第26話 穏やかな日々

 その日、学校から帰った夜。

 光輝は夢を見ていた。

 自分のいる場所は暗い石造りの部屋で、わずかな松明の灯りだけが周囲を赤く照らしていた。

 不意に耳に声が届く。

「王よ、決断されるのですな」

「ああ、俺は人間を知りたいのだ」

 訊ねてきたのはゼネルだ。答えたのは誰だろう。とても懐かしい声のような気がした。

 光輝はベッドに横たわっている。自分の感覚でそう感じた。石のように固い。祭壇のようだった。

 今度は別の声が囁く。

「転生すれば今の体は捨てることになるだろう。それでも良いのだな?」

 訊ねてきたのは蠢く黒い影だった。実体が無いかのように形が揺らめいて掴めない。

 これは誰だろう。かつては知っていたはずだが、今は全く知らない相手だった。

 ただ、光輝は素直に頷いていた。

 信頼する相手だったことは確かなようだった。

「ああ、よろしく頼む」

「神よ、王の願いをどうか叶えてくだされ」

 神? 神なのだろうか。この黒い影が。

 ゼネルの口ぶりではそのようだった。

 光輝は全く知らないが。

 神らしきその黒い影は告げる。儀式の始まりを。

「では、始めよう。転生の儀式を」

 何かが近づいてくる感覚とともに、光輝の視界が闇と光に包まれる。

 体が空間を落ちていく。その体を黒い影が抱くように受け止めた。

 だが、光輝は止まらない。

 体を離れ、意識はさらに深い底へ。

 光輝の意識は落ちていく。

 もう受け止める物は何も無かった。

 漆黒の炎シャドウレクイエムが空間を舞う。

 それに意識の手を伸ばし、光輝は目を覚ました。


 朝が来ていた。いつもの日常の平和な朝だった。

「なんだ、今の夢……」

 ベッドで身を起こして考えるも、夢はすぐに記憶から抜け落ちて忘れていってしまう。

「お兄ちゃん、朝ご飯できたよー!」

「ああ、今行く!」

 階下から希美の呼ぶ明るい声がする。いつまでも考えていてもしょうがない。

 これから学校だ。みんなが待っている。

「夢は夢か……」

 光輝は気にしないことにして、今は自分の生活を急ぐことにした。

 

 家のリビングは朝から賑やかだった。

 希美とリティシアが上機嫌で朝食を並べている。

 朝から元気な光輝の妹達だった。

「おはよう、朝から張り切ってるね」

「うん、リティシアちゃんに魔界の料理を教えてもらったの」

「魔界の料理ね」

 それは人間の食べられる物なのだろうか。

 パッと見では美味しそうで、どのあたりに魔界のやばさを感じればいいのかよく分からなかった。

 思えば向こうの世界の城で歓迎会が開かれた時も、たいして気にもせずご馳走を食べていた。

 リティシアならともかく希美なら間違いはしないだろう。

 そう思うことにして、光輝は希美とリティシアとゼネルと一緒に朝食の席を囲んだ。

 朝食は美味しかった。すぐにやばいかもと思ったことなんて忘れてしまった。

 さすがは希美だ。腕が立つ。リティシアならどうか分からなかったけど。

「こっちはあたしが作ったんやで」

「ん、そうなのか」

 前言撤回。リティシアも料理が上手かった。

 教えたのが彼女なら当然か。光輝はそう思った。

「お兄ちゃんがおらんようになってから、あたしも練習したんやで。お兄ちゃんみたいな王になりたい思って、お兄ちゃんの残したレシピ帳を見ながらな」

「僕にそんな趣味が……」

 すっかり忘れていた前世の記憶。

 シャドウレクイエムが出現した一件以来、おぼろげに思い出してきたこともあるが、まだ忘れていることも多くあった。

 それを全部思い出す必要はあるのだろうか。

 リティシアと話すにはいい話題かもしれないが、無理に思い出す必要もないかと思った。

 前世もあるが今は現世だ。

 学校の勉強を覚えることも、今は大事な仕事だ。

 テストで同じクラスのリティシアに負けるわけにもいかないだろう。

 まだ転校してきてからテストをやってないので、彼女のレベルがどれぐらいかは分からないが。

 普通にクラスメイト達と勉強の話が出来る程度にはリティシアは頭が良いようだった。

 兄としては安心だが、負けたくはなかった。

 しばらくして希美が報告を行ってきた。

「お父さんとお母さん、来週には帰ってくるんだって」

「そうなんだ」

 希美が明るい声でそう言ってくる。光輝にとってはわりとどうでもいいことだった。

 生活は無事に送れている。

 闇の世界の事情のことは両親はもう知っているし、ことの顛末だけ話しておけばいいだろう。

 リティシアも暖かく迎えられるはずだ。

「ああ、あたしも行けば良かったかなあ。海外旅行」

 希美は残念そうに呟いた。学校があるから仕方がないと断ったり、夫婦水入らずでどうぞと送り出したのも随分と昔に感じられる。

 そもそも光輝を狙ってくる闇の脅威から遠ざけるための配慮だったのではないだろうか。

 今ではすっかり旅行の気分のようだった。

 その狙ってきた闇の張本人、リティシアが興味を持った子供のような眼差しをして訊ねてくる。

「海外旅行って楽しいん?」

「うん、帰ってきたらいっぱい話を聞かせてもらおうねー」

「楽しみやわあ」

 妹二人できゃいきゃいと旅の話で盛り上がっている。

 光輝が微笑ましく見守っていると、さっきから無言だったゼネルが重々しく口を開いた。

「王よ、わしはしばらく国に帰ろうと思います」

「え? おじいちゃん、帰ってしまうん?」

 光輝が何かを答えるよりも先に、リティシアが訊ね返していた。

 希美もきょとんと目を丸くしていた。

 ゼネルは答える。

「ああ、少し用事が出来たのでな。数日留守にする」

「そうか」

「王よ、その間リティシア様のことをお願いします」

「ああ、分かった」

 言われなくてもリティシアは光輝の妹だ。

 面倒を見るのは当然のこと。

 ゼネルが帰ってくれた方が翔介達ハンターも安心できるかもしれない。

 そう思いながら光輝は頷いたのだった。


 学校に登校すれば待っているのはいつも通りの日常だ。

「何であたしだけ別のクラスなの~」

「ほなな~」

 学年の違う希美とリティシアは階段で別れ、

「また会いに行くから」

「うん、待ってる」

 光輝はリティシアと一緒に朝の生徒達で賑わう廊下を歩いていく。

「おはよう」

「おはよう」

 教室でクラスメイトと挨拶を交わし、それぞれの自分の席に向かう。

 隣の虎男の席は空いていたが、リティシアの席は窓際の後ろの席と決められているので、彼女はまずそこに荷物を置きに行った。

「ここ、なんかスースーするん」

 近くの壁が壊されて応急処置されているのはリティシアの放ってきた悪魔のせいなのだが、それを彼女に教えてやる必要はあるだろうか。

 無いと光輝は思った。

 過去はどうあれ今は仲良くやっているのだから。

「光輝君、おはよう」

「おはよう、凛堂さん」

 郁子がやってきて声を掛けてきた。彼女の兄も一緒だった。

「やあ」

「やあ」

 短く言葉とジェスチャーで挨拶を交わし合った。

 男同士のことは気にせず、郁子は光輝の隣の席につく。

 黙っていれば可愛い少女だ。でも、黙ったままだと意識することも無かっただろう。

 寡黙な少女はまるで闇にいるかのように目立たない。

 彼女が闇のハンターだと知られてからは、割と声を掛けられる機会が増えているようだった。

 負けられないなと光輝は思う。

「負けられないな」

 つい口に出して言ってしまう。郁子が反応して視線を向けてきた。

「なにに?」

「えっと、テストに」

「テストかああ」

 とっさに口を突いたでまかせに、郁子は困ったように頭を抑えてしまった。

 そんなつもりは無かった光輝は慌てて彼女に訊ねた。

「テストがどうかしたの?」

「最近修業をしてたでしょ。だから」

「ああ、勉強も頑張らないとね」

 ハンターと勉強の両立は大変なのだろうか。

 光輝にはよく分からないが、とりあえず内心でエールを送っておいた。

 郁子は闇と戦うハンターだ。

 光輝とリティシアが闇の王と王女だと知っても、翔介と郁子は襲い掛かってくることをせずに、普通にクラスメイトとして仲良くやっていた。

 ただやはり目は付けられていたようだ。

「光輝君、俺と勝負しないか?」

「勝負?」

 体育の時間にそう翔介から挑戦されてしまった。

「ああ、バスケで俺と勝負だ!」

 自慢げにボールをドリブルして回して受け止めて、余裕をアピールされる。

 爽やかなイケメンは不敵に笑んでいる。

 周囲の視線が集まった。

 そして、彼は宣言する。

 静かな眠れる野次馬達が途端に賑やかに沸き返るようなとんでもない発言を。

「君が勝てば郁子と付き合うことを許可してやろう!」

「ちょっと、兄様!」

 郁子が慌てて叫ぶが時すでに遅し。

 発言を耳にしたクラスメイト達はもう止められない戦いの熱気に盛り上がっていた。

「プレイボール!」

「先生まで!」

 光輝は文句を言いかけるが、彼の顔を見て理解した。

 この勝負はもう止められないのだ。

 先生だって本当は授業をしたいが、やるしかないのだと。

 光輝の予想がどれだけ当たっているかは分からないが、周囲は盛り上がっている。

『やっぱ止めるわ』

 とは言えそうに無い空気だ。ならば終わらせるしかない。

 勝てないまでも最善の負け方で。

 光輝は戦いの場に出ながら、せいぜい譲れないことだけを発言した。

「お前が勝ってもリティシアと希美はやらないからな!」

 このヘタレーと野次が飛ぶが、光輝にどうしろと言うのだろうか。

 リティシアは無言でエールを送っている。

 希美は自分の教室で授業を受けながら、くしゃみをしていた。

 窓の外を見て、良い天気だなと思うのだった。

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