第44話

 目。見える。


 手。足。動く。


「あ、あ、あ。うん」


 声。出る。耳。聞こえる。


(信じられないわ……)


 頭。考えられる。


(うふふ、信じられないわ……)


 心。




 数分前の出来事。私は、目の前にあるその体を、自分の亡骸と認識した。改めて思い知る自分の死は、既にボロボロだった私の精神に残酷な追い打ちを掛けた。


 ――私……やっぱり死んで……ここは……死後の国? 常の世? どこなの?


 だけど、私の精神は折れていなかった。親友であるもう1人の自分のために一度は自ら諦めた命も、伊那倭との再開を願ってしまった今、到底手放そうという気にはならなかった。


 ――ううん。でも、私は、私の心はここにある。生きている。まだ……、まだ私は。


 棒立ちの体を、私はじっと眺めた。傷1つ見当たらない、綺麗な体。こんなに綺麗な体なら、死んでなんかいないのではないだろうか?


 ――心が生きている。体も、きっと生きている。この体に、もう一度心が宿れば。


 何故ここに私の身体があるのか。これが本当に私の体だったならば、何故傷がないのだろうか? 傷がつくことすらなかったのなら、私が薄れゆく意識の中で感じた痛みは、何だったのだろうか? そんな単純な疑問でさえ、私の頭をよぎることはなかった。ただ、私は1つの考えで頭がいっぱいだった。


 ――この体に、もう一度、宿ればいい。




 ゴンゴン――。


 私は、右手の甲で、軽く壁を叩いた。


 痛みは感じない。


「はぁ……」


 わざとらしく音を立てて溜め息をついた。


 閉鎖された空間にこだまするように、私の声が響いた。


(考えるのは後。今は、やるべきことをやるしかないわね)


 私は気分を切り替えて、開閉管理システムへ信号を送った。


(地上への道を解錠せよ)




 ゴゥゥゥゥウウウウン――。




 私が歩いても、足音はしない。


 いや、正確には音が出ているのだけれど、ほとんど周囲に響くことはない。


 私の耳に備わっている感知器で辛うじて拾える程度の振動が空気や床に伝わるだけだ。


 そういう風に、この体は「作られて」いる。




「代志子。代志子。私よ」


 私がこの建物の入り口に戻ると、代志子は変わらない様子でぐったりとしていた。


(意識なし。呼吸あり。脈拍あり。脳波不安定。身体的外傷なし)


 代志子は精神疾患を発症していた。原因は恐らく、極度の不安とストレス。主に、伊那倭と離れたことによるショック。無理もない。代志子の視点では、伊那倭が消滅したことになっている。自分が「飛ばされた」ということも知らずに。


「ごめんね、代志子。私は、『3人で元通りの暮らし』をしたいの」


 私は代志子に謝ると、表情1つ変えずに代志子をおぶった。


 大切に、大切に。


 だって、代志子には代志子の心があるのだから。


 それを壊したら、『3人で元通りの暮らし』なんてできないもの。




「いい子にしててね」


 地下へ戻った私は、代志子を1つの大きな機器に入れ、そのシステムを起動させた。


 ここにある多くの機器は長い間稼働していなかったが、いずれも衰えることなどない。


 ソフトウェアのオートメンテナンス。ハードウェアの物理的自己修復。


 変わることなく永遠の時を生き続ける。


 さながら、常の世の住人のように。




 ゴゥン――。


 ゴゥン――。


 ゴゥン――。


 代志子を入れた機器は、心のデータ化を行うためのもの。記憶、感覚、感性、感情。心を構成する全てのデータを完全な状態で記録する。


 対象を中に入れなくてもデータ化は可能だが、時間が掛かる。何故なら、心は複製できないから。1つの生物の心は、同時に2箇所に存在できない。心をデータ化して取り出すためには、並行して対象の体内にある心を破棄させなければならない。


「ごめんね、代志子~。ちょっと、空っぽになっててね~」


 私は、笑っていた。


 口が裂けんばかりの笑みを浮かべていた。


 だって、想像するだけで楽しくなってきたのですもの。



 これから。



 永遠に。



 3人で。



 元通りの暮らしを。



 永遠に。




 永遠に。




『あうう!! あああう!!』


 代志子は機器の中で呻き声を上げていた。心が破棄されていくのは、さぞ苦しいのだろう。だけど、私は安らかな面持ちでそんな代志子を眺めていた。


「ちゃんと返すからね。あなたの大事な心だもの」


 代志子の心は、精神疾患によって部分的に破損している。恐らく私に関する記憶が曖昧になっている。感情のコントロールにも失敗している。それを治すために、私は代志子の心を取り出している。


 まずデータ化した心を解析し、破損した部分をデータとして復元する。完全に元通りにすることは極めて不可能に近いけれど、私にはあるアイデアがあったため、この時点ではそれを問題視する必要はない。


 その間に、心が抜けた脳を物理的に修繕する。極度の不安やストレスで結合の失われた回路を探査し、再結合することで、精神疾患を起こす前の脳状態に戻す。


 脳を修復している間の循環器等の制御は全て機器で制御する。同時に身体の形状を始めとする物理的情報を全て計測しておく。


 最後に、復元された心を代志子の体内に戻す。もちろん、精神疾患を再発する要因になりえるデータは全て破棄しておく。




「また同じあなたに生まれ変われるかしら?」


 きっと、再び目を覚ます代志子は、似ているようでどこか違う存在になってしまうだろう。


 心というデータは繊細だから。ちょっといじるだけで、全く別物に変わってしまう。


 それに、心の入れ物は、心に無視できない影響を与える。


 体あっての心だから。


 データとして機器に移動している間にも心は時々刻々と変化を続けるし、修繕された脳も元の脳とは微妙に異なる入れ物だから、そこに戻した心はやはり元の心から乖離していってしまう。


 ちょうど、「入れ物が完全に変わってしまった」私の心がそうであるように。




「安心してね。もしダメでも、いい方法があるの」


 私は、今この瞬間も楽しくて仕方がなかった。


『あうううう!!』


 何百年、いや何千年掛かるか分からないけど、いつかはきっと成し遂げられるだろうから。


「うふふ、『3人で元通りの暮らし』、楽しみね」

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