第46話 「闇の名前」 妖怪「天狗」登場



    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 シンイチの生涯五度目の小学校の夏休みは、八月に入りいよいよ佳境だ。プール! サッカー! ラジオ体操!(大吉は妖怪「完璧主義」の事件以来皆勤で、朝ときどき連れて行かれる)、宿題!(全く進んでない)などなど、夏を満喫する出来事ばかりだ。ススムと沼釣りにも行った。親戚の晴子おばさん家にも泊まりに行った。セミの脱皮を最初から全部見た。井戸で冷やしたスイカが、凄くウマイことも知った。


 次はどんなことをやろうかと、今日もサッカーをしに河原グラウンドへ集まると、青いメガネのススムが、「おう!」と駆けよってきた。

「……」

 シンイチは、苦い顔になった。

「どうしたシンイチ?」

「ススム。……弱気になってんじゃねえよ」

「な……なんだよ」

「きのう芹沢に三連続シュート止められたからか? ゲームのアイテムゲットできねえからか?」

「……な、なんのことだよ」

「お前さあ、『弱気』に取り憑かれてんじゃねえよ!」

「え?」

 夏の日差しに照らされ、その熱を吸収してあっつい玉になりそうな、真っ黒な心の闇「弱気」がススムの肩にいたのだ。勿論、妖怪は現実の世界と重なり合ってるだけだから、熱々になることはないが。

「不動金縛り!」

 シンイチは早九字を切り、ススムとシンイチの二人だけの空間にした。

「初歩的な心の闇じゃんかよう! またそっから一々やんのかよ!」

 シンイチは少しイラついた。暑さのせいか、蚊に喰われた所が痒かったせいか。その空気をススムは敏感に感じとった。

「え? いるの? 心の闇が……」

「今ススムは弱気に取り憑かれてるだけなんだよお! いつもの調子のったススムをイメージするの!」

「わかった! ……俺カッケー! 俺イケてるうー! 俺シュート入るうー!」

 すぽんと音を立てて、ススムの心の闇「弱気」は、すぐに肩から外れた。

「簡単に対処できんだからさあ! こんなの!」

 シンイチは火の剣を抜き、面を被ることもなくぞんざいに斬った。小さな状態だったからか、小鴉の火力を上げなくても「弱気」は勝手に燃えて、パラパラと塩になった。

「このしょっぱいレベルから、一々やんなきゃいけないのかよ!」

 シンイチのイライラは、小鴉の炎の熱さのせいか、日差しの暑さのせいか増してきた。

「ハイハイ、ドントハレドントハレ!」

 シンイチはぞんざいに金縛りを解いた。


「シンイチくーん!」

 プール帰りのミヨちゃんが、手を振って走ってきた。

「ねえ知ってる? 八月九日が何の日か?」

「『吐く89』の日。オエー」

「ヒドイ! 私の誕生日でしょ! こないだ覚えとくって言ったじゃん! もうすぐだからね!」

「ハイハイ」

「えっと……」

「何?」

「……やっぱあとまわしでいいや」

 そう言うミヨを見て、シンイチは面倒そうに九字を切り、またも周囲の時を止めた。

「……ハイハイ、不動金縛り不動金縛り……」

「え? なに? ……なに?」

 シンイチはミヨの右足を指差した。

「妖怪『あとまわし』」

「え? 心の闇? 私何回目よ!」

「それはこっちのセリフだよ!」

「ていうか、足にも取り憑くの?」

 シンイチはそれには答えず、ただ対処法を示した。

「えっと、今から放置する。そしたら生きるのをあとまわしにして死にそうになるから、勝手に外れる」

「……シンイチくん、怒ってる?」

「なんで?」

「なんか面倒臭そう」

「べつに、怒ってないし」

「私がまた取り憑かれたから?」

「ちげーよ」

「じゃ何?」

「またそっからかよ、って思ったんだよ! だってオレもう四十五の心の闇を退治してきたんだぜ? さっきの『弱気』も『あとまわし』も、レベル一とか二とかの雑魚じゃん!」

「え、心に、レベル一も二もないでしょ」

「レベル低くてめんどくせえよ!」

「『あとまわし』にしなきゃいいんでしょ! じゃ言うわよ! 言うから!」

「何を?」

 ミヨは心臓が喉から飛び出そうになるのを、目をぎゅっと瞑ってこらえた。

「プレゼント頂だい!」

「あ……ハイ」

 ミヨの心の闇「あとまわし」は、その瞬間ぽんと外れた。シンイチは小鴉を抜く。

「ハイハイ、ドントハレ!」

 シンイチは天狗面もつけず、小さな「あとまわし」を一刀両断した。しかし小鴉の火力が足りず、燃えきらない。

「しょうがねえな!」

 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面を出した。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断!」

 小鴉の炎が巻きおこり、黄色いポップな色をした、小さいおっさんのような「あとまわし」は清めの塩と化した。

 シンイチは不動金縛りを解いたが、天狗の面はつけたままでミヨに言った。

「じゃ誕生日プレゼントしてやるよ! 天狗の力でさ!」

「え?」

「こういうのはどうだ!」

 一本高下駄を履き、ミヨをお姫様抱っこする。

「え? 何? 何?」

 シンイチは両足に力を入れた。「跳梁の力」、一本高下駄の力で、シンイチは空高く跳び上がった。

「ホラ! ホラホラホラ!」

 そこは入道雲の上だった。

 ものすごい風が吹いていた。

「ぎゃーーーーーーー!」

 ミヨは絶叫してぶるぶると震えた。

「天狗は絶叫マシンじゃねえよ! ホラ! 楽しいだろ?」

「こわい! こわいこわいこわい!」

「恐くねえよ!」

 いったん着地し、さらに高く飛び上がった。

「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 もくもくと沸きあがる、爆煙のような入道雲。その上昇気流にのって、表面を舐めるようにシンイチは昇ってゆく。

「絶景だろ!」

 入道雲をはるか足の下に見た。入道雲が立体だということが分る。手でつかめそうだ。綿菓子というより、ゴツゴツしたおかきのようだ。山の向こうには、真っ青な海が見えた。地面からいくつもいくつも入道雲が沸きあがっていることが、上空から分った。

「天狗の力ってのは、こういうことなんだよ!」

 この高さは飛行機の飛ぶ高さだ。ちょうどJAL九九九便が通りかかり、天狗面のシンイチはミヨを抱いたまま銀色の左翼に乗った。ジャンボの乗客がその光景に気づいて、機内はパニックになった。

「ちぇっ! 見つかったか! つらぬく力!」

 シンイチは左手から「矢印」を出して翼をぶち抜いた。物理的な力は翼に及ぼさないので、翼に穴があくことはなくワイヤーを打ちこんだようになった。

「いくぜ!」

 その矢印にブラーンとぶら下がり、ターザンよろしく右の翼へ飛びうつる。

「…………!」

 あまりにも訳が分らなくて、ミヨは声さえ出なかった。

「ホラ! スゲエだろ! オレはこれだけの力があるんだ! レベル高えんだよ! どうだ! スゲエだろ! スゲエだろ! スゲエだろ!」

「…………!」

 ミヨの青い顔を見て、シンイチは翼から矢印を離し、地上へ戻った。

「……なんだよ、楽しくねえのかよ」

 天狗面のシンイチは、怒ったままの顔だ。

「……シンイチくん、ヘン!」

 ミヨは泣いていた。

「何が!」

「シンイチくん、ヘン!」

「だから何がだよ!」

「もういい!」

 ミヨは泣きながら走って行ってしまった。

「変ってなんだよ! 天狗の、何が変なんだよ! オレが天狗なのが変なのかよ! 天狗の、何が悪いんだよ!」

 赤ら顔で憤怒相の天狗の面を、シンイチはイライラして叩きつけたくなった。

 だが、天狗の面はシンイチの顔から外れない。

「?」

 思い切り引っ張ってみた。

「イテテテテ!」

 天狗の面は、ぴたりとシンイチの顔に貼りついている。まるで真空で吸いついているかのようだ。

「ちきしょう! 小鴉!」

 シンイチは火の剣で天狗の面を剥がせないかと思った。だがどこにも、剃刀の刃すら入る隙間がない。こじあけようにも刃が間に入らない。

「どうなってんだよこれ! なんだよこれ! つらぬく力! ねじる力!」

 天狗の面をつらぬいても、ねじっても無駄だった。面は益々シンイチの顔に食いこみ、朱い面とシンイチの皮膚の境目が混じったかのようだった。

「なんだよ…… 熱い…… 熱い……!」

 面で蒸れて暑いのではない。天狗面の朱色が、火のように熱くなってゆく。まるで煙でも出たようだ。どんなに発汗しようが無駄だった。

「なんだこれ! なんだこれ!」

 熱中症のように、シンイチは意識が朦朧とし、ぐらりと倒れた。


 歪んだ入道雲がさかさまに見えた。それをつき破って、さきほどのジェットが飛行機雲を描いた。


    2


 暗闇の中にシンイチはいた。

 自分の手も見えなければ足も見えず、右を見ても左を見ても、上も下も後ろも闇だった。立っているのか寝ているのか、それすらも不確かだった。

 さっきのことを思い出して、顔をさわってみた。天狗の面の、木と漆の感触がなくてほっとした。自分の皮膚の感触だ。が、手が鼻に触れてぎくりとした。

 長くなっている。まるで天狗のように。


 ……どっちだ。その一。オレの鼻が天狗みたいに伸びた。その二。天狗の面がオレの皮膚になってしまった。……どっちだ。暗闇の中でシンイチは必死だった。腰のひょうたんから鏡を出した。しかし光も差さない闇の中で、鏡はなんの役にも立たなかった。火の剣を抜き、松明代わりにしようと小鴉を構えた。

 と、闇の向こうに、ぽっと火が燃えた。それはたちまち火柱となり、次に火柱の束となった。三本、四本、五本……九本。遠野で見た、「九尾の火柱」だ。その中から、赤い長衣をまとった僧が姿を現した。赤い衣が炎に踊る。

飛天ひてん僧正!」

 地獄耳の僧正は金の瞳を輝かせ、白い歯を剥き出して笑った。

「醜き天狗づらよのう」


 遠き山の国、遠野で昔から目撃される、空飛ぶ僧形のフライングヒューマノイド。「空飛ぶ赤い衣の僧」とは彼のことである。四百年前の戦国時代、一介の僧だった彼は天狗の修法に目覚め、永遠の生命、不老不死を求めて半人半天狗となった。しかし人としての雑念が強いのか、未だ「半化はんなり」であり、遠野十天狗からは番外の格下扱いされている。シンイチの師、大天狗薬師坊やくしぼうとは何故だか犬猿の仲。


「飛天僧正! 変なんだ! なんかオカシイんだ! 鼻がさ! ここどこ? オレ倒れたの? ミヨちゃんをなぜ怒らせたの?」

「……第一の質問以外の答えは、これで鏡を見るがいい」

 僧正は掌から炎を吹き上げた。その灯りでシンイチは自分の顔を見た。

「なんだこれ……!!!!」

 シンイチの顔が、天狗だった。朱く、憤怒の相で、瞳が金色に光り、眉毛も髭も逆立ち、そして筋肉隆々の長い鼻がそそり立っている。

「天狗を志した者は、殆どが闇に堕ちる。その闇を天狗てんぐどうという」

「?」

「お前は心の闇『天狗』に取り憑かれたのだ」

「……はああああ?」

 その一、オレの鼻が伸びた。その二、面がオレに貼りついて同化した。そのどっちでもなかった。心の闇「天狗」? いつから? そういえば、白い無表情の仮面型の妖怪、「ペルソナ」がいたっけ。つまり天狗の面の形の、妖怪……?

「そして第一の質問に答えよう」

 飛天僧正は辺りの闇を見渡し、言った。

「ここはどこか。お前の、心の中だ」


    3


 シンイチの肉体は、シンイチの部屋のベッドに寝かされ、取れなくなった天狗面のひたいに、冷たくしぼったタオルを乗せられていた。

 飛天僧正の「火よ、伏せよ」の呪文とともに異常な高熱は引いたが、体の芯の方から熱がマグマのようにわだかまっている。

 町の猫たちから「シンイチが倒れた」の第一報を聞き、ネムカケは急いで河原へ走った。天狗の面が取れないまま苦しむシンイチを前に、遠野の大天狗を呼ぼうと思った。それより早く、地獄耳で千里眼の飛天僧正が空からやって来た。

 母の和代は氷水でタオルを冷やし、固くしぼってシンイチの額にのせた。

「……麦茶とか、入れてきた方がいいのかしらね」

 和代はネムカケに聞いた。

 シンイチの傍らには、結跏趺坐けっかふざ虚空蔵こくうぞう菩薩ぼさつ印を結んだまま、意識を失った飛天僧正がいる。

「しばらくかかると思う。スイカでも冷やしておくことじゃの」

 僧正は「つらぬく力」で、シンイチの心にダイブしたのである。



「『心の闇』天狗って、……天狗は……心の闇なの?」

「天狗には二つあるということだ。ひとつは昔から妖怪の王として君臨する天狗。もうひとつは失敗した天狗。人が天狗にろうとするとき、殆どは闇に堕ちて失敗する。おそらくその間違った天狗こそ、心の闇『天狗』の原種だと儂は考えている」

「間違った……天狗?」

 シンイチの心の中、無限に広がる闇の中で、九重の火柱の中の飛天僧正にシンイチは問うた。飛天はにやりと笑った。

「増上慢。思いあがり。鼻高々。『あいつは天狗になった』と言われるとき、それは間違った天狗になったということだ」

 シンイチは己の鼻を触った。長く長く伸びていた。

「そもそも人の魂は、六つの世界、六道りくどう輪廻りんねする。すなわち天道てんどうじん道、修羅しゅら道、畜生ちくしょう道、餓鬼がき道、地獄じごく道なり。人は修行し、魂を高めることで天道へと上ってゆく。多くの菩薩ぼさつは、人から天へ上ろうとする者のことだ。弥勒菩薩みろくぼさつは五十六億七千万年後に人を救う為、今、天道のひとつ、兜率天とそつてんで修行中だ。地蔵じぞう菩薩などはわざわざ人道に居残り、人々を助ける苦行の道を選んだという。その道に反し、力に溺れ、己の為だけに力を使う自己中心的な魂は、六道の外、外道げどうと呼ばれる天狗道に堕ちる」

「……天狗道」

「二度と生まれ変わらん。従って不老不死。天狗道は魔道ともいい、そこに君臨する者を魔王と呼ぶ。魔王は何人かいる。魔王波旬はじゅん鞍馬山くらまやま護法ごほう魔王まおうそん、ハクション大魔王などだ。かつて天下人織田信長は『第六天魔王』を自称した。六道を超える外道、魔王波旬の名で仏法の敵を名乗り、頂点比叡山を焼いたのだ」

「……魔道……」

「人が不老不死を目指すとき、魔道天狗道に誤って堕ちる。その輩には……笠置山かさぎやま大僧正(人間名道昭どうしょう法相ほっそう宗。遣唐使で中国で修行、玄奘げんじょう三蔵さんぞう法師の日本人唯一の直弟子)、迦葉かしょうさん中峯ちゅうほう尊者そんじゃ(人間名中峯ちゅうほう。曹洞宗。関東三大天狗の一)、飯綱いづな千日せんにち太夫だゆう(人間名伊藤いとう盛綱もりつな荼枳尼天だきにてん法)、讃岐に流され怨念の余り天狗道に落ち、呪術をほどこして金色の鳶となった崇徳すとく上皇など、山ほどいるぞ」

「オレは、天狗道に落ちたの……?」

「儂が遠野の十天狗がそもそも気に食わんのは、やつらが人を下に見ている輩だからだ。それは増上慢なり。魔道天狗と変わらぬ」

 飛天は素早く印を組み、九本の火柱を大きく燃やした。

「人が力を得ると、すぐ天狗になる。お前は心の闇の取り憑く、『天狗になった』瞬間があったのだ。その増上慢のつらを焼くぞ。……九尾の火柱!」

 九本の火柱がシンイチを襲った。

「あつっ! 何すんだよ!」

 シンイチは身をよじってよけ、闇へ飛んだ。


 あっという間に僧正を置き去りにし、天狗シンイチは上へ上へと飛んでゆく。ここはシンイチの心の中だ。シンイチの心の大きさ、速さ、深さに比例する。シンイチは入道雲より高く飛んだ。飛行機の高さに飛んだ感覚を思い出す。シンイチは自分が拡大してゆく感覚になった。

「オレにこんな力があるのに、それを十分に使ってなにが悪いんだよ!」

 シンイチは叫んだ。闇がびりびりと震え、無限の空間に響いた。

 飛天は迦楼羅かるら印を組み、宙へ飛んだ。

「逃さん!」

 暗闇の空中で、飛天と天狗シンイチが交錯した。

「つらぬく力!」

「つらぬく力!」

 互いの指から出た槍が空中で激突し、はげしい火花と轟音を立てて消滅した。

「互角か! ねじる力!」

 飛天は右掌を突き出し、空間を右にねじる。

「ねじる力!」

 シンイチは左掌を突き出し、左にねじる。

 ふたつのねじる力も空中で衝突し、同じく対消滅して真空になった。

 飛天は三宝さんぽう荒神こうじん印を組み、真言とともに右の拳を突き出した。

「火よ在れ! 八岐やまたの竜!」

 右拳から燃え盛る火球が打ち出され、シンイチへ襲いかかる。飛天が掌を開いた瞬間、火球は八つに分れ、八方から炎の竜のようにシンイチを襲った。

「吹き飛べ!」

 シンイチは咄嗟に腰のひょうたんから葉団扇を出し、ぐるりと回って大風を吹かせ、八つの炎を飛ばした。

「ちっ、天狗風を吹かすか」

 飛天は舌打ちし、虚空蔵菩薩印を組んだ。

「火力を上げて行くぞ! 七支炎しちしえん!」

 突き出した両の中指から、火の舌のような火炎放射が真っ直ぐにのびた。そこから分れた六つの脇炎がフェイントをかけて襲い、それ以上に火力のある本体が、脇炎に気を取られた一瞬あとに心臓を突き刺す。

「ややこしい!」

 シンイチは左手のねじる力で六つの牙をねじって狙いを逸らせ、七つ目を葉団扇で跳弾させて角度を変えた。

「オレはこの力を存分に使いたいだけなのにさ! 天狗つぶて!」

 シンイチは葉団扇を大きく振り回した。雹が飛ぶ。山で雲もないのに突然雹が降るのは天狗の仕業である。それを天狗礫という。

 飛天は印の組をまた変える。大黒天だいこくてん印、歓喜天かんぎてん印、持国天じこくてん印。

「六自由度の火!」

 先程よりも巨大な火球を、両掌の間より生じた。火球は三軸と左右の複雑な螺旋スピン運動を描きながら成長し、周りに重力場を生じた。天狗礫はそれに巻き込まれ、たちまち蒸発する。

 シンイチはかくれみので透明になり、飛天の背後をとった。飛天は咄嗟に息吹を吐いた。それは「アグニの呼吸」だった。

五臓ごぞうほむら

 飛天の五体から五色の炎が生じ、防護壁となった。

「くそっ!」

 シンイチは葉団扇で払い、よける。しかしひとつの炎がシンイチの右足をとらえた。

「あつい!」

「跳梁にせよ飛翔にせよ、足を焼けば動きは止まる。天狗といえど、弱点はある」

 飛天はまた複雑で長い印を組む。火之迦具土神ひのかぐづち印、別雷命べつらいのみこと印。人差し指を天に支えた。

四象ししょうの雷火!」

 一撃目の雷で葉団扇を飛ばし、闇に団扇は消えた。二撃目の雷は長い鼻に直撃する。雷のスピードは火より速い。見たときは落ちたときだ。避雷針のように、長い鼻が雷を誘導したかのようだった。鼻はブスブスと黒焦げになり、半ばから崩れ落ちた。

 三撃目、四撃目は顔をかばった右手、左手に落雷。

「……つらまでは焼けぬか」

 飛天はさらに印を組み、速い真言を唱え続ける。

「なーにーすーんーだーよー!」

 焦げた両手の間から、激怒して髪が逆立ち、朱く染まったシンイチの天狗顔が現れた。

「オレはこの力をフルパワー使いたいだけなんだよ! このフルパワーに他の奴らがついて来れないだけなんだよおおおおおおお!」

 シンイチは叫んで口を開いた。あまりにも力が込められていたので、顎が頬をひきちぎった。その奥から、シンイチの心を示すような赤黒い炎が吐かれた。それはごうと音を立て、飛天に迫る。

「ふん……立派な魔道天狗よ」

 飛天は刀印を早九字に切った。

「不動金縛り!」

 シンイチの口からの火炎放射は、空中で時を止められた。

 二人の男は、同時に九字を切った。

「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」

「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」

 獨古印どっこいん大金剛輪だいこんごうりん印、獅子じし印、内獅子ないじし印、外縛げばく印、内縛ないばく印、けん印、日輪にちりん印、隠形おんぎょう印。

 印を組むスピードは、同時。

「不動金縛り!」

「不動金縛り!」

 びしりと闇が破れんばかりの音が響いた。二人の不動金縛りは全く同時だ。互いが互いを不動金縛りにかけ、天狗姿のシンイチも飛天僧正も、空中で時を止めた。


    4


「奴め、言いたい放題だな」

 大天狗が金の目で様子を見ながら、飛天に愚痴った。遠野二の天狗、六角牛ろっこうし炎寂坊えんじゃくぼうが横槍を入れる。

「間違ってはいないだろう。人は力を持つと、すぐ天狗になりよる。我々『本来の天狗』は、いい迷惑じゃい」

 天狗は光る金の目を持ち、それは千里眼である。どんな遠くの事でも目の前に見ることが出来る。

「あのボウヤ、どうやって内なる増上慢を破るつもりかね。魔道に堕ちるか本物の天狗か。いよいよもって楽しみだい」

 すっかりシンイチを気に入っている特白種アルビノの女天狗、三の天狗石上山いしかみやま白女しらめは天狗酒を片手にニヤニヤする。

「飛天になぞ行かせるのではなかった。弟子の危機に、わしが行くべきだった」

 大天狗はほぞを噛む。

「阿呆。心の闇『天狗』とわしら天狗じゃ、相性が悪すぎるだろう」と炎寂坊が戒める。

「人の子と天狗の仲立ちをする、半人半天狗の飛天が適任」

「頼りなし。十天狗に数えもされぬ番外ふぜいが」


 シンイチが心の闇「天狗」に取り憑かれ、天狗道へ堕ちた。そのニュースは、またたく間に遠野中の山へ広がった。いの一番に飛天が飛んだ。

 遠野七十七の山のひとつ、象を埋めた故地震が起こらぬというジャウヅカ森に、遠野三天狗が集まり心配していた。勿論他の七天狗たちも、それぞれの山から千里眼で、飛天僧正と天狗シンイチの一進一退の攻防を見守っている。


「そのディスり、筒抜けだぞ糞薬師。地獄耳の僧正を舐めるな」

 不動金縛りにかかっていても、なお飛天僧正は口から毒を吐く。

「金縛りの験力げんりきがぬるいぜ僧正」

 シンイチも口をひらいた。黒い闇、シンイチの心の中で、二人と炎は空中で時を止めたまま口だけをひらく。飛天僧正は、シンイチに向かって言った。

「では金縛りが解けるまで、問答勝負といこうか。闇とはなんだ? 答えよ人の子よ」

「……闇?」

「光差すところ、反対側に闇が生まれる」

 飛天は目をむき、持論を展開した。

「この世はもともと全て闇だ。この心のように。宇宙のように。しかし光もある。光が差す。それが宇宙であり、心だ。だが、全てに光を当てることは出来ない。出来るのは無限遍光大日如来だいにちにょらいのみだ。だから全ては不完全だ。光が差すところ、必ず影が出来る。正確に言えば、光が差すと、逆側に闇が集まる。強い光であればあるほど、闇は濃くなる。夏の日差しのように」

 シンイチは夕立の後、木陰でアイスを食べたことを思い出す。木漏れ日は強く、木陰は暗い。

「人の心には闇がある。同時に光もある。光を強くすればするほど、闇も強くなってゆく。力を得るということは、同時に深い闇も飼うことだ。その闇に溺れた者が天狗だ。儂は闇になど溺れぬ。人として光の力を得、人として闇を飼い慣らして生きてゆく。はげしい力ははげしい闇と対だ。人は両義だ。闇深ければそれだけ光も放てる。すなわち、同居することだ。制御することだ。それが人として、人のまま、天狗ふぜいに溺れず、高みに上がることだ」

 天狗シンイチは金縛りのまま暴れた。

「オレはさあ! この力をもっと使いまくりたいのさ! 四十五の心の闇を倒してきた! 数で言えばもっとだ! もっと強い奴と闘いたいのさ! もっとレベルの高いことをやりたいのさ! こんなところで『弱気』とか『あとまわし』とか雑魚虫潰してる場合じゃないんだよ! オレはもっと強えんだ! もっと活躍したいんだ! フルスロットルを出したいんだ!」

「のびる。鼻がのびとるぞ」

 シンイチの鼻がのびてゆく。増上慢の鼻がのびてゆく。先程「四象の雷火」で半分に折れた鼻は元の長さになり、それ以上にのびてゆく。

「それは向上心という光の、反対側に出来た闇かも知れぬな」

「もっと力を使いたい! もっと! もっと!」

「その闇の名を知れ。己の闇の名を、特定せよ」

「うるせえなあ! この金縛り解けよ! ブッ殺すぞ!」

「やってみろ! ねじ伏せてくれる!」

 獅子と竜が吼えあう。互いに互いの動きを止めたまま、殺気だけが互いを刺し合う。


 とそこへ、もう一人のシンイチがトコトコと歩いてきた。

「何! シンイチ!」

 飛天僧正は目を丸くして驚いた。目の前に天狗相のシンイチ。脇から出てきたのは、ごくふつうのシンイチだ。そのシンイチは、天狗シンイチを眺めて言った。

「ああ。これが心の闇『天狗』に取り憑かれたオレかあ。結構コワイ顔してるね」

「お……お前もシンイチなのか?」と飛天僧正は尋ねた。

「飛天僧正ひさしぶり! ここはオレの心の中だろ? どうにでもなるよオレの心だから。オレは別人格のシンイチ。オレもシンイチだし、この超鼻長いのも、シンイチだ」

 シンイチは空中に固定されたままの炎をひょいとよけて、二匹の猛獣の前にやってきた。

「オレさ、今までの『心の闇』との闘いでさ、なんとなく分ってきたのさ」

「何がだ?」

「心の闇ってのは、色々な方向に出来る影みたいなもんだってこと」

「……どういうことだ?」

「飛天僧正のさ、光と闇の話も分るよ。闇の克服は、闇の自覚ってことも分る。でも、人は中々自分の中に闇があることを認めたがらない。自分は最初から光の側だって無邪気に信じてる。だから、自分の闇を見つめるのが恐いんだよね。関係ないことにしたい」

「その通りだ。だからこそ光の力と闇の力の相克を……」

「それ、ちょっと古いと思うんだよね」

「な……なんだと?」

「光ってのはさ、色々なところから来るじゃん。一方向からじゃなくて、色んな所から光は差すよ。そりゃ昔は太陽しかなかったかも知れないけどさ。だから神と悪魔という単純な二元論だったのかも知れない。でも今は人工の光もあるし、色んな考え方もあるし、ひとつの影じゃなくて、たくさんの方向があるよね。それが現代モダンだよ」

「……ふむ」

「光が、色んなところから差しては消えるんだ。影もいろんな方向に出来ては消える。光と闇は、いろんな角度に、一時的に出来ては消え続けてる。そうやって今の人は生きてると思うんだ。闇が出来たって、別の角度から光が当たれば消えちゃうんだ。ところが、それが中々消えなくなったのが、心の闇なんじゃないかって思うんだ」

「……ほう」

「何故だか知らないけど、心がくよくよしたり、何かに拘ったりして、同じところをぐるぐる回ってしまうとき。そのループに落ちこんだら、闇が消えにくくなるんだよね。闇のループ。新型妖怪『心の闇』は、そこにやって来て、闇を固定化してしまうと思うんだ」

「成程」

「光がいろいろあるから、闇もいろいろ。その闇の名前を見極めないと、光の方向も分からない。その闇にとっての逆方向の光が必要で、『ただ正しいだけの光』なんてないよ」

「絶対的に正しい光が……ない?」

「先生の道徳の説教なんて意味なかったりするじゃん。結局闇が濃くなるだけ。だから闇に光を当てても、必ずしも消えないのさ。でも、闇をはっきり見て、闇の名前を確定して、闇とともに生きる覚悟があるほど、人は強くない」

「だから修行して強くなることで、闇にとらわれぬように……」

「それじゃ、二項対立に単純化する罠にはまる」

「?」

「……多分、こうすればいいんだ」

 シンイチは、対立する光と闇、飛天僧正と天狗シンイチを結ぶ線上から離れ、横から二人を見る位置に歩いた。

「横から光を当てるの!」

 シンイチは小鴉を抜き、火をかざした。

「光は色んな所から当てられるし、色んな所から勝手に当たる。色んな所に影が出来るんなら、色んな所から光を当てれば、うすまる。そうすれば勝手にループから脱出できると思うんだ」

「むうううううう」

 飛天は唸った。自分が四百年考えてきたことと、直角方向からのアプローチだった。

「……その横からの光。それは、知恵の炎か」

「そういう風に言うの? 『考え方』みたいなことだよね!」

「……して、貴公はこのシンイチの心の天狗状態に、どのように横から光を当てるというのだ?」

「んーとね」

 シンイチは考えた。

「『天狗の力をめちゃめちゃ発揮してえ! オレスゲー!』ってのが、闇の名前じゃん? 僧正は、たぶん『謙虚になれ』って光を逆から当てようとしてんじゃん? ……じゃあさ、『力と関係ない、力』が正解かな?」

「? ……それはどういうことだ」

「……そもそもススムの弱気とか、ミヨちゃんの誕生日プレゼントから、この闇がはじまってるんだよね……」

 シンイチは考え込んだ。天狗のシンイチが吠えた。

「だから天狗の力でミヨちゃんを楽しませただろうが! 何が悪いんだ!」

 シンイチは天狗シンイチに向き合った。

「でもミヨちゃん、ビビッて泣いてたじゃん。彼女を喜ばせてあげなきゃ」

「だから天狗の力で!」

「あ。……力を使わないプレゼント! それが正解じゃね?」

「?」

「……でも嫌だなあ。でもやってみるか!」

「?」

「ミヨちゃんの大好きな小説、アントニオなんとかの『脱獄』を読んで、感想を話す」

「は? それのどこがプレゼントだ!」

「だって前からオレに、何回も読んでって言ってたじゃんか! オレが読むのが彼女の望みなんだよ! それでプレゼントにならないのなら、……『オレが朗読する』ってのはどうだろ!」

「ハア?」

「そうだ、そうしよう! それがいいかどうか、ミヨちゃんに直接聞いてみよう!」



 突然、シンイチは目覚めてベッドから飛び起きた。


 見守っていた和代とネムカケは、びっくりして反射的に後ずさった。シンイチの顔面と一体化していた妖怪「天狗」は、ぼろりと外れた。

 飛天僧正は瞑想状態だった半眼を見開き、歯を剥いて笑った。

「見事なりてんぐ探偵」

「飛天僧正!」

「考え方を変えることで、次に誘導するのか」

「あはは。思いつきだけど!」

 妖怪「天狗」は、天狗面の裏に貼りついていた。いつの間にか面の裏に滑り込んでいたのだ。

「どこからでも心の闇は忍び寄るんだね。ゴキブリみたいだぜ!」

 シンイチは天狗の面を拾った。

「じゃあゴキブリ退治するか!」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「いくぜ火の剣!」

 腰のひょうたんから朱鞘の小太刀を抜くと、天狗の炎が巻き上がった。

「あ、飛天僧正! さっき『九』尾の火柱から『四』まで数え歌やってたじゃん! あれ、数が減ってくたびに威力が上がっていくんだよね? 三、二、一も見せてよ!」

「容易に人に術は見せん。主が『九尾の火柱』が出来てからだ」

「えええ無理」

「と言いたい所だが、儂が四百年かけて練ってきたことと全く違うやり方を見せて貰ったからな。夏休み特別スペシャルだぞ」

 飛天は歯を剥いて笑い、立ち上がった。

「この部屋は闘うには狭い」

「よし、つらぬく力!」

 シンイチは矢印で心の闇「天狗」をぷすりと貫いて、ピンに刺した虫のようにとらえた。

「昆虫採集みたい! あるいはバーベキューか!」

 二人は河原に飛び、周囲に不動金縛りをかけて妖怪「天狗」を解放した。


 飛天僧正は再び長く複雑に印を組む。大通智勝だいつうちしょう如来にょらい印、孔雀くじゃく明王みょうおう印、降三世ごうざんぜ明王印。みょうけん菩薩印、青面しょうめん金剛こんごう印、六臂ろっぴ大黒天だいこくてん印。

「闇に火よ在れ。無知蒙昧有象無象の闇なる循環を、六道りくどう輪廻りんねの光の側へ導け。循環のことわりの外の者、天狗の名に於いて」

 僧正は左掌を右肘に添えた。右手は金剛指こんごうし(中指に人差し指と薬指を三角形に添えた、突きこんでいく形)で、その先に強い火の光が生じた。

三絶さんぜつ

 火球の三連弾が上段、中段、下段と同時に襲う。が、僧正はこれを途中で止めた。

「本来は三つ同時に当てる。次は、両儀りょうぎ

 左右の掌から二色の火球が生じた。ひとつは黒、ひとつは白。僧正が両腕を交差すると、二つの火球が弧を描いて挟み撃ちにする。しかしこれも途中で止めた。

太極たいきょく合一ごういつ

 右手を拳に、左手を掌に変え、右拳を左掌で包み込む。中国拳法の拱手きょうしゅの形である。陰と陽がひとつになる様を示していることは、シンイチにも分った。

 空中に停止していた、「両儀」の白と黒の火球が、太極螺旋を描いてひとつに混ざり合い、妖怪「天狗」を巡り球型の結界を張った。

「あとはこの結界を狭めて爆縮する。九尾の火柱、八岐の竜、七支炎、六自由度の火、五臓の焔、四象の雷火、三絶、両儀、太極合一。……以上飛天僧正数え歌なり」

 飛天は印を解いた。

「妖怪退治の手柄はシンイチに譲ろうぞ。小鴉は、儂が直した分切れるんだろうな」

「勿論!」

 葉団扇紋の刻まれた朱の柄を握った小天狗は、天高く飛び上がった。

「火よ在れ! 小鴉!」

 濡れた黒曜石の刃からは、紅蓮の火柱が燃え上がる。

「一刀両断!」

 天の中心から小天狗が落ちてくる。炎の中から現れる。

 天狗の剣で妖怪「天狗」は、真っ二つに割れた。長い鼻ごと丁度縦に真っ二つ、正中心をとらえた。

「いい太刀筋だ」

 飛天は目を細めた。

「これにて、ドントハレ!」

 小鴉の炎は、「天狗」を赤く赤く染めた。爆発的にそれは清めの塩となり、四方八方に飛び散り風に消えた。



「では失礼する」

 そう言って飛天僧正はあっという間に空高く飛び、一陣の風を残して空飛ぶ点となってしまった。

「飛天僧正! スイカぐらい食べてってよ!」

 シンイチは空に向かって叫んだ。と、米粒のようになった僧正は、たちまち地面に降り立ち、歯を剥いて笑った。

「馳走になろう」

「食べたいのかよ!」

「飛び散った塩でもふりかけて、かっ喰らってやろう」


 シンイチは飛天僧正とネムカケと三人でスイカをたらふく食べた。庭で再会の約束をして、飛び立つ僧正を見送った。

「そうだ! 『脱獄』買いに行かなきゃ!」

 シンイチは本屋にひとっ走りして、分厚い「脱獄」を買ってきた。勿論、宇和島うわじま先生翻訳版である。その足で、ミヨちゃんに謝りにいくことにした。


「オレ、調子に乗ってたよ! ミヨちゃんのこと何も考えてなかったし! お詫びにこれ!」

「『脱獄』? 私持ってるわよ」

 ミヨはまだ怒っていた。

「ちげーよ! オレが最初から最後まで、ミヨちゃんの為に朗読しようと思ってさ! バキューンとかドカーンとか効果音つきで、迫真の芝居で!」

「はあ? バッカじゃないの?」

「だって面白いんだろ? じゃあ最高じゃん!」

「……途中で寝るんでしょ? 寝たら殺すよ?」

「がんばる!」

「最高の本なんだからね? 最高のお芝居見せてよね!」

「がんばる!」

「……しょうがないわねえ。そこまで言うんなら」

「がんばる!」

 ここに来て、ようやくミヨは少し笑った。シンイチはほっと胸をなでおろし、こうして天狗騒動に始末がついた。



 八月九日。

 強い日差しの一番濃い闇の木陰で、シンイチはミヨに「脱獄」の読み聞かせをはじめた。それは猛烈に面白い冒険小説で、星空が出るまで、声が涸れるまでシンイチは読み続けた。シンイチは何週間もこの話を鮮明に覚えていて、読書感想文ももりもり書いた。苦手な作文を一気書きした、はじめての体験だった。

 ミヨはこの日を、生涯大切に覚えていた。



 今年の夏は、こうして終わってゆく。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る