第4話 「炎の巨人と黒い闇」 妖怪「弱気」登場

    1


 闇にかざすのは、炎だ。深淵なる闇を覗きこむとき、人は火をかざし、そこに何がいる・・のかを確かめようとする。


 シンイチの闇が晴れて振り向いたとき、彼は巨大な炎の柱を見た。

 それは炎に包まれた、巨大な天狗であった。

「て……天狗?」

 ジャングルジムに座っていて、ジャングルジムより大きかった。岩より大きな朱い顔に、隆々たる一本鼻がこちらを向いた。憤怒の顔に光る金の目。目も眉も口も歯も、深く刻まれた眉間の皺一本までが巨大だった。奇妙な柄の和服からはみ出た、肉の鎧のような朱い手足からは、獣のような流線形の剛毛が生える。それに沿うように炎が湧き出て、ひとつの巨大な火柱に合わさってゆく。

 猛烈な熱風が吹き、空中でいくつも爆ぜ火が上がった。そうして大天狗はシンイチの目を覗きこみ、こう言ったのだ。

「その妖怪を、斬ってみせよ」と。



 シンイチがいかにてんぐ探偵となり、都会に現れた新型妖怪「心の闇」を退治するに至ったかを語るには、時間を少し前に戻す必要がある。

 そう、この長い長い物語は、たったひとつの跳び箱の前の、小さな事件からはじまった。その跳び箱の前から、語りはじめることにしよう。


 その日は朝から雨が降っていて、東京郊外のとんび野町は、いつもは青く見える高尾山も白く煙らせていた。とんび野第四小学校五年二組の今日の体育は体育館だ。サッカー大好きな男子たちはぶうぶう言ったが、担任の内村うちむら先生が跳び箱にしようと言った為みんな乗ってきた。

「ススム! ビビッてんじゃねえよ!」

 クラスの中でも小柄な方で、バランスが悪いくらいに頭が大きく、大きな黒い瞳が印象的な高畑シンイチは、四段、五段、六段をクリアし、七段を前にひと息ついていた。七段に向かい、親友のススムが走っていたはいいが前で止まってしまったのを見て野次を飛ばした。

「ざまあねえぜ!」

 ここまでは、ごく普通の日常だったのだ。

 次はシンイチの番。窓の外では、校庭をびしゃびしゃ言わせる水の音が聞こえている。シンイチは蒸した空気の中、ふとした思いにとらわれた。

「今やめれば、自分だけ六段で成功したままで終われる」と。

 シンイチは黙って待機の列に戻った。ススムがそれを見た。大吉だいきちも、公次きみじも見た。

「……わかったよ。やるよ! 七段! 跳べばいいんだろ?」

 シンイチは七段の威容の前に、緊張して立った。

 ――突然。

 シンイチの膝は突然ガクガクと震え出し、冷や汗が止まらなくなったのだ。

「? ……なに? なに?」

 目まいがし、天地が分らなくなり、目の前が暗くなり、跳び箱以外見えなくなった。音も聞こえず、まっすぐ立っているかどうかも分らない。胸が痛い。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が出て、手も足も震えが止まらなかった。

「どうした高畑?」

 内村先生が異変に気づいた。シンイチは、まるで闇につかまれたような気分だった。背後から、あるいは足元から見えない手がのびてきて、心臓をつかまれた感触がした。

 シンイチは心を平静に戻そうとした。落ち着いて、七段のことを考えようとした。簡単じゃん、猛烈に走って、踏み切って、ダンッて跳んで、固いマットに両手をつくんだ。しかし夢の中で上手く走ることが出来ないように、イメージしようとすればするほど出来なかた。固いマットに手が届かない。ジャンプしても角度が合わない。足が合わない。そもそも足が前に出ない。暗闇の中で、靴が脱げたような気分。

「高畑。変だぞ。どうしたんだ?」

 内村先生が不審がる。時間にしてほんの数秒のことだったろうが、シンイチにはそれが何十分にも何時間にも感じられていた。夢の中で時間の感覚が失われるのと似ているかも知れない。汗は滝のように流れ、どんなに息を吸っても酸素は入ってこなかった。

「うわあああああ!」

 シンイチは叫び声をあげた。大きく息を出したことでようやく息が吸えた。女子同士でおしゃべりしていたミヨちゃんが、びっくりしてふり返った。ススムも大吉も公次も、同時にふり返った。

 シンイチは大きく息を吸った。吸って吐いて、吸って吐いて、体育館から飛び出した。


 雨は霧雨に変わっていた。

シンイチはどこをどう走ったのか、少しも思い出せない。真白な中を、走って走って、走って走っただけだ。息が切れ、見知らぬ公園のベンチに座った。金属製のベンチは冷たく濡れていて、尻からパンツに染みてきた。体が冷え、髪の毛が濡れ、息が平熱に戻ってきて、シンイチにようやく冷静さが戻ってきた。

「……帰らなきゃ」

 と、左の目の端に「黒い顔」のようなものが見えた。シンイチは慌ててベンチから跳ね上がり、左を見た。右も見た。何もいない。今度は右の目の端に黒い顔が見えた。右を見た。左も見た。

 シンイチは公衆トイレに駆けこんだ。

「何だ……これ?」

 鏡にうつったシンイチの左肩に、不気味に歪んだ「黒い顔」が乗っていたのである。それ・・は、シンイチの目線に気づくと、鏡越しに話しかけてきたのだった。

「何だ? ……お前、俺が見えているのか?」


    2


「な……なんだよお前!」

 シンイチは慌てて自分の左肩を見た。鏡越しではなく、今度は直接そいつと目が合って腰を抜かした。

 その黒い顔は、耳まで裂けた赤い口に、闇の底のように窪んだ大きな目をしている。皮膚は黒くぬめって光るようにも見えるし、反射が一切ない影の色にも見えた。顔から直接四肢が生えていて、胴体はない。足でシンイチの肩の上に立っているように見えたが、よく見ると足先はシンイチの肩の中にめりこみ、先は見えなかった。「肩から黒い顔が生えている」ようにそれは見えた。

 シンイチは手で払いのけた。が、何故だか手はそいつをすり抜けた。手と黒が二重に見え、手応えはなく空を切った。

「なんだよこれ! なんなんだよこれ!」

 肩に食いこんだ両足から引っこ抜こうにも、つかみも出来ない。

「俺様が見える人間に、はじめて会ったぜ」

 その黒い顔は少し驚いたような表情を見せ、それから耳まで裂けた口で笑った。


 シンイチはトイレから飛び出した。外の光で見ても、黒い顔は黒い顔だった。通りがかった主婦にシンイチは助けを求めた。

「助けて! この肩のやつ、取れないんです!」

「?」

 主婦は眉根を寄せた。シンイチは左肩を見せて必死だ。

「この黒いの……!」

 何のことか、彼女には分からないようだ。

「見える訳ねえだろ。人間ごときに」と黒い顔が言う。その声すら彼女には聞こえていないようである。

「お前、ちょっとは黙ってろよ!」

 シンイチは黒い顔に向かって言ったが、彼女は余計怪訝な顔になる。

「ぼく、何を言ってるの? 学校は? 誰と話してるの?」

「ははは。見えてない見えてない!」

 シンイチは背広のおじさんを見つけ、走っていって尋ねた。

「この肩に取り憑いた、黒い顔見えます? 変な化物みたいなの!」

 おじさんも同じく、怪訝な顔をした。

「虫はついてないよ」

「虫じゃないよ! 変な、妖怪みたいなやつだよ!」

「妖怪?」

「そう!」

「そんなの、いる訳ないじゃないか」


「どうしたのシンイチ!」と、母の和代かずよが、早すぎる息子の帰宅にびっくりした。

「ちょっと、早退した。気分が悪くて。……先生に黙って帰ってきたから、電話しといて」

「……熱?」

「……熱は、ない。……ねえ、母さん」

「なに?」

「黒い、顔がさ」

 シンイチは左肩を和代に見せた。

「? ……なんのこと?」

「いや……やっぱ、いい」

 誰に見せても反応は同じだった。やっぱり、誰にも見えないのだ。

 シンイチは自室で一人になり、カッターを出し、チキチキチキと刃を最大にした。切断どころか、触れられないことは同じのようだ。シャツを脱ぐと、肩の肉にそいつの足は食いこんで、同化しているようだ。

「お前、一体何なんだよ!」

 黒い足先はどこまでのびている? 心臓まで?

「ははは。考えろ考えろ」

 晩ごはんの食卓を囲んでも、母の和代も父のハジメも、この黒い顔には気づかない。ずっと何かを囁かれて頭ががんがんしたが、二人とも何も聞こえていないようだった。何かの本で読んだ、「人面疽じんめんそ」という顔の形をした膝の傷口が、人格を持つ怪物を思い出した。が、それは全員に見える設定だった筈だ。自分の頭より少し大きなこの黒い顔は、重さも感じず、ただゆらゆらと肩の上で囁き続ける。

 お風呂の中に沈んでみた。お湯の中でも変化はなかった。

 夜中、何度も悪夢を見て眠れなかった。目が覚めるたびにその黒い顔が、闇の中歪んで笑った。

朝目覚めて、どうかいないでくれと願って目を開けても、やはりそいつはニヤニヤと笑っていた。洗面台の鏡で自分の顔を見た。頬がこけ、目に隈が出来ていた。そしてシンイチは、嫌なことに気づいた。

「お前……昨日より一回り大きくなってないか?」

「ふっふっふ。さあてねえ」


 シンイチは、悪夢が終わっていないのかと目を疑うことになる。家の外に出ると、大小の歪んだ顔の「妖怪」たちが、百鬼夜行のごとく闊歩していたからである。


    3


 それは果たして「妖怪」と呼ぶべきなのだろうか。妖怪大百科で見たような、時代劇の色のような奴は一匹も居らず、極彩色でカラフルな奴らばかりだった。チェリーピンク、レモンイエロー、ビリジアングリーン、クロームオレンジ、セルリアンブルー、クリムゾンレッドにセクシャルバイオレット。縞々模様だったりぶつぶつ模様だったりもいて、ちかちかするような強烈な色彩が目に痛い。

 電柱の影、塀の上、看板の裏、車の下。見れば物陰に隠れる奴もいれば、空中に浮遊している奴もいる、どれも醜く歪んだ人の顔で、どれもが顔から手足が生えていた。

「こいつらは、妖怪? それとも別の何か……」

 ぶくぶくに腫れ上がった顔。目だらけの顔。叫んだまま歪んでしまったような顔。見るもおぞましく、しかも人工着色キャンディー色の「妖怪」たち。

 そのうち、トルマリンブルーの奴と通行人がぶつかった。しかしぶつかりはせず、そのまま体がすり抜けた。誰にも見えず、手で触れないのは同じようだった。


 シンイチは校門の前で足を止めた。昨日体育館を飛び出して以来の学校だ。無意識に呼吸がおかしくなってきた。頭がびりびりと痛くなり、寒いのか暑いのか分らなくなり、大量の汗が出てきた。結界が張られたように、門の向こうの「いつもの日常世界」に入れる気がしなかった。

 同じクラスのミヨちゃんが、いつもの明るい笑顔で「おはようシンイチくん!」と声をかけてきた。それが当たり前の日常であればあるほど、自分の周りで起きている異常事態が際立って見えた。シンイチはどんな顔で彼女を見たか分からない。ただ、昨日と同じように、走ってその場を逃げ出しただけである。


「ちくしょう! なんだよ! 何でまた足が震えて、逃げ出さなきゃならないんだよ!」

 シンイチは昨日の公園にいた。どうやって来たのか、またも覚えていない。誰もいない公園に妖怪たちはいなかった。やつらは、人の集まる所にいるのだろうか?

「あっ!」

 シンイチは思わず声をあげた。もうひとつの「黒い顔」が、公園の外に歩いていたからだ。

 その黒い顔は、シンイチの肩の奴と瓜二つの顔だった。耳まで裂けた赤い口と、異常に大きな黒い目。ただひとつ違うのは、大きさだ。シンイチの肩の奴が子供の頭大とすれば、それは大人の身長を超えるほどの巨大な顔だった。取り憑かれたのは、若いサラリーマンだ。肩に取り憑くというより、もはや「背負っている」ように見えた。重荷を無理矢理背負わされているように、彼はたどたどしい歩き方で歩いていた。

「ちょっと! その背中の奴、あなたに見えてます?」

 彼にシンイチの声は、まるで聞こえていないようだった。彼の目の焦点は合わず、頬はこけ、肌はかさかさで土気色。末期癌の患者をシンイチは見たことがないが、こんな感じだろうと想像した。手は小刻みに震えている。校門の前のシンイチと、跳び箱を前にしたシンイチと、似た症状であった。

「このオレの肩のやつ! 周りにいる変なやつら! あなたに見えてます? その妖怪、見えてますか!」

 いくら声をかけても返事はなかった。その男は雑居ビルの階段をゆっくり上がっていった。シンイチは走ってついていった。

「ねえ! この黒いの、見えてないの? 鏡見た? オレ、鏡見たらこいつがいたんだ! 大きくなってるの? 最初は小さくて、そんなに成長したの? 成長したらどうなるの!」

 屋上へ出た。男は屋上の、低い鉄柵をまたいだ。

「なにをしてんの!」

 男はそこで、はじめてふり返った。彼の影のように、黒い顔が背後で笑った。

「俺は、……もう駄目なんだ」

 男は小刻みに震えていて、声も幽かだった。

「どういうこと?」

「……俺は役に立たない。何も上手く出来ない。何をやっても成功できない。……だから、いなくなるのさ」

 あの時の気持ち・・・・・・・と同じだ。シンイチは学校から、跳び箱の前から「いなくなった」。鉄柵の向こうに立ったその人は、世の中からいなくなろうとしているのだ。

「待って! オレも同じ気持ちなんだ! それは偶然? この黒い顔のせい?」

 シンイチは必死で手をのばして男を止めようと思った。男は笑い、シンイチの手を振り払った。その手は冷たく、死体のようだった。

「お先に」

 はじめて人間らしい微笑みを残し、彼は何もない空間へとんだ。

「ダメだ!」

 一瞬の永遠のあと、どん、という短くて大きな音がした。


 手をのばしてつかんだって、子供の力で大人を助けられる道理はない。映画やCMみたいに「オレにつかまれ!」って、ブラーンと下がった彼を引き上げるなんて夢想だ。それでもシンイチは、必死で手を伸ばした。冷たい手の感触が、シンイチの右手に残った。シンイチ一人が叫んでも、世界は何一つ変わらなかった。

 冷たい風が吹いた。シンイチはコンクリートに叩きつけられただろう彼の姿を、覗きこまざるを得なかった。巨大な黒い顔はどうなったのか、見届けなければならない。

 それ・・は生きていた。現実の手が触れないのだ。たとえ十階の高さから叩きつけられたとしても関係ないのだろう。突如、真ん中に筋が入り、二つに、四つに、八つに分割されてゆく。まるで細胞分裂のようにだ。小さな灰胞たちに、小さな同じ顔が現れた。それらは四方八方に散り、マンホールや薮や側溝に消えた。「ゴキブリって死ぬ時卵をたくさん飛ばすんだって」って、身の毛もよだつことを思い出した。あとに残ったのは、肉塊となり血飛沫を散らせた、末期癌のように痩せた男の亡骸。

 考えられることはひとつだ。こいつら・・・・はオレたちの養分を吸い、大きくなり、宿主を吸い尽くして、「増える」。


    4


 シンイチは公園まで戻り、ランドセルからカッターを出し、何度も何度も肩の黒い奴に切りつけた。しかしカッターの刃は、何度も虚しく宙を切る。

あの男には、黒い奴は見えていたのだろうか。徐々に大きくなるこいつを切ろうとしたのだろうか。いつそれを諦め、絶望したのだろうか。

「お前は、死神なのか? 取り憑かれたが最後、死へのカウントダウンが始まるのか?」

「ははは。せいぜい絶望することだな!」

 何故誰も、この妖怪たちに気づかないんだ!

 今日がいい天気なのに、シンイチははじめて気づいた。良く晴れた公園が、何も知らずに暮らす人々を象徴しているようだった。ペンキのはげかかったブランコ。銀色の滑り台。その下で寝ている、年寄りの太った虎猫。その横に、古タイヤを半分に切って赤や黄色や水色にペンキで塗り、跳び箱代わりに遊ぶタイヤ跳び。

「……そもそも、あの跳び箱のときからヘンだったんだ。あの時から、オレはなんだかおかしくなったんだ。ビビったんだ。ちょっと考えちゃったんだ。調子よく跳んでりゃよかったのに、日和ったんだ。成功したままで終わりたいって思って、それで弱気に取り憑かれて……」

 今までずっとニヤニヤしていた黒い顔が、表情を貼りつかせた。シンイチが気づくと、元のニヤニヤ顔に戻した。

「……なんだよお前」

「ウルセエよ」

 語調の変化に、シンイチは気づいた。

「今、なんか変だったぞ」

「余計なこと考えてんじゃねえよ。お前はグルグル考えごとして、ずうっと絶望してればいいんだよ!」

「待って待って待って! あの跳び箱のとき、お前はいたな? 自分の肩なんか見ないもんな! あの異常な恐怖はお前のせいか? 朝学校でミヨちゃんに元気よく挨拶されて、何も答えられなくて、やっぱり弱気になったのはお前のせいか?」

「ううううう」と、黒い顔が苦しみ始めた。

「なんだ?」

「お前さあ、ちょっとは黙ってろよ!」

「どういうことだ? お前、何に苦しんでる?」

「黙ってひたすらカウントダウンしてやがれ!」

「オレは弱気に取り憑かれて……お前は、まさか、弱気? オレは、ホントに『弱気に取り憑かれた』ってこと?」

「それ以上言うな!」

「お前は……『弱気』か! オレはビビって、何ひとつ出来なくなった。それは『弱気』のせいなのか? あの人も、巨大な『弱気』に取り憑かれてたのか!」

「俺の名を言うんじゃねえよおおおおお!」

「お前の名は、『弱気』か!」

 妖怪黒い顔、その名も「弱気」は、シンイチの肩に食いこんだ足がするりと抜けて、宙に投げ出された。それまで艶々していた顔の張りが、シンイチから離れた途端急に乾き、皺々になりはじめた。

 シンイチの体の震えは止んだ。胸が熱くなり、体中が暖かくなってきた。つまり、「自分」を取り戻しはじめた。


「ほっほう。自力で『心の闇』を外した人間を見るのは、はじめてじゃぞい」

 突然、地面から声がした。

「?」

 シンイチが足下を見ると、さっき寝ていた、年寄りの太った虎猫だった。猫は大あくびをし、体を伸ばしてぷるぷる震えた。

「今、しゃべった?」

「自力で『心の闇』の名を特定し、あまつさえ外すとは、なかなかやりおるの、お主」

 虎猫は目を細くして笑い、前足でシンイチをぺしりと叩いた。

「ネ、……ネコがしゃべった!」

 一体なんなんだ。妖怪「弱気」に取り憑かれた。外れた。人が死んだ。子供が増えた。そこら中にカラフルな妖怪。ついには猫まで喋り出した。オレはやっぱり、気が狂ったのだろうか。

「わしは三千歳の化猫、ネムカケと申す。少年よ、名はなんと」

「シ、……シンイチ」

「シンイチ。よい名じゃ。弟子の候補が見つかって良かったのう。大天狗おおてんぐや」

 その猫がふり返った方向へ、シンイチもつられてふり返った。


 そこに、巨大な天狗がいた。


 ジャングルジムに座っていて、ジャングルジムより大きかった。岩より大きな朱い顔に、隆々たる高い鼻。憤怒の相に金の瞳が爛々と輝いている。全身の朱い肌は切り立った筋肉で、獣のような剛毛が流線形に生えていた。

「て……天狗?」

 巨人の朱い貌が、シンイチを覗きこんだ。長い鼻が自分を指しているように思え、胃の裏まで突き通される心地だった。獰猛な呼吸は大型動物のようで、金の瞳がまばたきするだけで風が起きた。そして、大天狗の腕、肩、脚、そこかしこから火が燃えはじめた。自然発火のように中から燃えあがり、剛毛に沿って全身の火の流れとなった。大天狗自身が炎に包まれ、うねる火柱となったのだ。

「熱いぞな大天狗!」

 ネムカケと名乗った老猫は文句を言った。

「すまぬ、ネムカケ様。慣れぬ都会で、火が思うようにならぬ」

 大天狗が右手を開くと、そこに大きな火球が現れた。

「火よ、伏せよ」

 百獣の王のような声が腹に響いた。全身の炎が一気にその火球に吸いこまれ、分厚い拳に握りつぶされた。熱風が吹き荒れ、公園中の樹々が揺れた。

「心の闇が見え、且つ自力で解放げほうすることが人間に可能とは。ぬしに、天狗の火の剣を授けよう」

 目の前に小さな螺旋の炎が出現し、中から葉団扇紋の刻まれた、朱鞘の小太刀が現れた。大天狗は再び低い声を轟かせた。

「それは妖怪を斬ることの出来る火の剣、小鴉こがらすという。その妖怪を、見事斬ってみせよ」

 シンイチは小太刀を朱鞘から抜いた。それは日本刀のような鋼ではなく、黒い刀だった。黒曜石という天然石を鍛えてつくられていて、半透明の濡れた黒だった。

「天狗が来たなんて聞いてねえぞ!」

 妖怪「弱気」はそう叫び、一目散に公園から逃げ出した。ネムカケなる老虎猫が叫んだ。

「早く奴を斬れ! さもないと、また別の奴に取り憑いてしまうぞい!」

 シンイチは小鴉を握りしめ、妖怪「弱気」を追いかけた。大天狗とネムカケが続いた。


 公園の外には、魑魅魍魎というにはあまりにもカラフルな、歪んだ顔たちが蠢いていた。あいつが「弱気」という名前だとして、こいつらにもそれぞれ名前があるのだろうか。さっき猫も天狗も「心の闇」と言ったように思う。心の闇って何? 犯罪者のニュースとかでやってるやつ? シンイチの心を混乱ばかりが襲う。

 その刹那、空気がびりりと震えた。

「つらぬく力」

 大天狗が吼えたのだ。

 大天狗は右手の人差し指を無造作に、ライムグリーンの妖怪に向かって突き出した。ビームも弾丸も出ないのに、妖怪の真ん中にずどんと穴があいた。穴があいた分は、そのままくり抜かれた形で後方にすっとんでいた。

 再び空気がびしりと震えた。

「ねじる力」

 大天狗は掌を天にかかげ、ねじった。

空がねじれた。晴れた空が、朱い大巨人を中心に急激な渦を巻く。白い雲は圧縮されて黒雲になり、天の底が抜けたようにどんどん降りてくる。辺りはにわかに暗くなり、嵐のような風が吹きぬけた。

 落雷。落雷。落雷。

 あまりの光の強さに、シンイチは目をつぶった。音は一瞬のうちに三回聞こえたが、実際にはもっと雷が落ちた筈だ。何故なら、目の前にいた妖怪たち全てが、消し炭になっていたからだ。

「火よ、在れ」

 大天狗が唱えると、それら消し炭から炎が上がった。炎は一瞬にして妖怪たちを塩の柱に変えた。

 ジグザグに走って逃げる「弱気」にだけ、雷は落ちなかった。大天狗は自分を試している、シンイチはそう理解した。


    5


 妖怪「弱気」は走って逃げ、マンションにとびこみ、階段をのぼっていった。シンイチは必死で走ってのぼった。空の広い屋上に出た。大天狗は太った虎猫ネムカケを抱いてひと跳びし、屋上の後方にどっかと座った。まるで後見人のようだった。

 妖怪「弱気」は、何も無計画にそこに逃げた訳ではなかった。そこに「仲間」がいたのである。先程の男に憑いた奴よりも、更にふたまわり大きかった。こいつが分裂したら一体何匹の子を生むのだろうとぞっとする。シンイチに憑いていた小「弱気」は、その大「弱気」にかけより、吸収されて融合し、その分だけ大大「弱気」となった。

 それ・・は、一人の少女に取り憑いていた。彼女はシンイチに気づき、ふり向いた。

「……シンイチくん」

「ミヨちゃん!」

 シンイチのクラスメートで、今朝おはようと声をかけてくれた、明るくて優しい女の子。彼女の頬はこけ、目は虚ろだ。あの男と同じだ。いや、オレもそうだったのかも知れないつまりそれは、「弱気」に取り憑かれているということなのだ。ミヨは小さく笑い、金網のフェンスに足を掛け、一歩一歩のぼり始めた。乾いた突風が、屋上に吹いた。

「ミヨちゃん、ダメだ!」

 彼女の手は震えている。冷や汗でべっとりだ。

「……私ね、いらない子なの」

「……何を言ってんの?」

「だから死ぬ」

「バカなこと言うなよ!」

 もう一歩金網をのぼろうとする彼女の足を思わずつかみ、シンイチは叫んだ。

「君は、……君は、弱気に取り憑かれてるだけなんだ!」

「……弱気?」

 ミヨの動きが止まった。風が彼女の髪を揺らした。

「そうだよ! オレもそうだったんだ! 多分昨日跳び箱の前でビビった時だ。あのときオレは、妖怪『弱気』に取り憑かれたんだ!」

「……?」

「君には見えないだろうけど、なんだかよく分らないけど、ここにでっかい黒い妖怪がいるんだ! その妖怪のせいで、ぼくらは弱気にさせられて震えが止まらなくなる。ミヨちゃんの異常な弱気は、妖怪『弱気』のせいなんだよ!」

「……何言ってんの? 妖怪の、せい?……」

 巨大な「弱気」が、シンイチをにらんで脅した。

「余計なことを言うんじゃねえよ。あと数歩でこいつは死ぬんだからよ」

 シンイチはひるまない。

「いいかい、思い出して。本来のミヨちゃんはそんなじゃない。君はもっと明るくて、優しい子だろ!」

 ミヨは考えた。そして思い詰めたことを話した。

「私ね、みんなにひどいこと言われたの」

「どんな?」

「お前はいいから黙ってろって。しゃべるなって。……私はいらない子なの。余計なこと言う、しゃべっちゃいけない子なの」

「ちがうよ! 君のしゃべりはオレを助けたろ!」

「……?」

「君が明るく『おはよう』って言ってくれる日常があるから、オレは逆の『弱気』に気づけたんだぜ! 太陽があったから、闇に気づいたんだ!」

「……」

「所詮自分は弱気に取り憑かれてるだけだ、そう思うことが出来れば、『弱気』は自分から外れるんだ! 君は、しゃべる方が素敵なんだ。それが本来のミヨちゃんだ!」

 シンイチはミヨから目を逸らさなかった。彼女を助けたかった。

「私の……本来」

 「弱気」が顔を歪めた。彼女の張りつめた氷が、少し緩んだのだ。

「フェンスからゆっくり降りてきて! ……そうだ、おはようってオレに言ってみて!」

「え? お……おはよう」

「そうじゃなかった! 本当のミヨちゃんは、もっと楽しそうに言うよ!」

「オ、オハヨウ!」

「それじゃ無理して言ってるだけ! もっと調子乗って! 調子に乗ってるいつもの自分を思い出すんだ!」

 シンイチは変な顔をしておどけた。ミヨは思わず笑った。

「おはよう」

「いいぞ!」

「おはようシンイチくん」

「それがいつものミヨちゃんだ!」

「おはようシンイチくん!」

「そう!」

「おはようシンイチくん!」

 ミヨはフェンスをつかむ手を外した。シンイチは両手を広げ、彼女を受け止めた。

 妖怪「弱気」が、断末魔をあげた。

「何だこいつうううううううう!」

 ミヨに食いこんでいた「弱気」の黒い手足が抜けた。錨を失った幽霊船のように、「弱気」は宙に投げ出された。


「今だ」

 大天狗が時を告げた。

 シンイチは朱鞘から小鴉を抜いた。濡れて光る黒曜石の刃から、紅蓮の炎が湧き出した。シンイチには剣の心得などない。「妖怪を斬れる」、その大天狗の言葉だけを信じ、妖怪めがけて夢中に走り寄り横一文字に振り抜いた。カッターのときにはなかった、肉を斬る手応えがした。七段の跳び箱を前にとらわれた弱い心。ミヨちゃんに取り憑いたおびえる心。鮮やかな切り口を見せ、その妖怪「弱気」は上下真っ二つとなった。

 小鴉の炎が、一直線の軌跡を描いて燃え上がった。

「見事也」

 大天狗は再び吼えた。

「浄火せよ」

 大天狗は掌をねじった。小鴉の炎は「弱気」を燃やし、螺旋の火柱となって包み込んだ。焦げ臭いあとに残ったのは、真白な清めの塩柱だった。


    6


 ミヨちゃんには、大天狗も炎も妖怪も見えず、何が起こったか分かっていないようだった。シンイチは彼女を家に送り届け、明日詳しいことを話すと約束した。

 陽は傾き、一日の終わりを告げていた。シンイチとネムカケと大天狗は、三人が出会った公園に戻ってきた。

 太った老猫ネムカケが口を開いた。

「あやつらは、妖怪『心の闇』という新種の妖怪なのじゃ」

「心の……闇」

「古来、妖怪は闇に棲む。ところが人間の文明が発達したことで、街にすっかり闇が無くなってしまっての。昔から日本にいた妖怪は、住む場所を失い、田舎へ、山へと逃げて、街ではすっかり妖怪は絶滅したのじゃ。ところが、どこから湧いてきたのか、新種の妖怪がその隙に都会にはびこりはじめたのじゃよ」

「新種の妖怪」

「そう。現代の妖怪、二十一世紀の妖怪と言っても過言ではない。都会に闇は無くなったと思ったのは、勘違いじゃった。都会には闇があったのじゃ。人の心の闇が」

 大天狗が口をひらいた。

「奴らは人の心の闇を養分にし、増える。最早無視できぬほどの一大勢力だ。わしはネムカケ様とともに、遠野とおのから東京の様子を見に来ていた。そこでシンイチ、お主に出会ったという訳だ」

「遠野?」

 たずねたシンイチに、ネムカケが手の肉球を東北にたとえて位置関係を示した。

「ここが東北として、陸奥むつの国岩手県の、このへんの山の奥の奥じゃ。七十七の山の中に、河童かっぱ座敷ざしき童子わらしも現役じゃぞい。むろん新種に追われた、昔ながらの妖怪たちもじゃ」

「あの……」

 シンイチは大天狗に向かって言った。

「さっき、弟子を探しているって」

「うむ。わしは長い間遠野を留守には出来ぬ。一気に増えた難民の妖怪たちを束ねなければならぬのでな。なぜ、どうして妖怪『心の闇』が生まれたのか。どれくらいいて、どうやったら絶滅できるのか。それを都会で調べる、天狗の代理人を探している」


 その公園からは、あの男が飛び降りたビルが見えていた。

シンイチは、彼の最後の顔と冷たい手の感触が、頭から離れなかった。シンイチがどんなに叫んだって、世界の運命は変わらなかった。あの人の心の中は「弱気」の嵐で満杯だった、それさえ分っていればなんとかなったかも知れない。助けられたかも知れないのに。

「オレを、弟子にして下さい」

 シンイチは深呼吸して、大天狗に言った。

「うむ」

 大天狗は笑った。恐い顔のままで表情は変わらないが、目が笑ったように見えた。

 ネムカケも目を細くして笑った。

「話は決まったの。シンイチには見所がある。なぜだか最初から妖怪が見えておったし」

「それ、気になってたんだけど。なんでオレには妖怪が見えて、他の人には見えないの?」

「たまにそういう人間もおる。才能のひとつだ」

 朱き大巨人は立ち上がり、シンイチをつかんだ。

「ではシンイチ。お前を山へ攫うとするぞ」

 たちまちシンイチは、大天狗の肩に乗せられた。

「ちょっと待ってちょっと待って!」

「何じゃ」

「今から多分、修行とかするんでしょ」

「そうだ」

「あのさ、今日の晩ごはん、オレの予想だとハンバーグなんだよね。あと明日体育があるから、跳び箱七段をちゃんと跳びたい! それからにしてくれるといいんだけど!」

「ふふ。ふふふ。わははははは」

 今度は間違いなく大天狗が笑った。街路樹や屋根瓦が大風で吹き飛びそうになり、烏がびっくりして飛び立った。

「心配いらぬ。天狗の山は時の進み方が下界と違う。たっぷり稽古をつけて、今晩までには帰してやろう」

 大天狗はそう言って、ずしん、と歩き出した。


 大巨人の肩から見たこの光景を、シンイチは生涯忘れることはないであろう。赤く夕陽を受けてきらめく街は、とても美しかった。

 天狗の一歩は、山ひとつ分ともよっつ分ともいう。シンイチの目の高さはいつの間にか茜色の雲の高さになり、その高さを追い越していた。大天狗の足は無限に伸び、一歩ごとに矢のように景色が飛んだ。

 景色は山々に変わり、遠野盆地が見えてきた。山と山と山の奥に、ひときわ高い巨峰が座している。山頂の手前には巨岩で出来た小峰、薬師やくしだけ(通称前薬師)があり、夕日を受けて光っていた。

「あれが遠野の最高峰、早池峰はやちねさんだ」

 全身赤い色の河童の親子が、川淵で手を振っていた。赤いべべの座敷童子が、金の手まりをついている。小さな神社の祠の、赤いのぼりがはためく。白い鹿が巨石の上からこちらを見た。一ツ目小僧やろくろ首や唐傘お化けがいた。寒戸サムトのババが、強い風の吹く中、木の葉の衣をもの干しから取り込んでいた。谷と谷の間を、赤い衣の僧が飛んでいる。翼を持った黒いからす天狗てんぐたちが多数出迎えた。

「妖怪王国、遠野へようこそ」



 大天狗の言った通り、修行の日々ののち、シンイチはその晩に家に帰れた。晩ごはんは予想通り大好物のハンバーグで、翌日の跳び箱は七段を跳んだ。ミヨは、拍手を惜しまなかった。



 都会の闇の、闇の路地。

 妖怪「弱気」に取り憑かれた、くたびれた中年が絶望していた。首をくくる紐を持ち、非常階段に登ろうとしている所だった。

 闇の中から、朱い炎と天狗の面が現れた。炎は辺りを照らし、男のおびえた顔をも照らしだした。お供に、細い目の太った老猫ネムカケがついている。

「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」

「……は?」

「あなたに憑くのは、妖怪『弱気』。そう自覚すれば、その妖怪は外れる」

「……何だお前?」

「オレ?」

 闇にかざすのは、炎だ。深淵なる闇を覗きこむとき、人は火をかざし、そこに何がいる・・のかを確かめようとする。

 天狗面のシンイチは、火の剣を構えた。


 高畑シンイチは、天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る