第2話 「十一時X分の電車」 妖怪「めんくい」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 海がきらきらしていた。

 今日は天気も良く、海水浴にはまだ早いが、ピクニックには最適の日和だった。恋人の夏津男なつおが「海へ行こう」と言い出して、お金のかからない電車でわざわざやって来た。来てよかった。空も海も美しい。

 だけど私たちカップルには最大の問題がある。

 私たち二人は、不細工なのだ。

 不細工二人が、美しい海を見ている。不細工二人は、ここにいてはいけないように思う。相手は大自然の筈なのに、相手に悪いような気さえしてくる。

 海のきらきらは、無言で私たちを刺してくる。



 輪島わじま富子とみこ、通称トン子は、気づいたら不細工サイドの人間だった。気づいたら、女としての競争にハンディキャップトであった。学校のクラスでは、綺麗な子から順に売れてゆく。そうでない子は店の棚にいつまでも余る。棚落ちすれば、グループをつくって固まって、なるべく他人に迷惑をかけないように生きてゆく。社会人になっても同じだ。自己主張して目立つことはせず、華やかな場に場違いにまぎれることはせず、控え目に、秘密結社のように、隠れ切支丹のように、夜にまぎれる忍びのように生きてきた。

 綺麗な子は綺麗な男と、表通りの華やかな場所できらきらと笑うものである。恋愛ドラマでもファッション雑誌でも、そこはその美しい競走馬たちの行く末のことだ。トン子は人並みに男子アイドルやイケメンにはときめいた。だがそれは、現実とは違う世界に憧れることである。すなわちそれは、異世界ファンタジーと同じだ。

 不細工な女は現実をよく知っている。恋人にする男は中身で選ぶものだ。それは現実に、実在するからだ。自分も外見のことを言われない代わり、相手にも要求しない。フィフティーフィフティーの、それは大人のマナーというものだ。

 だから長いつきあいの恋人、夏津男は不細工である。その代わり、人のいい、中身のある奴だ。夏津男は二人の将来の為に無駄遣いを避け、電車移動をして手弁当もつくってきてくれる。


 だが、彼のつくってきた弁当の中に、トン子の嫌いなピーマンとニンジンが入っていて、彼女は不満を子供みたいに言ったのだ。

「なんで私の嫌いなものばっかり食べさせるのよ!」

「なんでだよ。体にいいものを食べて、バランスを整えるんだよ」

「だって嫌いだもん」

「我慢しろよ。そのうち体が求めるようになる」

「夏津男は私が嫌いなんでしょ」

「逆だろ。愛してるから、ちゃんと食べてほしいんだろ」

 頭では分ってはいる。嫌いなものを工夫して食べさせて、偏食を治そうとしてくれてることも本当はありがたい。むしろ自分には、出来過ぎた彼氏かも知れない。

 でもわたしの手に入れたものは、この不細工が笑顔で口をあける様なのか?



 海から帰って来たトン子はテレビをつけた。イケメン達が色々な恰好で目を楽しませ、様々なシチュエーションで胸をときめかせてくれる。ドラマでは少女マンガのような台詞もスムーズに言ってくれる。ネットにもイケメン写真や動画が溢れてこぼれている。今日海で撮った二人の写真と見比べた。つまり、ファンタジーと現実を見比べた。夏津男の顔を隠し、ネットのイケメンと自分を並べて恋人同士に見立ててみるが、やはりそれは異世界ファンタジーというものだ。

 こんなに海はきらきらしているのに。

 トン子はため息をついた。そのため息が、妖怪「心の闇」をひきよせることなど、知る由もなく。


    2


「松屋デパートに行きたいんですけど、どっちですか?」

 トン子は度肝を抜かれた。テレビから出てきたような美しいイケメンが、目の前で三次元の形をしていたからだ。

 会社のお使いで銀座へ寄ったときのことだ。トン子はよく道を聞かれる。きっと断らなそうに見えるのだろう。背の高い彼は、顔は小さく、髪はさらさらと風になびいていた。手足が長くお洒落な服がよく似合い、目が大きく輝いていた。本当にこんな男が三次元世界にいるんだ。トン子は思わずぽーっとしてしまい、彼の言葉を理解するまでタイムラグがあった。

「あの、……どっち、ですか?」と、彼が再び聞いた。

「あ、すいません。そこを右に行って、中央通りに出て……」

 夏津男よりずっと背が高い。トン子は彼を見上げた。夏津男はずんぐりむっくりで、ヒールを履いたらトン子の方が高くなってしまう。似ている動物は、カバかチャウチャウだ。それとこの九頭身の差たるや、同種族のDNAではないだろう。エジプト犬は、カバとは違う遺伝子の筈だ。

 気がつくとトン子は、その松屋デパートまで一緒に歩いてきてしまっていた。

「ありがとう。まさか一緒に来てくれるとは」

「あ、たまたま方向が一緒だったもので」

 トン子は言い訳をした。ほんとうはぽーっと見てて時間が飛んだだけだ。

「お姉さんのここのオススメは何ですか?」

「? 屋上のフルーツパーラーかな」

「じゃこんど、おごりますよ」

 その白い歯の笑顔に、トン子はやられた。太陽がその笑顔に、真っすぐに当たってきらめいた。太陽の真正面に出せるほどの美しい笑顔。しかも自分だけを見つめている。彼女はその瞬間、何センチか浮いたかも知れない。

 銀座の街には、極彩色の妖怪「心の闇」たちが、往来の人々にまぎれて彷徨っていた。数センチ上空でため息をついたトン子に取り憑いた、その心の闇の名は、妖怪「めんくい」。赤黒く、目が虚ろで、ぶよぶよの女の腹のような顔をしていた。

 先を急ごうとした彼の背中に、思わずトン子は言った。ちょっと上ずっていたと思う。

「オススメは、生クリーム多めなの」

「あ……でも今俺金欠でさ」

「大丈夫よ。すすめたのは私だから、……おごる」

 こうして彼女は銀座の空中庭園で、自分だけを見つめる白い笑顔との、夢のような三十分を買った。


 「めんくい」に取り憑かれたトン子は、歯止めが効かなくなった。

イケメンアイドルグループのポスターやCDを買いたいだけ買いこみ、ライブDVDを好きなだけ買った。部屋でヘビーローテーションし、二十四時間イケメンに囲まれた。次は直接会うこと。生の舞台やライブだ。なんだ。画面の向こうのフィクションなんかじゃなく、現実にこんな生き物がいるんじゃないか。お金を払えば払うほど、その人たちと同じ時間を共有できるのだ。トン子はイケメン舞台を全通ゼンツー(全公演通うこと)し、地方公演もついてゆく。その為に地方のホテルをおさえ、有休も全部使う。グッズを全部買おうとするといくらあっても足りない。でもその売上が彼らの人気のバロメーターでもあるから、「応援」しなければならない。トン子に取り憑いた妖怪「めんくい」は、彼らにため息をつくたび膨れ上がってゆく。きらきらは海の向こうではなく、金で買える実在となった。


 銀座で出会った彼から電話がかかってきた。彼の名は冬彦ふゆひこといった。役者やモデルをやっているのだが、そんなに売れてる訳ではないから、いつも金欠だと言っていた。トン子はおめかしして出掛けた。タクシーで最高級のレストランにつけ、最高級のワインを開けた。たいしたこともない給料のOLが、コツコツと貯めてきたお金である。夏津男との将来を考え、何にも使わず、ずっと貯めてきたお金である。しかし年上の女が年下の男を連れてゆくのだ。半端な所には連れて行けない。「いま使う為に、貯めたのだ」と彼女は自分に言い訳した。

 料理の中にニンジンが入っていて、トン子は子供のように顔をしかめた。

「……もしかして、嫌い?」

 うなづいたトン子に、冬彦は白い歯の笑顔で応えてみせた。

「我慢なんて、しなくていいんだよ」

冬彦はそう言って、トン子の皿から王子のようにニンジンをさらった。

 トン子は衝撃を受けた。

 イケメンは我慢しないんだ。だから、心に汚いものを溜めこむこともないんだ。我々は色んな我慢や毒を溜めこむから、肌が汚くなり、顔が毒で歪み、頭蓋骨ごとひずみ、心に澱がたまってゆくのだ。きれいなのは、そもそも毒がないことなんだ。

 予約しておいた最高級のホテルの最上階の部屋で、彼と朝を迎え、トン子は最高の美しい幸福を得た。人生で最も美しい朝だった。今まで人生で溜めてきた汚泥が、ここで全て流されたと思った。

 彼女に取り憑いた妖怪「めんくい」は、臨界の大きさに達した。


    3


 次の日曜は、夏津男と会う約束だった。たった二週間ぶりなのに、ずいぶん長い間会っていない気がした。相変わらず電車移動で、ホームの上で待ち合わせた。きらきらな日々から庶民の感覚が戻ってきた。ああ、こっちが現実なのか。

 ホームにいる人たちはみんな薄汚れている。きっと我慢を少なからずしている人たちなのだろう。誰の為の我慢なんだろう。私は冬彦というきらきらの為に、我慢して汚れを背負ってあげなければならない。

「よう」

 夏津男は既にベンチに座って待っていた。相変わらずずんぐりむっくりの、冴えない顔だった。

「やあ」

 トン子は現実に挨拶した。

 夏津男はトン子の襟を黙って直してくれた。そんな小さな所直したって、意味なんかない。もっと大きな所を直したいというのに。


 電車に乗ろうとして、トン子は小さな悲鳴をあげた。

「どうしたの? 気分悪い?」と、何も知らない夏津男は気遣った。

「ちょっと、……わ、忘れ物、しちゃった。先行って。……あとで追いつく」

「そう。二駅先だから。コンビニとかで待つわ」

「オッケー」

 トン子は嘘をついた。

 電車の座席に、偶然冬彦が座っていたからだ。

 トン子は電車に背を向けた。こんな所で鉢合わせるとは。夏津男は何も知らないまま電車に乗り、おそらくは冬彦の向かいの席に座った。赤い派手なジャケットを着た冬彦は、トン子にまだ気づいていない。ドアの閉まる音を背中で聞き、トン子は電車と反対方向へ歩き出した。

 冬彦には気づかれていない。夏津男と冬彦は顔見知りではない。おそらく、いや、絶対、二人が急に話しだして共通の女の名を上げることはないだろう。イケメンと不細工が突然話し始める訳がない。だって彼らは、同じ場所の亜空間同士に存在するのだから。


 十二時の少し前、運命の電車はゆっくりと滑り出しホームを離れた。何本か電車を遅らせ、来た電車にそ知らぬ顔で乗ろう。何事もなかったように夏津男にふるまえば、分かりゃしないさ。

 そこに、天狗のお面をした少年が話しかけてきた。

「あの、すいません」

「? ……な、なに?」

「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」

「はあ。…………はあ?」

 あまりにも唐突なことを言われて、トン子はさっぱり分からなかった。天狗? まるで古ぼけた民芸品のようなお面……宗教の勧誘か何か? 子供をダシに使って? トン子は起きていることが理解できない。

 天狗面の少年は小さな鏡を取り出し、彼女を映してみせた。

「あなたの肩に取り憑いたのは、妖怪『めんくい』」

 鏡の中のトン子の肩には、ぶくぶくに太った赤黒い妖怪が映っていた。脂肪に埋もれる臍のように、両目が光っている。

「なにこれ!」

 トン子は思わず自分の肩をはたいた。しかし肩にそいつはいなくて、鏡の中にだけいた。自分の肩と鏡の中を、思わず見比べる。

「妖怪は、普通の人には見えない。でも取り憑かれたことを自覚した宿主には、『心の闇』は鏡に映って見えるんだ」

 少年は、妖気漂う天狗面を外して素顔を見せた。白磁の肌に黒い大きな瞳が印象的な、聡明そうな小学生だった。お供の太った虎猫が大あくびをする。

「オレは高畑たかはたシンイチ。またの名を、妖怪退治をする『てんぐ探偵』」

「よ……妖怪退治? ……何言ってんの?」

「あなたに取り憑いたのは、妖怪『めんくい』。つまりお姉さん、イケメンにしか興味ないでしょ」

「は、……そ、それの、なにが悪いのよ!」

「図星かあ」

「なんなのよキミは! なんかのトリック? なんかの宗教? 大体、イケメン好きで悪いって言うの? みんなそうでしょ? 今、面食いなんじゃなくて、昔から、女はみんな面食いでしょう!」

「男は顔じゃなくて、中身でしょ!」

「じゃ女は?」

「……お、女も、顔じゃなくて中身だよ!」

「今一拍あったじゃない! その一瞬の間を、不細工は一生背負うのよ! アンタみたいな子供に、私の人生が分かってたまるもんですか! こんな、闇の地下組織のような生き方が!」


 その時、金属をこする急激なブレーキ音が響いた。


 続いて大きな衝撃音。

 ホームの上の皆、その方を見た。さっき出た電車の方向、線路の向こうだ。線路はゆるくカーブしており、先のほうは見えない。

 何ともいえない間のあと、事務的なアナウンスが流れた。

「お客様にお知らせ致します。次の列車の到着、しばらく見合わせます」

 次の列車の話じゃないだろう。今出た電車がどうなったかだ。トン子は胸騒ぎが止まらなかった。夏津男にも冬彦にもケータイは繋がらない。

 どう考えても事故だ。夏津男と冬彦の乗った電車か、そうじゃないのか。「救急車」という単語が駅員たちの会話から聞き取れた。無線の声が入り乱れた。パニックを制止するマニュアルでもあるのだろうか、無感情なアナウンスが流れた。

「お客様にお知らせ致します。前を走る列車に事故がありました。状況が分かるまでしばらくお待ちください」

「……脱線だって」と、スマホをのぞいていた誰かが言った。

「マジで? じゃあしばらく動かないよねコレ」と誰かが答えた。

「……」

 トン子は走りだしていた。

改札から出て線路沿い。カーブの向こうは見えない。ケータイは繋がらない。息が切れ、重い体でトン子は走った。ヒールを履いてなくてラッキーと思った。

 大きなカーブのフェンスの手前に、救急車が何台も来ていた。その隙間から横転した列車が見えた。何かの巨大生物が寝返りを打ったように、腹を見せていた。救急隊員が怒鳴っていて、報道のヘリが何機も飛んできた。


    4


 幸い、夏津男も冬彦も命は助かった。しかし重傷で、入院は長引きそうだった。「複合脱線」という珍しい事故で、連日ニュースで取り上げられ解説をたくさん聞いた。事故の大きさの割に死者が少なかったのが幸いだった。


「顔が……元に戻らないですって?」

「ええ。命に別状なかったのが救いなくらいですよ。骨も歯もぐちゃぐちゃで、皮膚が裂けていたんですからね。今は整形の技術もありますが……」

「彼、モデルなんです」

「普通の生活なら大丈夫でしょうが、そういうレベルは難しいかと……」

 夏津男と冬彦の搬送された病院は同じだった。担当医に話を聞き、トン子はショックを隠せない。銀座で出会ったあの美しい歯は、ホテルの朝ため息をついたあの美しい横顔は、永遠に失われてしまったのだ。

 怪我は冬彦の方が重く、「重傷の方から」とトン子は心に言い訳し、冬彦の部屋へ先に向かった。


 病室のドアを開けると、女が五人、六人、七人……八人いた。どれも違う香水で、混ざり合って修羅場になっていた。花瓶に沢山花が入れられ、そこも修羅場になっていた。

 競走馬のような奇麗目の女が三人上座に座り、自分と同じ不細工サイドが五人下座にいた。

「九人目が来たわよ」

 と、上座の化粧の濃い女が言った。

「……あなたはそっちサイドの女のようだけど」

 痩せたモデル風の女が、座る場所を示した。トン子は不細工サイドに割り振られるのは慣れている。女はワントーン甘えた声で、包帯でぐるぐる巻きにされた冬彦に言った。

「ねえフユくん、私たちのうちどれが本命なのか教えて? こっちの女たちは財布だってのは分ったからさあ」

 ああ。やっぱそういうことだよね。不細工はそういう空気を読むことには慣れている。

「九人と付き合うのはいいのよ? 誰が本命か分かれば、残り八人は手を引くし」

「……うまく……喋れない……」と冬彦は怪我のせいにして逃げを打った。

「そうよね、フユくん辛いものね」と不細工サイドの女がフォローして頬を撫でた。

「指さしてよ」と、痩せた女が命令した。

 冬彦は観念した。プルプルと震えた手で、一番美人の女を指した。二人の上座はブチ切れて立ち上がり、下座の五人は泣き出した。

 トン子はその爆心地へさらに爆弾を落とした。

「彼の顔、ぐちゃぐちゃで元には戻らないって先生が……」

 修羅場は、解散ムードへ落ち着いた。


 トン子は下の階の、夏津男を次に見舞った。

「よう」

「……やあ」

 夏津男の顔も全身も包帯まみれだ。花瓶には花ひとつなかった。夏津男には、いつか謝らなきゃいけない。夢を見ていたとはいえ浮気は浮気だ。

 そこへ、小さな女の子を連れた親御さんが菓子折りを持って挨拶にきた。

「この度はウチの娘の命を助けて頂いて、本当にありがとうございました」

「え? ……どういうこと?」

 親御さんは、娘から聞いたという話を二人にしてくれた。


 あの脱線事故のとき、今まさにひっくり返ろうとする車内で、その小さな女の子を突き飛ばして逃げた男がいたそうだ。自分だけ助かろうと思ったのだろう。突き飛ばされた先に、たまたま夏津男がいた。夏津男は女の子を抱き止め、背中を丸めて彼女を守った。一回転する電車の中で、彼女のクッション代わりになったのだ。夏津男は肩甲骨を複雑骨折、ついでに顔面をしたたかに電車の天井にぶつけ、顔の骨も陥没した。


「まあ、とっさのことで、考えてる暇なんてなかったからねえ」

 包帯の中で夏津男は笑った。

「けど小さい女の子を突き飛ばすなんて、誰? 非道い」

 トン子はあの電車の席を思い出していた。夏津男が座る反対側、向かいにいたのは、赤いジャケットの冬彦。

「あのさ。突き飛ばした男の人って、何色の服だった?」

「……赤」

 冬彦にあらためて確認するつもりもない。どうせもう二度と会わないのだ。きらきらが輝いている海に近づいていったら、それが実は泥水であることを知ったような気分だった。あのきらきらは一体何だったのだろう。近くに行ってみれば、冬彦は単なるずるくて嘘をつく、ただの矮小な生き物にすぎなかった。そんなの今まで、色んな毒だらけの現実の人間で知ってきたことではないか。

 親御さんが彼に済まなそうに謝った。

「娘の為に……顔の骨まで折れたりしたそうで」

「いやあ」

 夏津男は屈託なく笑った。

「どうせ不細工ですから」


 二人が帰ったあと、トン子は夏津男に尋ねた。

「あのね、……もし、もしもよ。あの運命の電車に私も乗ってたとするじゃない?」

「うん」

「あの女の子と私、どっちを助けた?」

「? どっちとかないでしょ」

「?」

「二人で、あの子を助けるでしょ多分」

「え……」

 トン子は今まで、恋とは遠い憧れのようなものだと思っていた。海の向こうにあり、それを追い求めるようなものが恋なのだと。夏津男はそうは思っていない。恋は自分と同じ側、隣にいると言っている。

「……ごめんなさい。謝りたいことがあります」

「?」

「あなたに、ホレ直しました」

「はい? ……どこに?」

「心が、不細工じゃないところです」

 こうして、妖怪「めんくい」はトン子の心からすとんと外れた。


「不動金縛りの術!」

 シンイチの詠唱が病室に響き渡った。

 病室は日蝕のように暗くなり、トン子も夏津男も、廊下の看護婦さんもぴたりと時を止めた。腰のひょうたんから、シンイチは天狗の面を出した。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「火の剣! 小鴉!」

 天狗の第一の神通力は「火伏ひぶせ」である。すなわち炎を自在に扱う力だ。京都愛宕あたご神社、静岡秋葉あきば神社はいずれも天狗を祀ることで知られる。愛宕太郎坊たろうぼう、秋葉三尺坊さんじゃくぼうがその名だ(愛宕権現、秋葉権現と呼ばれることも)。いずれも火事を防ぐ火伏せの神として信仰されている。天狗は火を伏せ、火を付けるのだ。

 あかい鞘から黒曜石の短剣を抜くと、刀身から炎が溢れだして闇を照らした。それは魔を浄火する、天狗の炎である。

 あのときの少年だ、とトン子は金縛りの意識の中で感じていた。本当に一瞬のことで、トン子は天狗面の少年のことをあまり覚えていない。彼女の記憶は、闇を照らしたこの炎である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 一太刀で妖怪「めんくい」は真っ二つとなった。断面から炎が吹き上がり、妖怪を包みこみ真白な塩へと浄火した。



 病院の中庭まで出て、トン子は夏津男の車椅子を押した。今日の天気は格別で、あの海にいった日以来だった。

 トン子は自分でつくってきた弁当を広げ、夏津男と二人で食べた。

「オイオイ、なんで俺の嫌いなオカズばっか入ってんだよ」と、夏津男はゴネる。

「体をつくるには必要なものばかりでしょ。早くリハビリしなきゃ。我慢して体に良いものを食べて、ちゃんと体をつくるの!」

「お前、俺が嫌いなんだろ」

「逆でしょ? 愛してるから、ちゃんと食べてほしいの」

 嫌がる不細工な口に、トン子は笑っておかずを押し込んだ。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か





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