第61話
それは、禍々しく凹凸を強調した、骨のようなものだった。
黒く、ところどころ灰がかったその塊は、紛れもなく私達の約束のものであった。
「良かった。ここにあった。どんなに時が流れても、どんなに世界が変わっても、俺達の約束は、ここに残っていたんだ」
伊那倭様が嬉しそうにそれを眺めるも、私の心はいっそう靄がかったように不安で覆われていた。
この「約束」は、本当に私達を救ってくれるのだろうか?
これを掘り当てたところで、何も状況は変わらないのではないか?
唯一の希望があったからこそ、それにすがって諦めずにいられた。だがもしもその希望がまやかしであることに気付いてしまったら、私は前を向けるだろうか?
私がそんなことを黙考していると、私の不安を感じ取ったのか、
「大丈夫だ」
と伊那倭様が囁いた。
そして、私は目を疑った。
「え、伊那倭様、何を?!」
――私は目眩のする体に鞭を打ちながら伊那倭様を抱きしめ、必死に声を掛けていた。
程なくして八千代様も異変に気付き、再び空から舞い降りてきた。
「あなた達! 一体何をしたの!!」
声を荒げる八千代様の表情はいつになく険しく、そしていつになく悲しげだった。その体が作りものでなければ、とっくに泣き出していそうなほどだった。
「八千代様! 伊那倭様が……伊那倭様が……!」
取り乱す私をよそに、八千代様は伊那倭様を抱え、その体を浮かせた。そして私を一瞥し、逡巡の後に私も抱え、勢い良く宙へ舞い上がった。
「屋敷に戻るわよ! すぐに処置するわ!」
伊那倭様は、掘り出した骨を自らの指先に押し当て、力の限り強く引っ掻いたのだった。
伊那倭様の指先にスッと赤い筋が現れ、それはみるみるうちに滲み出し、ダラダラと血液を流し始めた。
そして動揺する私の前で、伊那倭様はバタリと倒れてしまった。
あの日を思い出した。
指先を骨で少し切ってしまった伊那倭様が、高熱を出して学校をしばらく休んだこと。
あの時の私は本当に伊那倭様が心配で、もしも伊那倭様が死んでしまったら、とばかり考えていたものだ。もっとも、回復して登校してきた伊那倭様自身はケロッとしていて、そんな心配なんてすぐに消えてしまったのだが。
今、伊那倭様は荒く息をしていた。顔は真っ赤で、体中に汗をにじませていた。
この山を降りる際には対して汗もかいていなかった伊那倭様がこの一瞬でここまで発汗していることは、事態の重さを物語っていた。
全てを見通しているかのような八千代様でさえ、状況が掴めずにいる。
一体、伊那倭様はどうしてこんなことをしたのだろう?
――しばらくして、伊那倭様が目を覚ました。
私達は地下の部屋に通されていた。見たこともない、恐らく現実世界でも見たことがなかっただろう、未来的なからくりに囲まれた異質な空間だった。
「ここは……そうか、八千代が言っていた地下の部屋か」
伊那倭様は私に弱々しい笑顔を向けた。
「そうよ。あんちゃん、どういうことなのか説明して」
気が立っている様子の八千代様に対し、伊那倭様は茶化すかのように
「おいおい、倒れた人間に無茶させるなよな」
と返した。しかし、私も伊那倭様の本意が聞きたかったので、
「伊那倭様!」
と咎めた。私の不安げな表情を見た伊那倭様は、少し良心が痛んだのか、申し訳なさそうに口を開いた。
「戻るんだ。元の俺に」
そして、倒れながらも離さなかった骨を掲げ、私達に見せた。
「これは、八千代だ」
ほんの僅かに静寂が流れた。
「そんなもの、私は知らないよ」
呆れたように返す言葉とは裏腹に、八千代様からは伊那倭様の言葉への疑いを感じなかった。
私もわけが分からず、伊那倭様と八千代様を交互に眺めるしかなかった。
「そうか。なあ八千代」
伊那倭様の呼び掛けに、
「何よ」
と不満そうに八千代様は返事をした。じっと伊那倭様を見つめながら、その本心を伺っているようだった。眉間に皺を寄せ、からくりだからなのか息遣いこそ感じなかったが、深く呼吸をしているかのように逸る気を鎮めていた。
「お前の遺体、どこにある?」
伊那倭様が問い掛けると、何かが気に障ったのか、八千代様はムッとして
「だから知らな……」
と言いかけて口をつぐんだ。
「桐の祠付近で足を滑らせたお前は、深い谷底に強く体を打ちつけた。その亡骸は誰にも見咎められることなく風化し、永い時が流れた。いつしかその谷には川が流れ込むようになり、たびたび大雨に見舞われ激流と化すことがあった」
私は静かに息を呑んだ。八千代様も黙って伊那倭様の言葉に耳を傾けていた。
「流れが強まるたび、お前の亡骸は少しずつ下流へ流れ、いずれ河原に落ち着いた」
何故、伊那倭様はこんなことが分かるのだろう? 私は疑問だった。
八千代様も困惑を隠せずにいた。着物の裾を掴む手をギュッと握りしめ、口を固くつぐんで不安げな面持ちで伊那倭様を見守っていた。
「そして、これがその亡骸だ」
私達の「約束」が、八千代様の遺骨だと言うのだろうか。
とてもじゃないが、人の骨には見えない。
それは恐竜の化石と言われても疑わないような、大きくて刺々しさのある風貌をしている。これのどこが、八千代様なのだろうか。
しかし、伊那倭様が冗談を言っているように見えなかった。それどころか、あの八千代様までうなだれるように考え込み、まるで伊那倭様の言葉を信じ切っているようだった。
すると伊那倭様は顔を八千代様に向け、すっかり気力を取り戻したのか、体を起こし始めた。
「ちょっとあんちゃん、まだ寝て……」
すかさず制止する八千代様の言葉を待たずに、伊那倭様は言った。
「俺はお前の兄ではない。俺の名前は、海野吾朗だ」
私は目を丸くしていた。
(海野、吾朗……)
どこか懐かしく、愛おしい響きだった。心の奥底で引っ掛かっていた何かが外れたような気がした。
そして、吾朗は、私に笑顔を向けて呼びかけた。
「遅くなって悪かったな、静稀」
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