第59話

「八千代様が……」


 私はそう呟くと、少し離れて寂しげに背を向ける八千代様を見やった。わずかに覗く横顔が、屋敷での雰囲気とは違った、悲しみを帯びたものに思えた。まるで、同情を込めたようなぼうっとした瞳。その後姿からはっきりとは分からなかったが、八千代様は地べたに散らばる泥人形たちの残骸を眺めているようにも見えた。


 伊那倭様は私と八千代様を交互に見つめ、そして続きを語り出した。


「そして八千代は泥人形を薙ぎ払った。まるで扇子を仰いで花吹雪を散らせるように、八千代の舞があの泥人形たちを退けた。やつらは崩れても、崩れても、泥を寄せ、元の姿を現したが、何度でも、何度でも、八千代は薙ぎ払った」


 私には想像が付かない話だった。伊那倭様を追い詰めた化物を、八千代様があの小さな体で退けたなんて。しかも空から現れた、と。しかし、八千代様の体が未来のからくりであることを思えば、それもありえないことではないのか、と私は思った。


「しばらくそうしていると、しとしとと降り続いていた雨が弱まり、それに続いて泥人形の動きが鈍くなっていった。心なしか、やつらにも焦りや悶えが見えてきた。そして、雨は止んだ」


 私は何気なく掌を天に向けた。生ぬるい風が指を撫でた。雨は、もう止んでいる。


「それから、やつらの動きは止まった。八千代が再び薙ぎ払うと、泥の塊が脆くも地に崩れ、もう元には戻らなかった」



 そう言って、伊那倭様はまたも八千代様を見た。



「俺達は助けられたんだ。あの、八千代に」




 私達の約束。


 思い出の河原。


 埋め直した化石。


 泥のような雨。


 泥人形の奇声、怒号、そして急襲。


 不死身。


 八千代様。


 私達を助けた。




 この短い間に、多くのことを考えすぎた。私は少し頭をまとめ直し、そして今すべきことを考えた。まずは目的の化石を、いや、八千代様から逃げるべきか、その必要はあるのか。


 私達は八千代様にとって、大事な体だ。だからそれを助けるのは当たり前のことと考えた。そもそも空から来たということは、私達の動向が完全に掌握されていた。私達は逃げられてすらいなかった。それもそうだろう、八千代様は私達を束縛する素振りすらこれまで見せてこなかった。常に泳がせていた。その気になればいつでも捕まえられるのだろう。では、どうすればいいのか。このまま泳がされればいいのか。八千代様は私達を野放しにする目的があるのだろうか。


 答えのない問い掛けに、私はもんもんと頭を巡らせた。伊那倭様は黙って私を眺めていた。伊那倭様にも答えはないのだろう、何も話し掛けては来ず、ただ穏やかな面持ちで八千代様を眺めていた。


(……?)


 私はそんな伊那倭様の様子に、はっきりと違和感を覚えていた。




 おもむろに、八千代様がこちらを振り向いた。


 ゆっくりとした足取りで私達の方へ歩み出した。


 静かだった。


 小石の転がる河原道を、八千代様は音もなく、まっすぐと歩いてきた。


 その表情は読めず、ただじっとこちらを見ていた。


 先程まで泥人形を眺めていた時のような哀愁は感じられなかった。



「お目覚めのようね」


 さも今気付いたかのような口振りだったが、私は八千代様の言葉から得られる情報を鵜呑みにはできなかった。何しろ、八千代様の考えは私にまるで想像も及ばなかったからだ。とにかく、信じてはいけない。ただそれだけを考えていた。


「ああ、ついさっきな。そして現状を伝えたところだ」


 口をギュッとつぐむ私の代わりに伊那倭様が八千代様に答えると、


「そう」


 と返事をし、八千代様は宙へ身を浮かばせた。


 私はその光景に目を丸くしたが、すぐにハッとして、


「お待ち下さい!」


 と呼び止めた。八千代様は空への静かな歩みを止め、訝しげな顔で


「何?」


 と聞き返した。その表情にはいかにも面倒くさそうな意思が読み取れたが、敵意は感じなかった。


 それは、夢で見た、新たな家族として迎え入れた代志子さんを邪険にする時の八千代様だった。愛する兄を巡る嫉みが混ざった、けれど家族として認めた相手への、幼くも複雑な想い。それを、今の八千代様が私に向けていることに気付いた。


「あの泥人形は何なのですか? どうして私達を助けたのですか? 何故私達を野放しにさせているのですか?」


 私が咳き込むように八千代様に聞くと、八千代様は溜息をつくような仕草をし、こう言い放った。


「さあてね。あんちゃんと一緒に考えたら?」

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