第58話

 キャオ――




 挟まれていた。


 細く浅い川に沿った河原道の両脇の林に、泥人形が並んで迫っている。


 近い方の林側はもうはっきりと視認できるほど。遠い方の林側も、姿はおぼろげながらも声が響いてきた。


 走る。走る。



 小石を蹴る足音がずっと聞こえていた。



 少し強まった雨音がずっと聞こえていた。



 泥人形の奇声がずっと聞こえていた。



 足がほつれ、倒れた。



 ほつれなくても倒れていたと思う。



 私の体は吐き気と疲労でもう限界だった。




 伊那倭様が振り返って何か叫んでいた。




 泥人形の奇声がますます近付いてきた。頭にずっとこだましていた。




 私はそのまま気を失った――。







「――代志子。代志子、目を覚ましてくれ」


 気が付くと、私は河原に寝そべっていた。ゴツゴツした小石が背中に当たっていて、とても痛かった。ただ、頭だけは柔らかな感触に乗っていた。


「代志子」


 目を開けた私の顔のすぐそばに、伊那倭様の顔があった。私は少し恥ずかしかったが、私の頭を支えてくれているのが伊那倭様の手だと分かり、嬉しかった。


 その直後、私は先程までのことを思い出し、胸が飛び跳ねた。


「泥人形! 伊那倭様、泥人形は!?」


 私が思わず声を上げると、伊那倭様はやや複雑そうな面持ちで、視線を上げた。




「あ……」



 私が視線の先を見やると、そこには見覚えのある小柄な背中があった。


「八千代様……」


 その後ろ姿にはどこか哀愁が漂っており、私は八千代様の目的を一瞬忘れ、ボーッと見とれてしまった。そしてすぐに屋敷での話を思い出し、


「伊那倭様! これは……」


 と伊那倭様に咎めた。八千代様から逃げなくてはならないというのに、何故悠長に休んでいるのか。私は泥人形のことといい八千代様のことといい、状況が全く掴めないまま思考がぐるぐると渦巻いていた。




「……助けられたんだ、八千代に」


 伊那倭様は、ボソリと呟いた。


「え?」


 私が思わず聞き返すと、伊那倭様は河原に落ちていた土の塊を拾い上げた。それは、不自然なほどカラカラに乾いていた。そう言えば雨は止んでいる。私はそんなに長い間眠っていたのだろうか。そうでなければ、地に落ちている土がこうも乾いている筈がない、と思った。



「これは、泥人形の成れの果てだ」


 伊那倭様はそう言って、手の上の土の塊をまじまじ見つめた。私は何も言葉が浮かばず、ただ伊那倭様の手を眺めていた。


「代志子が倒れた後、泥人形は1匹、また1匹と俺達の下に辿り着いた。その奇声は威嚇のようであり、ギラギラと睨みつける真っ白な瞳からは明確な敵意を感じた」


 伊那倭様は首を上げると、遠い昔話をするように天を仰いで語り出した。


「俺は必死に泥人形を手で薙ぎ払った。見た目通り、それは脆く崩れ落ちた。もう1匹も、渾身の蹴りを入れた。砂山を払うように、泥人形はたやすく退けた……つもりだった。思いの外弱かったことに安心をしていたのも束の間、地に落ちた泥が、瑞々しくプルプルと震えていることに気付いた。震えているだけではない。動いている。集まっている。次第にその動きが早まり、ズルズルと泥の塊となり、それはあっという間に人の大きさをしのぎ、元の泥人形へと戻った」


 そして、伊那倭様は手に乗せていた土の塊をグッと握りしめ、粉々に砕いた。


「慌ててその泥人形も蹴り崩した。何度も何度も蹴って、地に落ちた泥も踏んだ。そうこうしている間にもう1匹の泥人形の残骸も腰の高さまで集まっており、それを蹴り崩した。新たにもう1匹の泥人形が辿り着き、それも薙ぎ払った。恐る恐る足元を見ると、先程踏み付けた泥が、集まり始めていた。遠目に、ぞろぞろと他の泥人形も近付いてきているのが見えた」


 私は背筋がゾッとするのを覚え、両腕を抱え込んだ。


 不死身の化物。


 そんなものの大群に襲われたなんて、考えたくもなかった。


 心配な面持ちで伊那倭様に目を向けると、伊那倭様は再び八千代様を眺めていた。


「いくら簡単に崩せるとは言え、いつかは俺も力尽きる。そうでなくても、泥人形の山に囲まれば、泥の海に取り込まれてしまうだろう。先の見えたあがきに、俺は絶望していた。そして更に3匹の泥人形が辿り着き、数を捌けなくなってきて、もう駄目かと思い始めた頃に、突然現れたんだ。……空から、八千代が」

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