第42話

 桐の祠は常の世へと繋がる門。


 確かに、夢の八千代はそう言っていた。


 私自身が男に書かせた「桐の祠」にも、そう記している。


 その「桐の祠」を、夢の八千代がいずれ手にする。そして私に話す。


 つまり、未来は変わっていない。未来の伊那倭が避けようとした現実は、繰り返された。




 ――もしかして、ここは本当に常の世?


 代志子が炎に包まれて消えた後、私は確かに伊那倭の前で滑り落ちて死んだ。


 ふと気が付くと代志子が目の前にいたことから、私はここが死後の世界であり、代志子も亡くなったからここにいるのだと思った。


 しかし、それにしては代志子と私の状況に違いがある。代志子には体があるのに、私には体もなく、言葉さえ届いているのか不明だ。


 ということは、ここに存在する理由が、代志子と私で異なるのだろうか?


 単に死んだから死後の世界に来たのではなく。


 ここに代志子がいる理由は、ここが常の世だから?


 桐の祠から通じる道を通り、代志子はここに導かれた?


 それに対して、私は桐の祠を通っていない、言わば招かれざる身。


 何らかの理由でここに来てしまったものの、体は持って来れなかった?


 何らかの理由とは? 桐の祠を通る以外に、常の世へと行く方法がある?


 ――だとすれば、逆に、私はここから帰る方法がある?




 帰ったところで私の体は既に死んでいるのだろう。


 それでも、帰りたい。伊那倭に会いたい。会って、詫びたい。


 できるなら、代志子も連れ帰って、3人で元通りに暮らしたい。


 苦しくてもいい。伊那倭が幸せなら。


 伊那倭があんな悲しい顔をしなくて済むのなら。




 今、私と代志子の前に、大きな蔵のような佇まいがある。家だろうか。巳回家と似た、入り口。舶来の、戸。こんな山の中に、何故こんなにも立派な蔵があるのだろう。


 人がいるのだろうか? その人に、私は見えるのだろうか? 聞こえるのだろうか?


「い……伊那倭様……こちらにおいででしょうか……?」


 少々怯えた様子の代志子が入り口と思しき石畳に立つと、


 ギイッ――


 と戸が開いた。私が驚いて目を丸くするも、代志子は怪しむ様子もなく


「伊那倭様! いらっしゃるんですね?」


 と中に入ってしまった。すると戸が締まり始めたので、慌てて手で引きとめようとするも、スルリと透かした感覚を残して戸は閉まってしまった。


(え……? ああ、私、体もなかったのよね……)


 体がないならば戸も抜けられるのでは、と考え意識を戸に潜らせてみると、思った通り私は蔵の中へと入ることができた。


「ここは……」


 代志子が不安そうに辺りを見回していた。それもその筈、戸を開けたと思しき者はそこにおらず、ただ薄暗い間に1人取り残された形なのだから。代志子が恐れを覚えるのも仕方ない。


 ――私がしっかりしなきゃ。


 私も体があれば震えていたかもしれない。何が起こったのか分からず、何がいるかも分からないこの蔵は、いささか不気味に思えた。


 先程日の出を迎えたばかりだが、もう少し日が高くなればこの薄気味悪さも消えるだろうか、そう思っていた矢先のことだった。


「ひっ!」


 不意に一帯の蝋燭に火が点き始め、辺りを照らし出したのだ。思わず悲鳴を上げた代志子に、私は心細い身を寄せ合うかのように意識を近付けた。


 ――だ、大丈夫よ! しっかりなさい!


 代志子の耳元でそう呟くと、代志子は首を忙しく横に振って辺りを見回し、


「え、今、誰か……! え? ええ!?」


 と取り乱し始めた。




 ――もしかして、聞こえている?




 私はそう確信し、そのまま代志子のそばで


 ――私よ! 八千代よ! 聞こえているの?


 と話し掛けた。すると代志子は身をすくめ、みるみる顔色を変えて震え始めた。


「八千代……? どちら様で……? どこから声を……?」


 どうも様子がおかしいと気付いた頃にはもう、手遅れだった。


「あれ? 私、今八千代様のことを、え? 八千代様とはどなたで? あれ? どちらに? わわ、私、は、い、い、い、伊那倭様、どこへ? どこへいらっしゃいますか? は、早く、私を、うっ……おええ……」




 代志子は、その場で胃液を吐き出した。


 昨夜は箸が進まないと言って果物を少し食べただけで、今朝は日の出前に巳回家を出たので何も食べていなかったため、ただ透明な液をうっうっと捻り出したに過ぎないが、私は目の前の光景にゾワッと悪寒を覚えてしまった。


 ――代志子! どうし……え!?


 私が代志子の体を支えようにもスルリ、スルリと意識だけが宙に弧を描いた。体を持たない私は無力にも、代志子が目の前で倒れるのを見守るしかできなかった。


 代志子は、白目を剥いて、痙攣していた。




 ――薬籠、薬籠は! 誰か! 誰かいないの!?


 私は蔵中を探し回った。得体の知れない常の世、体のない自分、代志子の異変。全てが私の思考を奪い、私は泣きたい気持ちでいっぱいだった。


 だけど、私には流す涙も持ち合わせていなかった。




 ――え? ここ……何でこれが……?


 私は広い間を見付けると、自分の目を疑わざるを得なかった。


 ――代志子がもらった……燭台に……屏風……?


 しばしば舶来品を買っていた巳回家の家具。いらなくなったものを、代志子が譲り受けて大切にしていた。それらと、今自分の目の前にあるものが、全く同じように見える。


 火が灯り辺りが照らされた時点で、私は気付いていた。ここは、蔵ではない。何者かの住まいのような、生ける者のための、何かだ。


 ――ここは、どこなの?




 私は、しばらく探し回り少し頭が冷えてきたところで、大切なことに気付いた。


 ――どうやって、薬を、人を、もしくは代志子を運ぼう。


 私の意識は物を探すことができる。だけど、それを手に取る体がない。


 ――だけど、声は、届いた。


 体がなくても、この世界に、僅かな干渉が許されていることは確かだ。


 だから、早く薬か人を探し出さなくちゃいけない。


 代志子の身に何が起きているのかは分からない。



 だけど、助けなきゃ。



 助けて、代志子と2人で、帰らなきゃ。




 3人で、元通りに暮らすんだから。

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