第3話 「爆音ギタリスト」 妖怪「いい子」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「いい子にしてなさい」

 それは長女の真理まりにとって、長い間の呪縛だ。

「いい子にしてなさい。あなたはお姉ちゃんなんだから」と、母に言われ続けたのである。

 その呪いの鎖によれば、長女は先に生まれた立場だけでなく、いい子であるべきであり、模範的で、優等生で、妹よりしっかりし、自分の意志よりも皆のことを第一に考えるべきであった。


 伊澤いざわ真理の母、嘉子よしこは生真面目な性格で、長幼の別をきちんとつけて育てた。姉は姉であるべきだ、とするものの、では「妹はどうあるべきか」について、真理は彼女から確固たる考えを聞いたことはない。

 物心ついた時からそうだった。ケーキを分けるときは、大きいほうと小さいほうがあるならば、大きいほうを妹に譲るのがあるべき姉の姿だった。仮に大きさが厳密に同じだとしても、イチゴの乗っているほうは譲るべきだ。それが姉。「譲る」といえば聞こえはいいが、姉にとってみれば、大きな赤いイチゴは、永遠に手に入らないものの名である。姉は生まれながらにイチゴを食べる権利を剥奪され、妹は生まれながらに独占する権利を有する。

 小学三年生のとき、動物園にいった。真理は、ピンクのカバのぬいぐるみと目が合った。彼はつぶらな瞳で真理を見つめ、彼女は恋に落ちた。どうしても彼と暖かい布団の中で添い遂げたくなり、真理は一世一代の駄々を母にこねた。その駄々の何が下手だったのか、いまだに真理には分らない。ただ返ってきた母の言葉は、「お姉ちゃんなんだから我儘言わないで、いい子にしてなさい」という、いつもと変わらぬ呪文だった。ぽろぽろと涙を流しても、真理には声を上げて泣くことが出来なかった。何故なら、声を上げて泣くことは「いい子」ではないからだ。そばで見ていた妹の優希ゆきが、自分より下手と思われる駄々を三秒こねただけで、そのつぶらな瞳は彼女のものとなった。

 自分の駄々のどこが悪かったのか、いまだに真理には分らない。ただそれ以来、真理は駄々をこねるのをやめた。


 自分は姉で、責任感のあるいい子でなくてはならない。家族で写真を撮るときも、優希が真ん中になるように席を譲り、控えめに端にいるべきだ。どの写真でも、優希は天使のように真ん中で笑い、真理は端で真顔である。自分は笑うのが下手だと、いまだに思う。天使のような笑い方など、彼女は一度も人生で学んでこなかった。

 妖怪「いい子」は、だから真理の半生に取り憑いている。彼女がいい子であればあろうとするほど、妖怪「いい子」は彼女の心から栄養を吸い、少しずつ成長した。しかし彼女は中学生になって、親に黙って突然バンドをはじめた。そうして心のバランスを取り戻そうとしたのだ。表向きは生徒会委員だが、裏ではシド・ヴィシャスを愛し、パンクとヘビメタを愛する二重生活。そうして伊澤真理という人格の、一端の完成を見た。

 高校の卒業アルバムでも、真理は無意識に端に写っている。妖怪はデジタル写真に写らず、アナログ写真には写る。この頃はアナログでも撮っていたから、我らがてんぐ探偵シンイチが見れば、妖怪「いい子」が彼女の肩口でニヤニヤ笑う姿を指摘するだろう。


 彼女は大学入学と共に、山形の親元を離れ東京へ出た。そこでようやく、彼女は「本当の自分の姿」を手に入れた。長い黒髪を切り落として金髪に染め、耳にはピアス穴を沢山開け、目の周りを黒く塗り、緑のチークと紫の口紅をし、つまりは顔の全てに加工を施した。淡い色のブラウスと長めのスカートは、合成皮に棘のついた上下と、銀の鎖と十字架と髑髏と、呪いの言葉が印刷されたTシャツに変わった。東京で本当のパンクロックをやるのだ。彼女は自分と似たような好みの子たちとバンドを組んだ。田舎の子の、典型的な大学デビューだった。

 だからと言って、彼女から妖怪「いい子」は外れなかった。それは彼女のアイデンティティの一部に、最早なっていたのかも知れない。シンイチが美容院の前で偶然彼女にぶつかるまで、それは誰にも、彼女自身にも知られることはなかったのだ。


    2


 その日の放課後、シンイチは好物のソフトクリームを舐めながら、河原グランド目指して走っていた。友達のススム達とサッカーの約束があったからだ。商店街の裏道から抜けようと角を勢い良く曲がると、丁度美容院から出てきた真理にぶつかってしまった。彼女が担いでいた黒のギターケースにシンイチは手を取られ、彼の愛すべき乳白色の塔は宙に舞い、頭からの華麗な着地を地面に決めた。

「うおおおおおおお!」

 シンイチの絶望的な雄叫びに、真理は思わず同情した。

「ごめん。弁償する。それでこの落ちたソフトクリームは帰ってくることはないけど、ソフトクリームが地面に落ちることほど悲しいことは世の中にはないよね」

「お姉さん、話が分るね」

 悲惨に飛び散ったソフトクリームから顔を上げたシンイチはぎょっとした。目の周りを黒で塗りつぶした、全身黒革に棘をつけ、銀色の鎖を下げた恐ろしい女がいたからだ。ヒーローものなら悪役がするような格好だ。しかもその肩には、対照的な、妖怪「いい子」が取り憑いていたからである。


 真理に買ってもらった真新しいソフトクリームを舐めながら、シンイチは妖怪「いい子」の話をした。

「でもさ、お姉さんの見た目は、どっちかというと『悪い子』だよね。『いい子』に取り憑かれてるのとは真逆だよ」

 妖怪「いい子」は、大人に媚びた幼女のような顔をして、長い睫毛の目をぱちくりさせている。派手なレモンイエローで、キラキラした目は体の半分を占めている。シンイチは腰のひょうたんから出した手鏡を真理に見せ、妖怪「いい子」を映してみせていた。

「その黒いギターケースの中には、絶対マシンガン入ってるよね? ダダダッと撃って、バラの花を散らすんだよ」

 彼女は笑った。

「ただのフェンダーギターだよ。多分さ、『いい子にしてなさい』と言われてきたことへの反動なんじゃない? 最初に私がバンドはじめたのも、単なる母親への反抗だったかもだしさ」

「じゃあそれで心のバランスは取れてるのかなあ。そんなに心の闇は大きく成長してないし」

 真理の肩の「いい子」は、何年も取り憑いている割に、グレープフルーツ程度の大きさに過ぎなかった。

「でもさ、自分の心のバランスの為に音楽やってんじゃないよ。私は、私の音楽で、世界を変えたくてやってんだよ」

「カッケー!」

 そこへ、電話がかかってきた。ディスプレイを見、真理は嫌な顔をした。

「出ないの?」

「……出たくない相手なの」

「じゃ出なきゃいいじゃん」

「……そういう訳にいかないの」

 真理は直立不動になり、電話に出た。その瞬間、彼女の妖怪「いい子」が膨らんだ。電話は、母の嘉子からだった。来週の祖母の三回忌に、長女として顔を出すこと、というのが内容だった。

「……」

 真理は思いつめた顔をして、出てきたばかりの美容院へ入った。シンイチは彼女が再び出てくるまで、ソフトクリームの残りを舐めて待つことにした。


 てんぐ探偵シンイチには、天狗の力が備わる。山の王たる天狗は、全ての動物と心が通じ、動物の言葉を話すことが出来る。とくにシンイチは猫やカラスとの会話が得意だ。

 今日の野良猫情報網によれば、新たな妖怪出現情報はなく、どこの屋根の日当たりがいいかというのが話題のようだった。


 美容院の扉が開いた。出てきたのは、黒く長い髪の、色白のすっぴんで黒縁のメガネをかけた女だった。

「え? ……さっきのお姉さん?」

「なんだ。まだいたの」

「か、髪の毛って伸びるの?」

「ウィッグ。まあカツラみたいなもんよ。……女って、いくらでも化けられるのよ」

「へええええ!」

 服装も違ったら、シンイチは同一人物と見分けられなかったことだろう。ていうか、同じ服を着た別人だと思ったぐらいだ。肩に取り憑いた妖怪「いい子」が目印で、やっと確信できたぐらいだ。そしてシンイチの予想通り、妖怪「いい子」は少し大きくなっていた。

 真理は黙って駅の方へ歩き出した。

「ねえ! どこ行くのさ!」

「喪服を買いに行くのよ。法事の為に帰省するの」

「そこで、『いい子』を演じなきゃいけないんだね?」

 真理の足が止まった。

「そうよ! 何が悪いのよ!」

「ホラ、今また肩の妖怪が膨れた!」


 全身黒の清楚なワンピース、黒く長い髪で黒縁のメガネ。生徒会時代の私がそのまま成長すればこうだろうという見かけを、彼女はデパートの売り場で手に入れた。礼服売り場から出てきた彼女の「いい子」は、グレープフルーツ大から、既にスイカ大になっている。

「そんなのやめときなよ! 無意識に『いい子』を演じるのは、妖怪のせいなんだよ!」

「放っといてよ! アンタなんかに何が分るんだよ!」

 真理は怒って走り去った。

 シンイチは腰のひょうたんから、隠形おんぎょうの力をもつ「天狗のかくれみの」を出した。透明な姿になり、彼女の法事を尾行することにしたのである。


    3


 伊澤家は、山形の田舎の旧家である。黒づくめの親戚一同四十五名が、本家の三回忌の為に集まってきた。「優等生」で長女の真理は、黒の喪服と黒髪と黒眼鏡で地味に座り、黙ったまま親戚たちに「いい子」を演じていた。東京の話を聞かれても、真面目に勉強している話しかせず、バンドのことなど一言も漏らさない。

 式も終わり、精進落としの宴会が催された。親戚一同が座敷に寿司や肉や酒をふるまわれた。久しぶりに会った妹の優希が随分派手になったのを見て、本家の法事にふさわしい髪の色や口紅じゃないと言いたかったが、この時間さえ終われば、黙って東京へ戻って縁は切れると我慢した。

 周囲に聞かれるままに、優希は自分の派手な男関係を自慢していた。ナントカさんとも付き合った、ナントカさんとも付き合った。その遍歴の中に、真理の片思いだった御法川みのりかわさんが入っていて、真理は静かだった顔を崩した。

「その人って……」

「昔お姉ちゃんが好きだった人ってのは知ってたよ。でも向こうから好きだって言って来たし、興味があったから付き合ってみたの」

「そういう事で、簡単に付き合うものじゃないでしょう」

「そんなこと、付き合ってみないと分んないじゃん。つまんないからもう別れたけど」

 優希は、自分の寿司の中から嫌いな鯖と赤貝を取り、真理の皿に移して、天使のような顔で笑った。

「これあげるから、マグロとウニ譲ってよ」

 恋はお寿司とはちがう。そんな簡単なものじゃない。そう切れようと思った。いつまでも私に甘えてんじゃないわよ。そう切れようとも思った。なんであんたは皆に愛されてる前提で、天使のように笑うのよ。そう切れようとも思った。姉として、理屈立ててきちんと説明するべきだと真理は思った。妹がなんの理由もなく許されて存在している事に、理屈が立たなかった。そんなの甘えだ。お前は人生に甘えてる。なんなのその服。順番に言葉が彼女の中でぐるぐる回り、結局真理から出てきたのはたった一言だった。

「カバは私のものになるべきだった」

 優希はぽかんとなり、周りの親戚も同じ顔になった。

「……何のこと? お姉ちゃん」

「いい? 私は二歳しかアンタと変わらないの。二年しか人生の先輩じゃないのに、何で何年も何年も、一生アンタに譲りつづけなきゃなんないのよ。もう全部譲ったわよ。一生分譲ったわよ!」

「お寿司のことで怒ってんの? あ、御法川のこと?」

「全部よ! カバだってイチゴだって写真だって!」

「一体何の話よ?」

「何で私ばっか我慢を続けなきゃいけないのよ! もう譲らない! 人生の先輩としての義務は果たしたわよね! むしろ、今まで譲った分返してよ!」

 支離滅裂なのは自分でも分ってる。だが堰を切ったように感情が止まらなかった。

「どうしたの?」

 二人の喧嘩に、母の嘉子が割って入った。

「お母さんもお母さんよ! 本当の私を何も知らない癖に! どうして優希はやりたい放題で、私だけなんでも我慢しなきゃいけないのよ! どうして私はいい子じゃなきゃいけないのよ!」

「私は、いい子であることがあなたの為だと思って……」

「そんなの本当の私でも何でもないわよ! 私はシド・ヴィシャスを愛してるのよ! そんなことも知らないでしょ? 誰にも言ってないからね!」

 彼女は立ち上がった。黒縁のメガネを外し、黒い髪のウィッグをぶちぶちと外して畳に叩きつけた。現われたのは、田舎のおごそかな場には似つかわしくない、ホワイトブリーチの効きまくった金髪だった。

 母の嘉子も親戚もどよめいた。妹の優希だけが落ち着いて、マグロとウニを掠めていた。


    4


 あれだけのブチ切れパフォーマンスをしていながら、妖怪「いい子」は彼女から外れなかった。シンイチはかくれみのの中で火の剣を抜く準備をしていたが、膨らんだ「いい子」がしぼむだけでストレス発散にしかならず、てんぐ探偵としての出番はなかった。

 翌日。美容院にウィッグを帰す為真理が家を出た、との情報を電柱のカラスから受けたシンイチは、美容院の前で先に待っていた。カラスはじゃれあって欲しそうだったが、気味の悪い子に見えるから今は遠慮してくれ、とシンイチは断り、カラスたちは電線の上でしょんぼりした。

 金髪姿で現れた真理に、シンイチは言った。

「全然似合ってなかったよね」

「そりゃあそうでしょ。黒髪の私は本当の私でもなんでもないし、ただのポーズだから」

「ううん。金髪のほうがだよ」

「え?」

「だってさ。それは映画で言えば絶対悪役だよ。人をビビらせる為にする格好だよ。なんか顔に恐い色も塗ってさ。ソフトクリームの落下を悲しんで、ちゃんと弁償してくれるお姉ちゃんの顔じゃないよ」

「……そうかな」

「ねえ、シド・ヴィシャスって誰?」

「私の尊敬するベーシストで、パンクの神様。私は彼が世界を変えたように、世界を変えたいの」

「どう変えたの?」

「……難しい話をすると、権力と闘ったのよ」

「権力って?」

「当時の腐った政府とか、技巧ばかりで内容のなくなった退屈な音楽とか」

「へえ。今は何やってるのその人?」

「残念ながら、死んだの」

「そうなんだ。じゃお姉さんはその人のあとを継ぐんだね!」

「え?」

「? 違うの?」

「あ……いや、そんな大げさなこと、考えてなかった。足元に及べばいいとか、それぐらいしか」

「でもいつか継げるといいじゃん! もしその人が死ななかったら、どういう音楽を作ってたのかな!」

「……そんなの、考えたこともないけど。……やっぱり、自由を歌ってたんじゃないかな。……あのね、シドが悪役みたいな格好をしてたのはね、キャラづくりの為なの。『悪童のヴィシャスシド』も芸名なの。それは、権力を倒すことを印象づける為なの」

「じゃホントの悪者じゃないんじゃん」

「そうなのよ! ホントは繊細な人なのよ!」

「じゃ、悪を倒したあとにどんな音楽をつくったか、ますます見てみたいね! 悪の大王をぶっつぶしたあとはどうしたの? 平和が訪れるの?」

「平和っていうか、……自由、じゃないかなあ」

「自由って?」

「……また難しいことを聞く子供だね」

 真理は美容院のウインドーにうつる自分の姿を見た。悪役が着る皮のスーツに、悪役みたいな金髪で、悪役みたいなメイクの女。その肩に、いい子ちゃん顔した妖怪「いい子」が、目をキラキラさせてやがる。

「自由ってのは、妹の優希みたいに、好き勝手生きるってことじゃないとは思うんだよね」

 店員が真理に気づいて出てきた。真理はウィッグを返した。

「そろそろ地毛も伸びてきたし、同じ色に染め直します?」と、美容師が聞いてきた。

「ためしに、……自由な感じにしてもらっていいですか?」

「はい?」

「髪型も色も任せます。一回、自由にやってみてください」

「……はあ」

 シンイチはカラスたちの懇願に負け、彼らとじゃれあっていた。彼女の心に何か起こると思い、待っていたのだ。


 美容院から出てきた真理は、明るい茶色の髪にゆるくパーマを当てた、ゆるふわな女の子になっていた。メイクもナチュラルにしてチークを足し、死を連想させる悪役顔から、明るく生気が戻ったように変わっていた。

「女ってやっぱ化けるね」と真理は他人事のように言った。

「自由のイメージってこんな感じかあ!」

「かどうかは、分んないけど」と真理は苦笑する。

「『その先』なんて、ちゃんと考えてなかったよ。アドバイス料にソフトクリームおごったげる。いや、来週のライブの招待席がいいな。ソフトクリーム食べ放題にするから遊びに来てよ」

 シンイチは小躍りした。

「やったあ!」

 そして、一番ストレートな方法を思いついて提案してみた。

「それにさ、お母さんと妹さんも呼べば?」

「……はあ? なにそれ」

「聞かせればいいじゃん。自分の音楽を!」

「えっ。そんなの、絶対分んないに決まってるよ」

「分るか分んないか、聞かせてみないと分んないじゃん。お姉ちゃん、音楽で世界を変えるって言ったろ?」

「……言ったよ」

「じゃあいいじゃん!」

「……言ったけど」

 世界を変えるなんて、もっとデカイことを想像していた。半径二メートルを変えるなんて、想像してもみなかった。


    5


「真理!」と母の嘉子は、巨大な花束とケーキの差し入れを持って控え室に現れた。

「東京のコンサートに出るなんて、あなたも出世したのね!」

「いや……単なる、バンドいくつか集めたライブなんで、そういうのとは違うんですが」

 真理は母の誤解を解こうとしたが、舞い上がっている嘉子には無駄だった。

「スターは誰だって小さい所からはじめるものよ!」

「いや、スターになれるかどうか分んないけど」

「なるわよ! 伊澤家一族の希望がかかってるのよ!」

「関係ないし!」

 妹の優希は優希で、控え室のフライヤーを漁ってはイケメン探しをしている。

「お姉ちゃんこのバンド紹介して!」

「そいつらヤリ捨てで有名」

「それでも東京のバンドってだけでステータス上がるよね!」

「……知らんわ」

 嘉子が真理に言った。

「今日はあなたが何を歌うか、聞かせてもらうわよ」

「いや、私、ギターだし。歌うのは別の人だし」

「じゃそのギターが、何を歌ってるのか聞く」

「は? 分るわけねえだろ」

「分るわよ。娘の言葉ですもの!」

「……」

 ここは東京の郊外、高円寺の、汚くて小さな地下ライブハウスだ。客席の特等席に、シンイチとネムカケと、嘉子と優希が招待されていた。三千歳になる老猫ネムカケは、芸能は浄瑠璃に限ると考えるが、現代音楽にも造詣を深くすべきという進歩的な考えの持ち主である。シンイチは食べ放題のソフトクリームを舐めながら、彼女の出番を待った。

 前のバンドの出番が終わり、真理のバンドが出てきた。彼女は身長が小さいのに、ステージ上では一番大きく見えた。そこが彼女の本当の居場所なのだとシンイチには分った。真理は、自分のサイズに合っていない、大きな白と黒のフェンダーギターを構えた。

 一曲目がはじまった。爆音のギターソロが響いた。嘉子も優希も思わず耳を塞ぎ、ネムカケは目が覚めた。シンイチは右手にソフトクリームを持っていたので、左耳を塞ぐことしか出来ず、右耳から脳に直接つんざく音を聞いた。

 観客が跳ねた。七色のスポットが暴れた。


 いい子でいることは、ずっと控え目に受動的でいることだ。いい子でいたって、誰かが何かを与えてくれるまで待つだけだ。私はそれまで待ってられない。私は私の言葉を手に入れた。それがこのギターだ。

 真理はステージの上で、母がこの「言葉」が分からなくてもいいと思っていた。アンプの目盛りをマックスにし、この叫びがなにもかもブチ壊せばいいと思っていた。

 ところが、嘉子は急に手拍子をしはじめ、お遊戯を見る親のように応援をはじめたのだ。勘弁してくれよ。周りの客のヘッドバンキングとは場違いすぎだろうが。思わず真理は笑ってしまった。嘉子は私を嫌っているのではない。多分私と同じくらい、不器用なだけなのかも知れない。そりゃそうか。私の母なんだものね。


「二曲目は、新曲です」

 汗を流して息を整えながら、真理はMCを務めた。

「最近、私が作りました。タイトルは『Pinkピンクの Hipopotamusカバ』。テーマは自由。意味は……」

 真理は客席を見た。嘉子と優希が見ていた。その目を見ながら彼女は言った。

「……意味は、『とっくに忘れた』ってこと」

 天使のように笑えたかは定かではない。笑顔よりも、言葉よりも、今はギターの音を正しく出そうと、真理はコードを押さえピックを構えた。

 その瞬間、長年彼女の肩に巣食っていた妖怪「いい子」は、汗の噴出す彼女の肩からすべり落ち、宙へと浮いた。


「不動金縛り!」

 シンイチはライブハウス全体に不動金縛りをかけ、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 長年の凝り固まった手応えが、小鴉から伝わってきた。妖怪「いい子」は真っ二つになり、炎に包まれて清めの塩へ浄火された。ドントハレ、とは、遠野弁で「めでたしめでたし」のことである。「全てが晴れ渡った」という意味だ。


 呪縛の鎖は、もうそこになかった。風を孕んだ茶色の髪で、あとはどう生きるかだ。


 1。2。 1、2、3、4。

 世界は、変えようとする者だけが変えることができる。

 真理のギターは、今までで一番大きな音を出した。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か





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