第13話
雨音が更に勢いを増していった。その音は、さながらみぞれ混じりの雨のようだった。もちろん、真夏のむわっとした空気の中で、みぞれなんて降るわけはないんだけど。私はそんなことより、自分の身に起きている異変の方が気掛かりだった。何しろ、昨日のこと、いや、今日のことでさえ記憶が曖昧になっているのだから。私が不安げに吾朗を見やると、吾朗は逆に、確信めいた表情で私をじっと眺めていた。
「恐らく、俺達は何らかの原因で、幾つかの大事なことを忘れてしまっている。その1つが、ここに来るに至った経緯だ」
私は、強く頷いた。吾朗が亥馬岳に来た理由を覚えていなかった時には馬鹿にしてしまったけど、今は私も同じ立場だ。今日一日で色々なことがあったせいもあるけど、だからといってここまで忘れてしまう筈がない。吾朗は更に考えを述べていった。
「俺達が元の世界に戻る上で、恐らく記憶を取り戻すことが鍵になる気がするんだ。だからまず、俺達が何を忘れてしまい、何を覚えているか、確認する必要がある」
私は感嘆のこもった声で、深々と「なるほど……」と言った。さすが吾朗はいざという時に役に立つ。という期待はいつも持っていたけど、実際に吾朗がここまで積極的に解決策を考えて行動しているのは珍しいと思う。
「まずはこの家に入ってからのこと。代志子と八千代のことは、覚えているよな?」
私はちょっと腑に落ちない顔で、「うん」と返した。何で吾朗は初対面の代志子さんと八千代ちゃんのことを呼び捨てなんだろう、と思ったからだ。まあ、吾朗がぶっきらぼうであること、ちょくちょく失礼なことは今に始まったことではないけど、自分以外の女性を下の名前で呼び捨てにしているのを聞くのは何だかモヤッとした気分になった。
「ドアが勝手に開いたこと。朝と夕方に熊が出るらしいということ」
私は当時の状況を克明に思い出し、力強く「うん」と答えた。あの時は自動ドアだって吾朗に言われたけど、もし吾朗の言う通り大昔にタイムスリップしてしまっているなら、自動ドアがある筈ないのだ。
「亥馬野がなくなっていたこと。ナナフシを見たこと。あと桐の祠でやたらお前がイライラしていたこと」
少々同意しかねた。亥馬野の消失も、枝みたいな虫も、覚えている。だけどやたらイライラしていたつもりはなかったし、お前って言われる筋合いもない。
「やたらって何さ。私は電話が盗られたと思って怒っただけじゃない。いたずらにしては、やりすぎだよ?」
私はあの時の気持ちを思い出し、また胸の内側からムカムカとした気持ちが湧き上がってくるのを感じた。ただでさえ……あれ? その時、私は何かポッカリと、頭の中から抜け落ちていることに気付いた。同時に、吾朗がビシっと私を指差した。
「そこだ。誰に、盗まれたと思った? 誰に、どんないたずらをされた?」
そう、確かに、知り合いの誰かに電話を盗まれたと思い込んで、私は憤慨していた。その誰かは、恐らく私に桐の祠のおまじないを教えた人で、今回のペアチャレの企画に関わっているに違いない。だけど、その誰かが、影も形も思い出せない。
「やっぱり、桐の祠絡みで記憶が飛んでいるんだと思う。まずは、桐の祠について思い出し直してみるのが良さそうだ」
いつになく、吾朗が頼もしく見えた。その表情はキリッとしていて、吾朗の言うことを、何故だか素直に従いたくなってしまう。ちょっと悔しいけど、吾朗の言う通り、記憶の異変の中心に、いつも桐の祠がある。
「今はひどい雨だし、桐の祠に行くのは後回しだ。そこで、1つ気になっていることがある。さっきの本だ。桐の祠がタイトルの。内容を覚えているか?」
伊那倭という名が登場した2冊の本。そのうちの1つが「桐の祠」だった。内容は、ちゃんと覚えている。
「うん。伊那倭って亀の神様が、1組の男女を、常の世、つまり永遠の世界に招待するお話し。火の道を開いて男女を導くんだけど、火から逃げちゃいけないっていう決まり。それを男性の方が破って、女性の方に駆け寄っちゃう。それを眺めていた神様が怒って、道を閉ざしてしまった」
何で道に火が放たれているのか、火から逃げなきゃ燃えちゃうんだったら仕方ないじゃないか、とツッコみながら読んでいたので、それなりに印象に残っていた。すると、吾朗が私の目をじっと見据え、一呼吸置いて問い掛けてきた。
「永遠の世界って何だろうな? 道を閉ざした後、二人はどうなったんだろうな?」
私は首を傾げ、吾朗の真意を探ろうとした。しかしその表情は、私の答えを求めているようではなく、ただ答えを持っている自分に問い直しているようだった。
「もし、俺達がしたおまじないというものが、あの本に書かれていた、火の道を開くというものだったとしたら?」
その道の先にあるのが永遠の世界。つまり、今私達がいるこの世界こそが、伊那倭という神がいたという永遠の世界だ、ということなのだろうか。大昔へのタイムスリップよりも更に突拍子もない仮説だけど、妙に説得力があった。私達が元々いた世界のようで、どこか違う。ここは、どこか遠い世界のような気がしてくる。最初は亥馬野が消えてしまったと思ったけど、吾朗の言うように、私達が亥馬野から消えてしまったと考えるほうが、自然なのかもしれない。私が固唾を呑んで吾朗の言葉を待つと、吾朗は更に問い掛けを続けた。
「火から逃げてはいけないという決まりを破ったのは、男の方だけだった。それだったら、伊那倭の怒りに触れるのは、男の方だけなんじゃないか? もし道を閉ざされたのが、決まりを破った男の方だけだったら?」
決まりを破っていない女性の方は、道が閉ざされず、そのまま永遠の世界に行ってしまったとしたら? そしてここがその永遠の世界だったとしたら、ここには、その女性が来たことになる。
「その女性が、代志子さんか八千代ちゃん……?」
私が信じられないといった表情で呟くと、吾朗は、ただ、コクリと頷いた。
「全ては仮定に過ぎない。何で桐の祠のおまじないを題材にした本がこの家に都合よく置いてあるのかも分からない。あの本が仮に事実だったとしても、本の古さから、二人とも普通ならとっくに老衰している筈だ。だけど、『永遠の世界』というものが、本当に『永遠』を保証する世界だったら?」
住まう人が歳を取らないような世界、ずっと変わらずに生きながらえられるような世界。もしそれが永遠の世界なのだとしたら、その女性もまた、今もなお同じ姿で生きていることになる。だったら、代志子さんや八千代ちゃんが大昔の人でも、確かに矛盾はない。私が納得したことを確認し、吾朗は更に続けた。
「問題は、その女性がどっちなのか、だ」
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