第29話 繋がる者

 俺のみぞおちの辺りからまっすぐ上に向かって糸が伸びている。糸は天井まで伸びてそこから先は天井の中に入り込んでいる。俺と天井の間で糸がふわふわと空中を漂っている。


 不思議と体が楽になっていた。いつのまにか空腹感も焼けつくような喉の渇きも消えていた。背中にあたっていた硬い床の感触もなくなり、まるで雲のベッドにでも寝ているような浮遊感があった。


 視界からゆっくりと天井が消えていく。部屋の周囲を取り囲んでいた鉄格子も消えていく。


 ゆっくりと溶けるように白く変わっていき、視界が全て白く染まった。


 上空から俺のもとに何かが舞い降りてくる。俺はなぜだかそれがこの世界に来る直前に出会った女神だと思った。

 その存在から受ける印象というかイメージというか雰囲気と言ったらいいのか、そういうものが前に会った女神といっしょだったからだ。


 だんだんとその輪郭がはっきりしてくる。やはり女神様だ、と思ったのだが何かが違う。何が違うのだろうか。そうだ、年齢だ。この女神様は俺よりやや年上と思われる二十代前半にしか見えない。前に会った女神様はおばちゃんだった……。しかしこの女神様はめちゃくちゃ美形で……。


「お元気でしたか? マヒロ」


 やさしい慈愛に満ちた声だ。澄んだ高いトーンのその声は俺の心の奥に染み渡ってくる。


「不思議そうな顔をしていますね、マヒロ。戸惑っているのは、私のこの姿のためですね。私の姿は見る者の心の状態によって変わるのですよ。あなたは今死にかけています。肉体と精神のつながりが切れかかり、そのため心から不純物が取り除かれた、より純粋な心になっているのです。今あなたが見ている姿が本来の私にもっとも近い姿なのですよ」


 これが女神様の本来の姿? 女神様はおばちゃん女神なんかじゃなかったのか。吸い込まれるような、見ているだけで癒やされていくそんな姿。この世の美をすべて結集したような、いやそんな表現なんて陳腐で、言葉にしたらどんな表現も陳腐で……。


 女神様は俺が死にかけていると言った。いったいどういうことだ? 心のなかは至福感で満たされている。体にはどこも痛いところも苦しいところもない。心も体も落ち着いていて深い安らぎの中にいるようだった。


「俺は死にかけている? いや、この通り元気ですよ」


 そう言って体を動かして起き上がろうとしたが、体はぴくりとも動かなかった。


「マヒロ、あなたはオルマール共同墓地の地下に閉じ込められて餓死する寸前なのです」


 そうだ、思い出した。俺はラミイとエミリスさんと三人で閉じ込められてしまっていたんだ。死にかけているのか……。じゃあこの状況はいったい何なんだ? この真っ白い空間はいったい?


「マヒロ、あなたは今、現実と夢の世界との狭間の世界にいます。夢を見ている状態に近いと言えばわかりやすいでしょうか。あなたと私は繋がっていますからね。あなたの意識が現実と離れたことで私とアクセスすることができたのでしょう」


「女神様と俺が繋がっている? どういうことですか?」


「あなたは私に【スイートスメル】のスキルを使ったではありませんか。女神にスキルを使った人間なんてあなたが初めてですよ」


 女神様はくすくすと笑った。見ているだけで癒やしを与えるその存在だったが、小さく笑う彼女はどこか人間味を帯びていた。しかし、すぐに笑うのをやめ、女神は高貴な存在に戻った。


「俺はこのまま死ぬんでしょうか。ラミイさんも、エミリスさんも死んでしまうのでしょうか。牢屋の四人も助けられなかった。ラミイさんもエミリスさんも助けられない。俺は誰も助けられないまま終わるのですか……」


「大丈夫ですよ。あなたと繋がるものはもう一人いるでしょう。その子が助けに来てくれます。私はただあなたに警告を持ってきただけです。気をつけなさい、マヒロ。今から私が言うことをよく聞くのです。決して忘れないように――」


 ――それからかなり長い時間が経過したように思う。どのくらいの時間が経過したのかはっきりしないのは俺の意識が遠のき、何が現実で何が夢だったのか、記憶が曖昧になっていたからだ。気が付くと柔らかい布団が敷かれたベッドの上に寝ていた。横にはラミイさんとエミリスさんが別のベッドで寝ていた。女神様の言う通り、俺達はあの共同墓地の地下から助け出されていた。


 俺は女神様と話したこの時の記憶がほとんど残っていない。わずかに覚えていたことは「あなた達の力――スキルを手に入れようとする存在がいます。その存在に注意しなさい」という女神様の言葉と、その時の女神様の険しい表情だけだった。

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