第60話
『さあてね。あんちゃんと一緒に考えたら?』
その言葉が私の胸の奥に引っかかっていた。私の呼び止めも虚しく、八千代様はすぐにその場を離れた。それを黙って眺める伊那倭様の様子も、私には腑に落ちなかった。
「……いいのですか?」
と私が伊那倭様に尋ねると、
「何がだ?」
と伊那倭様は返した。
私は顔から血の気が引くのを感じた。
伊那倭様は「自分の変化」に気付いていないようだった。
あれほど八千代様を警戒し、距離を置いたり探りを入れたりしていた伊那倭様が、今は八千代様を受け入れているように感じた。少なくとも、敵意を向けているようには見えなかった。
そして何より、八千代様の言葉。
『さあてね。あんちゃんと一緒に考えたら?』
八千代様が伊那倭様を呼んだ。「あんちゃん」という、遠い昔に自分の本当のお兄様へ向けていた呼び方で。これまでにもそう呼んでいたかは分からない。しかし、あの言い方からははっきりと伝わってきた。
八千代様が、今の伊那倭様お兄様として認めているということを。
もし伊那倭様は八千代様のお兄様として心変わりし、八千代様もそれに気付いているとしたら。
私はもう、1人なのかもしれない。
いや、いずれ全てを忘れ、3人で生きていくのだろうか。
そんなことは、考えたくなかった。
だから、私は力強く問いただした。
「伊那倭様、まだ、私との約束を、覚えていらっしゃいますか?」
唇を噛み締め、じっと伊那倭様の顔を見つめた。その真剣な様子に、伊那倭様はあっけにとられたようで、ほんの少しだけ間をおいた。そしてすぐに私に笑顔を向け、こう言った。
「忘れるものか。ただ……」
そこで、伊那倭様の言葉が詰まったように感じた。ただの一呼吸に過ぎないと思う。しかし、焦燥感で胸がざわめきじわじわと思考が蝕まれている私には、その一呼吸でさえも、時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えるほど不穏に感じる間であった。
そして伊那倭様の次の言葉を、私は頭の中で何度も反芻した。
「思い出したことがあるんだ――。俺は――」
ザク、ザク。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
伊那倭様は金具の付いた道具で器用に河原を掘っていた。私はその様子を眺めながら、複雑な思いで胸がはちきれそうになっていた。
「ここでもないか。こっちかな?」
そんな私の視線を知ってか知らずか、伊那倭様は淡々と周囲を穴だらけにしていった。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
「それにしても都合のいいものだ、この金具、木の柄にちょうど良い取っ手がついている。まさに、穴を掘るために作られたものなのだろう。一体誰が置いたのか」
伊那倭様は汗で滲んだ額を腕で豪快に拭うと、休むことなく手足を動かし続けていた。私と共にここまで走り、私が倒れている間は泥人形を退けんと戦い、そして今も穴を掘り続けている。
その尽きることない力は、太古に存在した本当の伊那倭様、八千代様のお兄様のものだろう。正確には、伊那倭様の体が八千代様によって、お兄様の体を模倣した情報で塗り替えられているのだろう。
私達は所詮、八千代様の思い出の中に生きる理想の家族の心と体を運ぶだけの存在で、何ら実体もないのだろうか。
そう考えると、ひどく寒気がした。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
単調な土音を聞き流しながら、私はずっと、先程の伊那倭様の言葉を反芻し続けていた。
『思い出したことがあるんだ――。俺は――』
その言葉の真意は分からないが、それは私の心に深く突き刺さり、大きな風穴を開けている。
『思い出したことがあるんだ――俺は俺であり、伊那倭でもあり、八千代でもある』
八千代様の思惑通りに私達の心と体が塗り替えられているとしたら、これはどういうことなのだろう。伊那倭様が、八千代様のお兄様としての自覚だけでなく、八千代様としての自覚も芽生えてしまっている。そんなこと、八千代様は意図していない筈だ。
何故?
私は伊那倭様にそれ以上聞くことができなかった。目の前にいる伊那倭様が、既に私の知っている伊那倭様ではないかもしれないと思うと、ただ怖かった。
だけど、希望がないわけではない。伊那倭様が掘る先にある、私達の「約束」。それさえ見付ければ、きっと元通りになる。
そんな保証はどこにもないのだけれど、私は他にすがる宛もなかった。だから、ただ伊那倭様の掘る手足をじっと眺めた。
ザク、ザク。
ザク、ザク。
カツン――。
金具が何かに当たる音がした。これが初めてではない。すっかり細かく砕けた小石の中にも大きな石はちらほら見え、何度か伊那倭様が掘り出していた。
しかし、私はそちらに意識を奪われるしかなかった。現状、伊那倭様の掘る先しか、私の不安を拭える材料はなかったのだから。それで大きな石が掘り当てられたとしても、伊那倭様がまた次を探してくれる。私には、それを眺めるしかなかった。
「あった」
正直、何かが掘り当てられることをさほど望んでいなかったのかもしれない。何故なら、もし掘り当てられたとして、それが実際は状況を何ら変えなかったとしたら、それこそ絶望に違いないからである。望みが残り続けている、そういう状況を私は無意識に欲していた。
だが、そんな私の願いも、ここで終わった。
ついに、伊那倭様が掘り当ててしまったのだ。
私達の、約束を。
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