第6話

「――き、おい静稀!」


 あまりに非現実的な状況に頭が付いていかず、昨日から今朝までの流れをぼんやりと反芻していたら、吾朗が呼び掛けとともに私の肩に手を置いてきた。ちょっとドキッとした。


「う、ん……みんな、どこに消えちゃったんだろうね」


 私は思ったことをそのまま口にした。見ての通り、亥馬野は跡形もなく消えてしまっている。私は亥馬野がどこかに消え失せてしまったんだと思った。


「いや、俺らがどこかに飛んだんだろ」


 吾朗が言うには、私達がどこかに飛んだ? ということらしい。そんなことを言われても、私達は桐の祠でじっとしていただけだし飛んだ覚えもない。私にはいまいち吾朗の捉えた感覚に共感が持てなかった。


「もう、どっちでもいいよ。私達が亥馬野に戻らなきゃいけない状況には変わらないし」


 私はじっとしていられなくなり、桐の祠の方へと後戻りした。吾朗も黙って私に付いてくる。あそこは元と変わってないんだから、何か手掛かりがあると思った。いや、石の何かが無くなってたりはしているんだけど、全体的にはそんなに違いに気付かなかった。


「あれ?」


 桐の祠に戻って改めて辺りを見渡すと、どうも最初と印象が違うようだった。元々ある程度は草が伸びていたとはいえ、道はそれなりに整備されていたはずだけど、今見るとそこら中に草が伸び放題だった。それ以上に、何かとんでもない違和感を感じていた。


「なあ、これこんなんだっけ?」


 吾朗が指をさしていたのは、桐の祠の中だった。観音開きの中には確か、薄汚れたお札が貼られてとみみずがのたくったような文字が書き込まれていたはずだけど――


「キャアアアアアア!!」


 私は中を覗き込んで、柄にもなく絶叫してしまった。桐の祠の中には、お札も文字もなく、代わりに血しぶきがそこら中に染み付いていた。さすがに血はいかんよ、いかんよ。と頭の中で自分に言い聞かせてしまった。別に理科実験でお魚の血を見ることはあっても、

こうして不意打ちで血を見てしまうと、それはどうしても人間のものにしか思えず、また状況が状況なだけに呪いか何かのように見えてしまう。そう思うとさらに背筋がゾッとするのを感じ、ガクガクする足で、あろうことか情けなくも吾朗の背中にすがりついてしまった。


「えと、その、何かこれ、やばいんじゃね」


 うんやばい。知ってる。何でそんなに平気なんだ。私は早くここを離れたいという思いでいっぱいだったため、妙に平然を装っている吾朗にイライラした。当の吾朗は実のところ平気ではなく、血を見たことよりも急に後ろからすがりつかれたことにドギマギしていたのだけど、気が動転していた私にはそんなこと気付く余地もなかった。


「早くここ離れよ、不気味だよ……」


 私がそう懇願すると、吾朗はこっちを振り向くことなく照れ隠しのように桐の祠に近付いていってしまった。必然的に私は吾朗から離れるしかなく、桐の祠をなるべく見ないようにして吾朗のことを見守っていた。


「これさ、こんなに綺麗だったっけ?」


 吾朗が言うには、桐の祠は最初来た時はもっと薄汚れていたらしい。しかし今見ると新品同様のように木目もはっきり見えるとか。今は何を言われても気味が悪いとしか思えず、私は吾朗を急かしてこの場を離れることにした。


「いい、もうあそこ行くのやめよ? 分かったら返事!」


 何で私が怒っているのか分からない、という感じで吾朗は少しふてくされていたけど、私は気にせずズンズンと先を急いだ。目的地はあった。というか、他になかった。


「さっきのお屋敷。立派だったし誰か住んでるんでしょ!」


 後ろから付いてくる吾朗に前を向いたまま告げると、私は来た道を再び戻っていった。さっきの大きなお屋敷の人に聞けば、何か知っているかもしれない。少なくとも、電話くらい貸してもらえると思った。吾朗の機種はこの程度の標高でも圏外になるとか信じられなかった。だから早く買い換えなって言ったのに、別に困ってないからとかこれでいいからとか言っていつまでも古いの使ってるからいざというときに困るんだ。


「着いたよ」


 そんなこんなでお屋敷まで辿り着いた。見ると洋風な中に和風な雰囲気も混ざっていて、全体的に映画にでも出てきそうな古めかしさを感じた。いずれにしろ、うん、立派だ。私だって将来はこんないい家に住むんだぞ、と心の中で意気込んだ。


「何でこの家、呼び鈴ないの?」


 吾朗が言う通り、玄関の周りを探しても呼び鈴らしいものは見当たらなかった。どうしたものかと思っていたら、吾朗が玄関に歩いていきドアをノックする仕草を見せた。


 ギイッ――


 するとドアはひとりでに開き、吾朗の手はノックをする相手を失い、宙を漂った。


「自動ドアだな」


 吾朗は楽観的にそう述べたけど、私はもう何を見ても悪い方向にしか思えなかった。木製のドアなのに自動ドアって、そういうのもあるかもしれないけど、だけど、もう何か恐ろしいものが私達を呼び込んでいるんじゃないか、と疑心暗鬼になっていった。ためらう私をよそに、吾朗は玄関を跨いで入っていった。


「すいませーん! 誰かいますかー?」


 そんな私の懊悩もどこ吹く風、と言わんばかりの間抜けな吾朗の間抜けな声が屋敷の玄関に共鳴する。おずおずと私も吾朗の後ろに付いて玄関をくぐった。


 バタンッ!


「えっ」


 それはあまりにお決まりで、あまりに理不尽だった。さっき勝手に開いたドアが今度は勝手に閉じてしまった。


「自動ドアだから」


 吾朗はこともなげにそう言うけど、私は納得ができなかった。恐る恐るドアに手を掛けると、再びギイッという古びた音を立てて開いた。閉じ込められたわけではない、と分かり私は本当に安心した。そしてその直後、お化けだの呪いだの頭の中で馬鹿げた単語を巡らせていた自分が情けなくなった。


「誰もいないみたい……ってことはないよなあ、ドア開いたんだし」


 独り言なのか私に向けてなのか、吾朗はむこうを向いたままそう呟いた。すると、奥の方から人がゆっくりと現れるのが見えた。40歳くらいの優しそうな女性だった。私はほっとして、その女性をまじまじと眺めた。和服を軽装にしたような装い。高そう。目鼻立ちが整っていて、ノーメイクに見えるのに、若くはない筈なのに、どこか蠱惑的な、それでいて大和撫子のような、嫌味もなく誰からも好かれそうな雰囲気を持っていた。


「お邪魔します。急にすんません。ちょっと道に迷っちゃって」


 吾朗は年上には興味がなさそうだな、と私は思った。さすがに年上すぎるもんな。うん。


「そうですか……それは苦労なさったでしょう。どうぞお上がり下さい」


 その女性は何ら不信感を露わにすることもなく、私達に背を向けて奥へと入っていった。私達も後に続こうとしたのだけど、玄関に下駄箱が見当たらなかった。


「脱いだ靴どこにしまうんだこれ」


 私にだけ聞こえるように小声で呟くのが聞こえた。吾朗が適当に靴を放置したので、私はそれを揃えて玄関の脇の方に置いた。自分の靴も同じように揃え、吾朗に付いていった。洋風のお屋敷だし、靴は脱がないのかもしれない、と思ったけど、確認するのも憚られたし確認せずに土足で上がるのは論外なので、多分これで正解だと思った。


「とりあえず、こちらでおくつろぎ下さい」


 女性に通され居間のような部屋、と言ってもうちの居間の比じゃない広さだけど、に足を踏み入れた。外から見て立派なお屋敷だと思ったけど、中はもっと立派だった。時代劇にでも出てきそうな白い虎とカラフルな鳥の屏風に、豪華客船を思わせるようなシャンデリア。和洋折衷という言葉はあるけれど、これはミスマッチじゃないかと思った。


「あ、すんません、電話を貸してもらえますか? ここ圏外みたいで」


 お茶を出します、と言い部屋を去ろうとした女性を引き止めるように吾朗がそう言うと、女性からはあまりに予想外な返事が帰ってきた。


「はて、デンワとおっしゃいましたか? それはどのようなものでしょう?」

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