第40話

 私は心。体はなくしてしまったの――。




「伊那倭様……私は……これからどうすればよろしいのですか……?」


 先程まで地べたを這いつくばっていた代志子は、フラフラと立ち上がり、宛てもなくさまよい始めた。


 ――まずいわ。


 私は直感的にそう思った。自分が滑落した記憶が鮮やかに脳裏をよぎり、身震いを覚えた。もちろん、震わせる体なんて持ち合わせていなかったのだけれど。


 ――しっかりして! こんな暗がりを灯りも持たずにうろつくのはやめなさい!


 そう叫ぶ私の声も、代志子には届かなかった。


 私はふと、何故自分が代志子の心配をしているのか、疑問に思った。


 ここが死後の世界だとすれば、代志子がここにいるのは、私が殺してしまったからだ。




 私は代志子を殺したかったのだろうか?


 違う。私は伊那倭と一緒にいたかっただけ。


 代志子だけ常の世に導かれ、1人で幸せに生きてくれると勝手に思い込んでいた。


 蓋を開けてみれば、死んだ筈の私と同じところに代志子がいる。


 私が、殺した?




『伊那倭様との逢瀬は、いつも待ち侘びております。ですが、八千代様が……』


 何度か伊那倭の後をつけて代志子との話を盗み聞いたことがある。


 きっと裏で私の僻事を言っているのだろう、ならば聞いてやろう、と意気込んでいたものの、一度たりとも代志子が私を咎めることはなかった。


(何よ、いい子ぶっちゃって)


 私はそれも気に入らなかった。だけど、聞けば聞くほど、自分が惨めになった。


 代志子は、私のことを憎んでいない。


 それどころか、いつも申し訳なさそうに私のことを気に掛けている。


 どうして?


 ずっと嫌がらせされているのに、どうして?


 眠りを患っている私を哀れんでいるのかしら?


 ……違う。


 代志子は、そんなことを考えていない。


 なのに、何で私は……。




「伊那倭様、よもやお1人で常の世へ、旅立ってしまわれたのですか……?」


 フラフラと徘徊を続ける代志子は何度も足をもつれさせ、転び、衣類を泥まみれにしていた。


 ――あなた、まさか気付いていない?


 うつろな目でやや白んできた空を眺める代志子の様子から、私はあることに気が付いた。


 ――旅立ったのはあなたよ。伊那倭はどこにも行っていないわ。


 代志子は、自分を残して伊那倭だけが常の世に旅立ったと思っている。


「私も、そちらへ行きとうございます……」


 代志子の顔についた泥には幾筋もの涙の跡が輝いていた。


 ――しめた、日の出よ! しっかりなさい、代志子! 周りを見て! 下手なことを考えるんじゃないの!


 私は、何としても代志子を止めたかった。


 代志子を殺めてしまった罪悪感からか、それとも伊那倭への申し訳なさか。


 違う。私は、ただ死んでほしくないんだ。


 代志子を、助けたいんだ。




「きれいな朝日ですよ……伊那倭様と共に見たかった……私も、ここからそちらに行けますでしょうか? 待っていて下さい……今、私も……」


 しかし、代志子の目はじっと日の出を見つめ、今にも飛び降りかねない様子だった。私は代志子を止めるために更に近付いた。体はなくとも、近付くことは出来る。私にも、まだ何か出来る筈。代志子の耳元で、私は力いっぱい叫び声を上げた。


 ――代志子! 待ちなさい! 伊那倭はそっちにいないわよ!




 奇跡が起きたのだろうか。


 代志子の歩みは確かに止まり、狐につままれたような顔で硬直していた。


「今、どなたか……私と……伊那倭様の名を……?」


 当の私もそれには驚き、しばらく言葉を失ってしまった。


「しかも……そちらにはいないと……おっしゃって……。い、い、伊那倭様はどこか別のところへおられるのですね!? どなたですか!? どちらですか!? 伊那倭様にお会い出来るのですか!?」


 そう行って、代志子は足早に走り出してしまった。


 私は慌てて代志子の後を追った。文字通り、身軽で疲れも感じなかった。少し行ったところで、代志子は足を止めた。


 代志子が見上げる先を、私も目を丸くして見つめた。


 ――何よこれ……見たこともない……蔵……かしら……?


 そこには、私達の知る家とはかけ離れた、蔵のような、しかし蔵としても見たことがないような何かが建っていた。


 人が作ったものとは思えない……まさか……。


 ――もしかして、ここは本当に常の世?




 私はもう1人の私、夢の八千代との会話を思い出した。


『――桐の祠?』


 私が聞き返すと、夢の八千代はコクリと頷いた。


『うん、巳子の隣りにある、お山にあるんだって』


 私は桐の祠という言葉を聞いた時、何故だか少し胸にざわつきを覚えた。


『そこに行ってはならない、ってあんちゃんがね、伝えてくれって』


 今まで、夢の八千代を通じて聞いた夢の伊那倭の言葉は、全て「未来にすべきこと」についてだった。それもそうだろう、私はこれまでの指示から、夢の伊那倭が未来の伊那倭であると確信を持ってしまっている。だとすれば、「こうしろ」という指示は出来ても、「こうするな」という指示は出来ないのだ。何故なら、未来の伊那倭が経験したことを避けてしまったら、私達の歩む未来が夢の八千代の世界とズレてしまうから。


『桐の祠には、何があるって言うの?』


 私がそう尋ねると、夢の八千代は困ったようにもじもじとし、


『ごめんね、あんちゃん、これしか教えてくれないの』


 と答えた。




 未来の伊那倭が、未来を変えようとしている?


 これまで全て同じ道を歩ませたのに、何故今更?


 もしかして、初めから、未来の伊那倭は未来を変えようとしていた?


 桐の祠で起こる何かを狂いなく避けさせるため、それまでの全ての道を同じく歩ませ、全く同じように進ませた上で、向きを変えさせるつもり?




 その後もしばらく夢の八千代と会って話を重ねていく内に、私は1つの可能性に気付いていった。


 今まで、ずっと疑問だったこと。何故、夢の八千代の話には、私も、代志子も登場しないのか。未来の伊那倭の周りには、私と代志子がいないのだろうか。


 桐の祠で、私と代志子の身に、何が起きるのだろうか。


 夢の八千代に頼んでもそれを未来の伊那倭から聞き出すことは出来ないだろう。


 だけど私には、未来の伊那倭を介さずに、夢の八千代だけを使って未来を知る方法が、1つある。既に試したように、それは未来の伊那倭に悟られることなく、未来を知ることが出来る。




『ねえ、頼み事があるのだけれど……』

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