第5章 代志子と伊那倭と八千代

第46話

「いずれ伊那倭様と同じ人間が……?」


 私は八千代様の言葉に、思わず口を挟んでしまった。


 八千代様はジロリと目だけ動かして私を見つめ、そして溜息をついた。


「その顔は、理解できないって顔ね」


 まっすぐと私の瞳を見据える八千代様に、私は思わず目を逸らしてしまった。胸の内からじくじくと焦燥感が立ち上がり、私は助けを求めるように伊那倭様を見やった。


 伊那倭様は眉間に皺をよせ、困惑と怒りと悲しみが混ざったような表情をしていた。ぐっと拳を握りしめながら、しかし憐れむように八千代様を凝視していた。


「……俺達の心と体をいじっても、それはあくまで俺達だ。八千代の知る伊那倭も代志子も、ここにはいない。似通った、別の人間が作り上げられるだけだ」


 苦虫を噛み潰すように不快感を露わにしながらも、伊那倭様はどこか、八千代様を責めることに躊躇いがあるようだった。幼い妹を諭すように、ゆっくり、怒気がこもりながらも、優しく、伊那倭様は言葉を続けた。


「お前がかつて愛した兄は、お前の本当の兄は、たった1人しかいない人間だ。それは、似通った別人では代わりになりようがない。違うか?」


 すると、八千代様は呆れたような目で伊那倭様を一瞥し、吐き捨てるようにそれを否定してしまった。


「いいえ、代わりになるわ」


 驚いて言葉に詰まる伊那倭様を尻目に、八千代様は更にまくし立てた。


「そもそも、『別人』って何かしら? 別々の時代を生きるある人とある人が、同一人物か否か、どうやって決めるのかしら?」




 少し、時間が止まったように感じた。


 私は、八千代様の言っていることが分からなかった。


 ここにいる伊那倭様は、八千代様のお兄様ではない。


 それは、「明らかな」ことだった。




「物質の同一性? 無理ね、生き物は絶えず構成要素が入れ替わっていくわ。水を飲めば水を排出する。元々体内にあった物質は、新たに取り込まれた物質で置き換わる。血も、肉も、次々に生まれ変わる。時間を隔てた2生物の同一性は物質の同一性と異なる。物質の集合体としての形状? それも無理ね。生物は成長し、絶えず変化する。手術や怪我により急激に形状の変化が生じるので、形状変化の連続性でさえ生物には保証されない」


 八千代様は、ある時点の誰かと、別の時点の誰かが「同じである」ということを、物質としての観察では決められないと言っている。それはそういうものなのかもしれない。だって、私が伊那倭様を伊那倭様と認識する上で大事なのは、体そのものではなく……。


「心だってそうよ」


 すると、八千代様は私の考えを見透かしたように、そう告げた。私は驚いて八千代様を見たけれど、八千代様は伊那倭様をじっと見つめたまま、話を続けた。


「物質が変わっても心が同じだ、なんて思わないことね。人は生きていく上で外界から色々な影響を受け、心が変わっていく。個性も、性格も、特定の方向に成長したり、はたまた摩耗したり、移り行くもの。そもそも、あなた達の時代では、まだ心が何者なのかでさえ、理解されていなかったものだったわね」


 唐突に、ずい、と八千代様が伊那倭様に近付いた。足音もなく、かつ俊敏に間合いが失われ、伊那倭様は不意に後ずさりしそうになった。しかし、伊那倭様は足に力を入れ、大きく息を吸ってその場に踏み留まった。


「うふふ、心はね、物質ではないの。もちろん物質の形状でもなければ……そうね、命そのもの、かしら? 脳を始めとする入れ物に、偏在したり、局在したり。だけど、入れ物と切っても切れないもの。入れ物である肉体が成長すると、中の心も影のように形を変える。肉体が朽ちれば、行き場を失った心も朽ちる。……入れ物が変われば、心も変わる。私もそう。もやもやした想いが霧のように立ち込めていた私の心。それが、今の入れ物に移ってからというもの、ずっと雲1つない青空のように晴れ渡っているわ」


 八千代様は、人差し指で伊那倭様の腹部をなじり、表情を変えずにクスクスと笑い声を上げた。


「心は移り行くもの。心が命そのものっていうのは、結局のところ命でさえ、移り行く不確かな存在なの。だからね、誰と誰が同じ生命なのか、なんて決めようがないのよ。その人に接する全ての人が、どう思うか。それだけ。私があなた達を、『あんちゃん』と『代志子』と思い、あなた達もそれに応じている限り、あなた達は、紛れもない、『あんちゃん』と『代志子』なのよ!」




 そして、八千代様は私を振り返り、またあの笑顔を向けた。


「ねえ、教えてくれる? あなた達の、名前」


 私は、息を呑んだ。伊那倭様は元の名を忘れてから、形式的にもずっと伊那倭様と呼んできた。だけど私には、伊那倭様に付けてもらった名前がある。私は……私の名前は……。



「え? 嘘でしょう……?」



 私は思わずそう口にしてしまった。



 私の記憶にある、伊那倭様につけてもらった私の名前は、予想外のものだった。




「分かったでしょう? 代、志、子?」

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