第47話

「そんな……」


 この世界に来る前に持っていた名前を忘れてしまった私に、伊那倭様が付けて下さった名前。




『――お前のこと、何て呼んだらいいかな?』


『そうですね……このまま名もなき身では、何かと不都合でしょうし……』


『適当に決めようか』


『ひどいですね、適当に、とは』


『まあそう気を悪くするなって。実は何となく、ぴったりな名前を思い付いたんだ』


『あら、何ですか?』


『代志子、だ。いい名前だろう?』




 私は、代志子という名を与えられた時の情景がありありと思い出すことができた。それだけではない、新たな名を得てから、代志子さんと、つまり佐我屋さんと会話もしている。佐我屋さんに代志子と名乗り、佐我屋さんのことを代志子さんと呼んでいた。


 ……そんなこと、ありえる筈がない。


「聞く耳を持つな! ……えと」


 伊那倭様は動揺する私に向かって強く言い放った。しかし、その伊那倭様自身も、その表情には動揺の色が浮かんでいた。


「ええ。こんなことは、ありえないことです。分かっております。八千代様によって、思い出を書き換えられてしまったことは」


 私は伊那倭様の動揺の理由を悟っていた。強く言い放った割に、歯切れの悪い口調。伊那倭様は、私に呼び掛けようとして、それを踏み留まったに違いなかった。何故なら、伊那倭様自身も、恐らく私と同じ記憶を与えられてしまったのだから。


「伊那倭様。私のことは代志子と呼んで下さって構いません」


 私は、伊那倭様の方を向かず、かつできるだけ表情を表に出さないようにそう言った。


 それはあまりにも悔しくて、気を抜けば眉間に皺を寄せてしまいかねない想いだった。


「しかし……」


 納得のできない顔をした伊那倭様をよそに、八千代様は嬉しそうに私達をあざ笑った。


「あはは、代志子、ねえ代・志・子! 認めたわね! あなたの名前! 代志子! 代志子だわ! これからもよろしくね! 3人で一緒に、仲良くやっていきましょうね! あはは!」




 私達に残された猶予は、あとどれくらいなのだろう?


 いつ、私達は私達を失ってしまうのだろう。


 私もそこに横たわる佐我屋さんのように、自分が何者だったかを忘れ、自分を正真正銘の代志子さんと思い込み、伊那倭様と、八千代様と、何も疑問に持たず暮らしていくようになるのだろうか?


(あれ……?)


 そう考えていると、私はふと、おかしな点に気付いた。


 八千代様の目的は、3人で一緒にずっと暮らしていくこと。


 そう、「3人で」だ。


 佐我屋さんの代わりに私が代志子さんになるのだろう。


 だけど、伊那倭様は……?


 伊那倭様は、ここにいる「誰の代わりに」伊那倭様になるのだろうか?




「八千代。聞きたいことがある」


 私が疑問を口にしようとしたところで、伊那倭様が先んじて八千代様に問い掛けた。その目は八千代様をまっすぐ見据え、諦めを感じさせない力強いものだった。伊那倭様は八千代様を説得し、彼女の企てをやめさせようとしている。


 元の世界に帰るために。その揺るがない意思をひしひしと感じて、私はゴクリと生唾を飲み込んだ。私もまた、諦めるわけにはいかないと思った。私は伊那倭様の言葉を待った。私と同じ疑問を持ったのだろうか? と期待したものの、伊那倭様の口から出た問いは、全く意表を突くものだった。


「お前の体は未来の技術で作られた何かなのだろう?」


 八千代様の話を信じれば、この屋敷の地下には私達にとって未来の技術で作られた装置が大量にあるのだろう。その1つが、八千代様の憑いたその体の筈だ。それは八千代様の話から、聞かずとも何となく分かっていた。


「そうよ?」


 意図の分からない確認に、八千代様は首を傾げながら答えた。すると伊那倭様は続けて、


「その体はさぞ丈夫で、永遠に動かせるものなのだろう。そして八千代の心も、肉体と共に、永遠に生き続けるわけだ」


 と語った。やや含みのある言い方に、八千代様がやや眉をしかめたように見えた。表情の乏しい八千代様から、ほんのわずかにだが、苛立ちのようなものを感じた。


「そうよ。だから何?」


 露骨に棘のある口調で、八千代様は返事をした。


 私が夢に見た八千代様とそのお兄様の関係は、もう少し八千代様が敬意を払う側であったように感じた。もちろんぶっきらぼうな話し方は今と変わらなかったが、愛情から来るものだろうか、八千代様がお兄様に向ける言葉は、きつい口調以上に親しみがこもっていたのは確かだ。


 今の聞き返しには、あまり親しみのようなものは感じなかった。もしかして、八千代様は伊那倭様のことを、まだお兄様として投影しているわけではないのだろうか?




「そして八千代は夢を通じて夢の八千代に指示を出し、桐の祠の儀式で俺達のような『生け贄』をこの世界に送り込む。永遠に、ずっと」


 伊那倭様が少し、口元に笑みを浮かべた。伊那倭様が友達と遊戯にふける際によく見せていた、挑発のような、はたまた単に楽しさから来るだけかもしれないけど、何より私の好きな表情だった。


 八千代様は、まだ伊那倭様を自分のお兄様と心の底では認識していない。伊那倭様は、まだ元の世界での面影を残している。


 まだ、時間がある。


 ほんのわずかに感じ取れた希望の欠片に、私は武者震いを覚えた。




「だから、何よ」


 八千代様がイライラと髪をいじりながら伊那倭様に食って掛かった。伊那倭様は落ち着いて、核心の問いを投げ付けた。


「それが今まで続けられていた。そしてこれからも続けるつもりだということは、この計画の中核を担う夢の八千代が、ずっと生きているってことだろう? 何故だ? 夢の八千代は何故死なない? そしてそれを、お前はどうして確信した? 八千代の話では、3人で永遠に暮らすという計画を思い付いたのは夢の八千代と再度接触する前だ。何故、この世界から、夢の八千代の不死性に気付いた? そして、『もし夢の八千代が本当に不死であるならば』、そいつは『今』どこにいる?」


 一方的に質問をまくし立てた伊那倭様は、八千代様の答えを待たずして、最後に一言加えた。




「八千代、何か、嘘をついているな?」

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