第35話 温泉の淫魔
背後からぱちゃぱちゃと湯を叩く音が聞こえる。察するに、足を使って音を出しているのだろう。振り向けない俺を弄(もてあそ)ぶような仕草だった。
その彼女が男湯と女湯を間違えたのかと思った俺は、ここが男湯であることを伝えたのだが、彼女はそんなことは意に介さず、別のことを口にした。
「ふふ、そなたドーテーか?」
透き通った綺麗な声だった。俺のことをからかうようにくすくすと笑う。
ドーテー、一瞬なんのことかわからなかった。いきなりそんなことを言われたことがなかったからだ。
「ん? 何か間違えていたかな? 転生人から教わった言葉だったのだがな。ドーテー。男女のマグワイを経験していないもの……未経験者……女の裸を見るだけで頬を赤らめる者……豊満な胸を見ると血流を一箇所に集めるもの……お主のことかと思ったのだがな」
「誰にそんな言葉を習ったんですか!」
背中を向けたまま俺は叫んでいた。「確かに俺はそうですけど……」と小さく呟く。膨らみかけていた股間はすっかり縮こまっていた。
「ははは、ガリュウという転生人から習ったのだよ」
予想もしなかった名前が飛び出した。ガリュウと言ったのだ。
「ガリュウ? ガリュウだって。ガリュウのことを知っているのか? あんた誰なんだ」
驚いた俺は後ろを振り向き、褐色の肌が目に入ると慌ててまた顔を元に戻す。
「ドーテーよ。聞きたいのか? 教えてほしいのか? ならばお姉さんに懇願しなさい。教えてくださいと。なんでも答えてあげよう」
彼女が岩から立ち上がり、俺の背後に立った気配がした。
ぱしゃっぱしゃっと音がする。俺の方へと歩いてきているのだ。
彼女は背後から右手をぴとっと俺の右頬につける。俺の横にはタオルが流れてきた。俺は目だけを動かしてタオルを見る。タオルがここにあるってことは……。危うく変な妄想をするところだった。
「私の名はカルニバス。ダークエルフとサキュバスのハーフさ。ガリュウのことはよく知っているよ。さあ、他に聞きたいことは? ドーテーの聞きたいことならなんでも答えるよ。私の大好物だからね。ずっとドーテーに会いたかったんだ。ガリュウに聞いてからずっとお前のことが頭から離れない。ああ、愛しのドーテーよ。なんていい響きの名前なんだ。なんて美しい名前だ。なんて心地よく胸を打つ名前なんだ。ああ、ドーテーよ。私の愛するドーテーよ」
いや、俺はドーテーなんて名前じゃないから。そんな名前は嫌だから。しかしなんでも答えてくれるって? これはチャンスかもしれない。いや、でもまさかガリュウの居場所までは知らないだろうけど……。
「ガリュウの居場所なんて知らないよな」
ダメ元で俺は聞いてみた。
「知っているよ。さあ、他には何を聞きたいのだ。何でも聞いてみろ。さあ、さあ」
カルニバスは左手も俺の頬に当ててきた。後ろから両手で頬に手を当てられている。カルニバスの細い指がくねくねと動き、時折俺の唇に触れる。
「ガ、ガリュウは今どこにいるんだ?」
「ん。お前はあんなやつに興味があるのか。奴は異界にいるよ」
異界? 初めて聞く名称だった。いったいそこはどこなんだ?
「異界? 異界ってどこにあるんだ?」
「知らん」
カルニバスは冷たく言い放つ。知らないことを聞かれて少し不快に感じたのか頬の指に力が入る。
「異界のことならそなたの方が、ドーテーの方が詳しいんじゃないのか?」
「え? どういうこと……」
「そなたは異界から来たのであろう。転生人はみな異界からやって来ると聞いておるぞ。さあ、他には何を聞きたいのだ。何でも答えるぞ。ああ、愛するドーテーよ。お前のためなら私のすべてを捧げようぞ」
なんかカルニバスに関わるとまずいことになりそうな予感を覚える。カルニバスの右手が俺の頬から下がり、首元に手を当ててくる。そこからさらに下へと進む気配がある。
早めに質問を切り上げたほうがいい。俺はそう判断した。
「ガリュウは異界に戻った。そういうことなのか?」
「ん? 戻ったわけではないぞ。またこっちに帰ってくる。さあ、次は何を聞きたい。さあ、さあ。んふう……」
カルニバスの温かい息が右耳にかかった。
「……異界に何をしに行ったんだ?」
「何をしに……ああ、目的というやつを聞きたいのか。ガリュウはな、【最終スキル】が欲しいのだよ。そのためにな、異界の人間を大量殺戮してこちらにつれてくる。そして【最終スキル】を手にした転生人を殺してスキルを奪うんだそうだ。さあ、さあ、もっと聞いてくれ。ああ、ドーテーに質問されるとおかしくなりそうだ。ああああ、だめだ、もうだめだ。溢れてくる。私の内から溢れてくる。ああああ」
カルニバスは両手で俺の頭を抱きかかえ、ぐいと引き寄せた。俺の後頭部に柔らかいものが押しつけられる。生まれて初めてのその感触に心臓がばくばくしてしまう。
カルニバスからミルクのような甘い香りがしてくる。この匂いは突然に発生した。同時に得も言われぬ別の淫靡な香りが俺の頭をくらくらさせる。
「大量殺戮なんて、そんなことができるのか?」
「はあ、はあ。いや、無理だな。ふう。ガリュウは異界に行くことはできても、ふふ。すまぬ、ちょっと私の力が暴走しがちだ……」
カルニバスの声が途切れがちになる。カルニバスは何らかの能力を発動させてしまったと言う。
「ガリュウは異界で実体を持つことができない。霊体のような魂だけの存在にしかなれないのだ。鍵がないのだよ。ガリュウは鍵を求めてこっちの世界に戻ってくる」
「鍵? 鍵っていったい何なんだ?」
「鍵は『女神と繋がる者』。女神と繋がらないと異界で実体化できないのだよ。最近女神と繋がる転生人が生まれたらしい。つい最近だな。ドーテーは何か知らないのか? もう転生人はあまり残っていないんだろ? なら探すのは簡単なんじゃないのか。こちらに鍵があることがわかったからガリュウは戻ってくる。もうすぐ戻ってくる。ふう、ふぅ。あはぁ、いい。すごくいぃ」
カルニバスはぐいぐいと俺の頭を動かし、自分自身にこすりつける。いったい何をしているのか、何がいいのか、後ろを見ていない俺には理解ができなかった。柔らかい感触だけが後頭部にある。
「もうだめだ……。どうにかなりそうだ。すごいぞ。ドーテーすごい。すごすぎる……あぁ……あ! ああああ!」
急にカルニバスの声が大きくなり、最後は絶叫だった。
それと同時にカルニバスの手が緩んだ。俺の後頭部から柔らかい感覚が離れた。
突然背後の気配がなくなった。俺は思わず後ろを振り向いてしまった。
カルニバスの姿は幻のようにぼんやりとしてそこにあった。だが今にも消えそうなほど半透明のカルニバスは後ろの景色が見えるほどに薄かった。
ほとんど見えないその表情は恍惚としていた気がした。消えかかる手をそっと伸ばし、俺の乳首に触れた。その姿は一瞬だけ眩しく煌めくと、カルニバスは無数の粒子に変わって消えた。カルニバスのタオルだけがその場に残されていた。
カルニバスの意識が俺の中に流れ込む。「私は絶頂を迎えるとしばらく実体化できないの。ごめんなさい。また会いましょう。ドーテー、今度はあなたのことを喜ばせてあげるわ。あなたの名前は忘れないから……」
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