第58話 フィーネの選択

 エラント皇帝は玉座から立ち上がる。脇においてあった剣と盾を手にして静かに階段を降りる。


「お父様……おやめください。私は、私は認めません」


 階段を降りきったところで、フィーネがその前に立ちふさがる。


「どきなさい。フィーネ」


「いいえ、どきません」


「私は国のためなら娘であっても切る」


「なら私はお父様を切ります。私はマヒロを、ミミカちゃんを守ることを選びます」


 フィーネはエラント皇帝の進路を塞ぎ、両手を広げた。


「どけ、フィーネ」


「いいえ、どきません」


 エラント皇帝は手に持った剣をフィーネの眼前に突きつけた。フィーネは静かに目を閉じる。一瞬エラント皇帝の顔に暗い影が落ちた。だがそのまま剣を上段に構えた。


 エラント皇帝は本気だ。俺はそう判断した。


「フィーネ!」


 叫んでフィーネの元へと走る。エラント皇帝の剣が振り下ろされる。エラント皇帝を背にしてフィーネをかばうように抱きしめた。俺の右脇に強い衝撃と激痛が走った。エラント皇帝の剣がライトアーマーを切り裂き、肉に食い込む。血が流れ出す。あまりの激痛で、それは焼けるような熱さにも感じる。


「マヒロ!」ミミカが叫んだ。ラミイが顔を両手で覆っていた。俺はフィーネを抱きしめる手に力が入らなかった。ずるずると崩れ落ちた。


「マヒロ、マヒロおお!」


 フィーネが俺を支えて泣き叫ぶ。


 ――うあ、うああああ。マヒロ、マヒロぉぉ!。


 フィーネの感覚が俺の中に流れ込んできた。今フィーネは痛みを感じている。その痛みは俺がエラント皇帝から受けた剣の痛みだ。俺と繋がる細い糸を通じて俺の痛みがフィーネに流れてしまったのか? いや、違う。俺の痛みをフィーネが吸い上げているんだ。


 フィーネは俺の苦痛を減らそうとしているんだ。


 フィーネの考えが分かる。感情が伝わる。俺の苦痛を減らそうとしてくれている。そして親に斬りつけられて心が悲しんでいる。俺は代わりにその悲しみを吸い上げようとするのだが、その悲しみはフィーネから離れない。フィーネはそれを離そうとはしない。


 フィーネが俺を支えたまま父親を睨みつける。


「私の『異界の書』は完成しました。お父様」


 フィーネから飛び出た言葉はその場にいた者の注目をさらった。


 いったい異界の書とは何のことなのだろうか。どこにあるのだろうか。この状況においてフィーネが意味することは一体何なのだろうか。


 皇帝がそれを説明するために口を開く。


「お前たち転生人は想像もつかなかったろうな。ゴブリンのレベルを上げることが我々の知性をこうまで変質させるということを……」


 レベルが高いゴブリン、一部のゴブリンは人間の知性を遥かに超えた存在となっていた。特にエラント皇帝、そしてフィーネは突出した存在だった。


「知性の向上……それはいったい何なのだろうな。単に脳が活発に働くことなのだろうか。脳細胞の高度な活動なのだろうか」


 独り言のようにエラント皇帝は続ける。


「動物と我々の脳の違いは何なのだろうな。なぜ我々は判断ができるのだろうな。正しい判断、適切な物の選択。いったいその正体は何なのだろうな。少なくともそれに必要なもの、その一つは知識、それだろう。多くの知識があることで正しい物の選択が可能になる」


 高い知性に必要なものの一つが知識だと、エラント皇帝は語る。


「『異界の書』とは知識の集大成だよ。知識の集大成をお前たちはアカシックレコードなどと呼ぶそうだな。古代よりの万物における事象をすべて記録した集大成だ」


 「異界の書」とは知識の集大成であるという。それをエラント皇帝とフィーネが手にしているということなのか?


「『異界の書』とは書物ではない。神の持つ大いなる知に接続する能力のことだよ。そして我々もお前達もすべて等しく脳の中に『異界の書』を持っているのだ。だがあまりにもその利用に制限がかかりすぎていて気が付けていない。知性の向上とはその制限の解放に他ならない」


 「異界の書」は俺達すべての脳の中にあるのだという。ただそれに気が付いていないだけだと。制限が解放されていないだけだと。


「私とフィーネのレベルはゴブリンの中でも飛躍的に高い。だから私とフィーネだけが明確な形で『異界の書』を利用できる。そしてフィーネはおそらくマヒロ、お前とガリュウとの戦いで得た経験でより高いレベルを獲得したのだろうな。そして得た。完全な形での異界の書を。転生人に関する情報、スキル、それらも含めた完全なものを。そして、それこそ私が本当に欲したものだ」


 エラント皇帝が望むのはガリュウのスキル玉だけではなかった。「異界の書」の完成も目論んでいた。


「だから……殺さねばならぬ。転生人も、そして我が娘。フィーネも」


 フィーネが「完全な異界の書」を手にしたというのなら、フィーネはエラント皇帝が「完全な異界の書」を手にするのを阻むことのできる唯一の存在だ。


 自分が「完全な異界の書」を手にするためには邪魔な存在、それをすべて排除する。それもすべて正しい政治のためだというのか?


 それは自らが望むものを得るためではないのか?


 それは自らの欲ではないのか?


「お父様は、お父様は間違っています」


 俺を抱きかかえたままフィーネは叫ぶ。


「お父様は完全を望み過ぎます。お父様は犠牲の上で全知を得ようと言うのですか? 私だけなら喜んで犠牲となりましょう。でも、マヒロ達を犠牲にして。ミミカちゃん達を犠牲にして。そこまでして全知を得て何になりますか? ゴブリンのため? 国の統治のため? 世界の平和のため? いいえ、お父様はそれを得ること、それ自体が望みだったのではないのですか?」


 フィーネの目から大粒の涙が零(こぼ)れる。


「なら、私はお父様の知性を失わせます。ゴブリンすべての知を奪います。私は『完全な異界の書』を手にしました。だから、マヒロを通して女神とも繋がる私はスキルの抹消も可能なんですよ」


 そして皇帝を見据える。


 ――その意味がおわかりにならない、お父様ではないでしょう?


 フィーネは静かにそう言った。


 俺とエラント皇帝だけがその言葉を聞き取ることができた。


 フィーネがエラント皇帝を見据える目は咎めるようでもあり、悲しむようでもあった。


 エラント皇帝の顔色が変る。緑の肌が一瞬で色を失った。


「よせ! よすんだ、フィーネ! それだけはやめるんだ! すべてが、すべてが失われる!」


「お父様、いっしょに失われましょう……。私といっしょに……すべてを……」


 フィーネが俺の体をぎゅっと強く抱きしめた。


 ――私はマヒロ達を脅かす可能性のあるものを排除します……それが私の望みです……


 痛みをフィーネが吸い上げてくれているとはいえ、あまりの激痛で視界がぼやけてきた。流れる血の量が多くて朦朧とする。あまりの痛さと血の気のなさで今にも気絶しそうだった。


 俺の頭の中にアナウンスが流れる。


『フィーネ・ガルフ・エラントがマヒロを通じて『白き清浄の女神』にアクセスしました』


『ノーマルスキル【EXPブースト】は『白き清浄の女神』が抹消させました。このスキルにより獲得された経験値はすべて消失します』


『超レアスキル【EXPスーパーブースト】は『白き清浄の女神』が抹消させました。このスキルにより獲得された経験値はすべて消失します』


 意識が朦朧とする。だめだ、流れる血の量が多すぎて意識を保っていられない。震える声でフィーネに尋ねた。


「フィーネ……俺の頭の中でスキルの抹消っていうアナウンスが流れた……。いったい……どういうことだ? いったい、どうなるんだ……?」


「マヒロ、【EXPブースト】のスキルが最初から存在しなかったことになります。つまりゴブリンのレベルアップがなかったことに」


 それを聞いてエラント皇帝は狼狽する。


「嫌だ! 私は手放さん!」


 エラント皇帝は頭を抱え、狂ったようにもがく。


「私は! 私は知だ。私は知性だ! 私こそが異界の書だ!」


 剣と盾を投げ捨て、周りをきょろきょろと見回す。「嫌だ。私から知性を奪うな。やめてくれ」、そう叫び続ける。両手を顔に添え、怯えた表情を浮かべ、怒りの表情を浮かべ、悲しみの表情を浮かべる。


 頭を抱え、「やめてくれ。やめてくれ」と喚く。そこから手を離して口に指を咥え、頭をかきむしり、歯ぎしりし、猫背になり、目が虚ろになり、両手から力が抜けてだらんと垂れ、知性の無くなった細い目で俺達を睨む。


 口を開き、ぐ、ごごご、と呻く。すでに人語を話すことも、理解することもできない。


 俺達を睨みつけていた目は怯えた目に変わり、きょろきょろと周りを見回す。がに股でゆっくりと方向を変える。


 そのままがに股で部屋の隅へと走り出し、柱の後ろに身を隠す。怯えたように柱の陰から顔だけを出してこちらを窺う。


 エラント皇帝はただのゴブリンになっていた。初心者冒険者でも簡単に討伐が可能な。


 皇帝は走る途中で手から黄金色のスキル玉を落としていった。スキル玉はフィーネの元へと転がる。フィーネはそれを拾い上げた。そして力を込めて強く握る。さらに力を加える。ばりん、と音がしてスキル玉は粉々に砕け散った。金の破片のきらめきがフィーネの手から流れ落ちる。


「マヒロ、お別れだよ」


 俺はフィーネの言葉の意味を悟る。


「フィーネ、嘘だろ? フィーネ」


「お父様はガリュウのスキルを手にしてしまった。そのお父様を葬るにはこれしかなかったんだよ」


「フィーネ、嫌だ。フィーネ……」


「いいんだ、マヒロ。元々ゴブリンは最弱の種族だったんだ。元に戻るだけだよ」


「嫌だ……。嫌だ……」


「マヒロ、さよならじゃないよ。私は弱いゴブリンになってもゴブリンだよ。そこにいるよ。最後に私の秘密を教えるよ。私はゴブリンとエルフのハーフだったんだ。だから私は他のゴブリンとちょっと違ってたんだ」


 嫌だ。


 嫌だ。嫌だ。フィーネのレベルが元に戻ったら知性がなくなるのか? そうなったらしゃべれなくなる。いや、しゃべれなくなるだけじゃない。俺のことも覚えていないかもしれない。覚えていられるはずがない。


 フィーネが普通のゴブリンに戻ってしまう。


 嫌だ。


 嫌だ。嫌だ。


 皇帝に斬りつけられた傷の痛さなんて忘れていた。心の痛さのほうが遥かに痛かった。だが、それでも体は騙せない。大量の血が流れ出し、意識が朦朧とする。今にも気絶する寸前だった。


 フィーネは俺をかがませ、両頬に手を当てた。フィーネの顔が近づく。意識が途切れかかる中で、そっと唇が合わさった気がした。


 ――さようなら、マヒロ


 そしてフィーネの両腕がだらりと落ちる。瞳から輝きが消え、知性がなくなったと感じる。頭ががくっと垂れる。俺の肩にもたれかかる。


 それを見てミミカが静かに呟く。


「フィーネちゃん、レベル1になっちゃった……」

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