしても、消された思い出の残滓が器に残ってしまう。


 私達は、間に合ったんだ。体が完全に上書きされる前に、心を復元できた。


 ――でも、何故?


 私は吾朗に言われて名前を思い出せた。


 しかし吾朗は、どうやって自分の名を取り戻したのだろう?




「この骨には、色んなやつの想いが詰まっている」


 すると吾朗は、大事に抱えている約束の骨――曰く八千代ちゃんの遺骨だとのことだが――を天に掲げた。活き活きと目を輝かせ、ちらりと私を見て、少し恥じらいを見せた。


 私も「朝日静稀の状態で」約束を思い出したのは初めてなので、少しどきまぎと複雑な想いが去来して、顔を赤らめた。思えば、私は「代志子さん」の時にひどく吾朗に恥ずかしいことを言ってしまった気がする。


 吾朗も同じような思いなのか、少し咳払いをして表情を整えると、


「俺に名前を思い出させてくれたのは、その中の1人の想いだ。もちろん、そいつの想いが骨にこもっているなんて知らなかったから、全くの偶然なんだけどな」


 そういえば、吾朗の顔色は優れ、いつの間にか汗も引いていた。骨で傷を付けたらまた高熱で倒れるのかもしれないと思っていたが、今回はそうでもないようだった。


「骨に想い? 何を言ってるのか分からないわ。生命を感じないそのガラクタに、心の器の機能でもあると思ってるの?」


 と八千代ちゃんが食いつくと、吾朗はニヤリと笑った。


 そして、深く溜め息を付き、一言、こう言った。


「ある。生命? 宿ってるぞ。もう1人の『お前』が」




 もう1人の、八千代ちゃん。


 それは、夢の八千代ちゃんのことだろう。八千代ちゃんの夢に現れる、もう1人の八千代ちゃん。それは当時の八千代ちゃんにとっては未来の住人で、同時に未来の預言者でもあった。


「え?」


 私は思わず口を挟んでしまった。だって、吾朗が「この世界」での夢の八千代ちゃんの所在を聞いた時、八千代ちゃんはこう答えていたのだから。


『いないわよ? 初めから、そんな人』


 あれは真実なのだろうか? そして、八千代ちゃんの遺骨に夢の八千代ちゃんの想いがこもっているって、どういう意味なのだろうか?




「だから、意味が分からないわ」


 八千代ちゃんはじれったそうに吾朗を問い質した。グッと吾朗に詰め寄ると、吾朗は慌てて立ち上がり、八千代ちゃんから距離を取った。


(ああ、もう妹じゃないからね……)


 ついさっきまでは八千代ちゃんにも「代志子さん」役の佐我屋さんにも堂々と話していたけど、あれは八千代ちゃんのお兄さんの性格だったんだろう。


 元来、吾朗はそんなにコミュニケーションが得意な方ではない。私以外の女性とそんなに近くで話すことが出来ないのだ。


 そう、私以外には!


「何よ……」


 私がフフンと八千代ちゃんを見下すと、八千代ちゃんは露骨に不満そうな態度を見せた。元々は怖かったこの子も、今この瞬間は少しだけ恐るるに足らず、といった印象に変わった。




「慌てんなよ。順を追って話すから。まずは、お前の目論見からだ」


 急かす八千代ちゃんに対し、吾朗はあくまでも自分のペースを変える気はないと言った様子で話題を変えた。


「どう考えても矛盾しているお前の説明。夢の八千代は存在しないと言った意味。それらを考えていった結果、俺が辿り着いた結論は1つだ」




 私と八千代ちゃんの視線が吾朗に集まった。


 張り詰めた空気に釣られてか、吾朗は不意に真面目な表情を見せ、そして言った。


「……お前も、過去を変えようとしているんだな?」

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