春日のぞみに泣きついてみた

「はあ、疲れた」


 日和花道のオフィスのドアを開けると、春日さんが出迎えてくれた。


 もう、午後六時を過ぎていたが、春日さんはオフィスの掃除をしていたらしい。今では、夜の仕事を辞めて、日和花道だけで働いているんだった。


「お帰りなさい……どうしたの? アイドルさん」


「アイドル……やめてきちゃった……夏休み終わるし……」


「あら、まあ……」


 春日さんは、夜の仕事に就く前――まだ、大阪へ行く前は、佐賀市内の被服縫製会社で事務職をやっていたので、日和花道の仕事は特に問題なく働いてくれているそうだ、英章先生がとても頼りにしていると言っていた。


 それどころか、この会社で唯一の事務経験者なので、実は影の大黒柱だ。


 英章先生と鍋島君は、さっき二人そろってで会社を出たそうだ。いつの間にそんなに仲良くなったんだろう。


「何か考えがまとまらないので、ファミレスでご飯でも食べながら相談しようって、言っていましたよ」


 すぐに、二人を追いかけようかとも思ったけれども、そう言う気分ではなかった。とは言え、もやもやしたものを抱えて、一人、真っ暗な自宅へ帰る事もためらわれた。


「春日さん……私、どうやったら、春日さんの様な大人になれるのかな?」


 もやもやした気持ちから開放されない理沙は、春日に、つい頼ってしまった、そんな事を言われても、春日を困らせるだけだと分っていたが、つい、口から零れ出てしまったのだ。


「理沙さん……私は大人じゃないし、無理に大人になる必要もないと思うわ……」


「お友達になった、リコちゃんからも言われたの。『わたしはわたし』、自分が何者かは自分で決めて良いんだって……でもね、そのこ、もの凄く頑張っているの、自分をしっかり持っていて、凄くてカッコイイの……私はあんなに強くない」


「良いじゃないですか、今のままの理沙さんが、みんな好きなんだと思います」


「ありがとう……でも、私はもっと大人になりたいの、春日さんみたいに素敵な女性になって、男の人にもモテて――」


 言った後ではっとした。春日さんはモテるのを良い事に、男を転がす悪女だと言う噂があったんだ。実際に付き合ってみたら、そんな風には全く見えないから、気にしていなかった……失敗した。


「あ、あの……そんなつもりじゃなくって、それぐらい素敵な人になりたいって事で……」


「良いのよ、みんなにどんな風に思われているかは、良くわかっているわ」


「……私、春日さんの事、いろいろ聞いたけれども……一緒にいる時の春日さんとは、重ならなくて……」


 それ以上は、言葉にしようとしたが、何も出てこなかった。確かに、悪い噂を全否定できる根拠があるわけではない。


 かといって、短い時間でも一緒に過ごした春日さんからは、邪悪なものなど、微塵も感じない。これをどうやって伝えれば良いのか……。


「……最初は話すつもりはなかったんだけれど……もともと、私は、ここで働くのも気が進まなかったの。住職様に、半ば強引に説得されて来たんだけれど、どこに行っても、私は厄介者……自分が嫌な思いをするのはしょうがないけれど、わざわざ、周りの人に嫌な思いを撒き散らして歩くのも嫌だしね」


「そんな事無いわ。春日さんは……良い人よ……」


 春日さんは今まで見せた事無い、穏やかな笑顔で微笑むと、いつもよりも饒舌に話を続けた。


「迷惑を掛けたくない、そう思っていたの、今までは……ね。でも、それじゃ嫌だって思うようになった……好きになっちゃったの、皆をね。もちろん、理沙ちゃんも」


「春日さん……」


「だから聞いてほしいの、私はいったい誰なのか……」


 春日さんは、滔々とうとうと話した。


 ワンダーボーイのオーナー鯨間さんと、わくわくのオーナー紅迫さんと、春日さんの三人は、もともと中学校からの同級生だった事、二人が春日を取り合って、いつも、競り合っていた事、その時の日々が、どれだけ輝いていたのかを……。


 やがて、高校を卒業した頃、二人同時にプロポーズを受け、どちらかを選ぶことができなかった春日さんは、苦し紛れに早く社長になった方と結婚すると約束してしまった事。


 適当な約束を目指して努力する二人に会うのが辛くなり、佐賀を離れると決意した事。


 横浜、東京と転々とした後、大阪で恋に落ちた事、こっぴどく振られてしまって、傷心の内に佐賀へ帰郷した事。


 鯨間さんと紅迫さんが、二人とも同時に、中古ソフト販売会社の社長になっていて驚いた事、先に店舗を増やした方と結婚すると、また、同じ嘘をついてしまった事……


 話を聞きながら、私は大粒の涙をいくつも流した。話しをしているのは、春日さんの方なのに、何度も大丈夫かと、気に掛けられ、恐縮しながら、ハンカチを受け取った。


 春日さんは、鯨間さんの遺書の内容についても話してくれた。


『自分が死んだ後は、店の全てを、友人の紅迫に譲渡する。それ以外の財産の半分は春日が相続する事、税金や諸経費を除いた残金は全て勝厳寺に、葬儀、永代供養等の費用と、寄付として振り込む事』


 生前から鯨間さんは、雲銀住職に死後の相談と、残るものの相談――つまり、春日さんの相談をしていた。


 そして、鯨間さんと紅迫さんは競い合ってはいたが、良いライバル関係で、お互いに尊敬し合っていたのだ。


 春日の存在は、二人にとって、恋愛対象としてだけではなく、二人を成長させる上で、かけがえのない存在だったに違いない。


 しかし、鯨間さんは悔やんでもいたと雲銀住職が話していたそうだ。


『自分達のせいで、春日のぞみに余計な負担をかけてしまった。佐賀から追い立てる事になり、更に、夜の仕事を始めるきっかけを作ってしまった――だからこそ、住職に頼んだのです。自分が死んだ後は、彼女を説得してほしい。準備する期間の生活費ぐらいは残せるから、その間に、昼の仕事に就いて欲しい、その世話を住職にして欲しい……そして、自分から店舗を受け継ぎ、自分より支店を先に出す事で、結婚の条件を満たす、紅迫と結婚してほしい……』


「でもね……でも、やっぱり選べないの、二人は私にとっても特別で、大切な存在……どちらか一方を選ぶなんて、今でもできない……。夜の仕事はね、確かに、夜だけの経験しかない人は、昼の仕事にコンプレックスと憧れをもっている人は多いのよ。だけど、昼を経験していた私にとっては、夜の仕事が、どれだけ大変で大切な経験を得られる仕事なのか、その価値がわかる……私自身は、夜の仕事に誇りは持っていても、否定的な気持ちは無いのよ。でも、鯨間君……死んじゃったからね……もう、それを説明もさせてもらえない……」


 初めて見せる春日さんの涙は、私より大粒で、美しく輝いていた。


「だから、言う事を聞く事にしたの……そして、住職様に、ここに連れて来て頂いた。まるで、拾われた野良猫みたいよね」


 自嘲して笑う春日の瞳には、まだ、涙が残っている。


「ううぇぇぇん、春日さぁん」


 私は、もう我慢できずに春日さんに抱きついて、気が付けば嗚咽を上げて泣き始めていた。


「こう言う所……理沙ちゃんのとっても素敵な所よ。人の為に泣ける人って少ないの……理沙ちゃんが感じるままに、考えて、話して、行動すれば、きっと皆が、あなたを好きになる。大人でも、子供でも、強くても、弱くても、どちらでなくてもいいの。理沙ちゃんは、おばあちゃんになっても、ずっと、理沙ちゃんのままよ、きっとね……」



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