第2話 はばたき
白い壁に囲まれた廊下をサエコは歩いていた。ヒタヒタ…音は足元から聞こえた。わたし、なんで裸足なの?家を出た時の服は着ている。しかし、手ぶらだ。弁当と水筒を入れた手提げは持っていない。自転車…自転車はどこ?自転車や荷物を探したい気持ちはあるのに、サエコのカラダはただ前に進むしか動かせない。前方にある扉に向かっているのだ。直前まで近付くと扉は自動で開き、立ち止まることなくサエコは入室した。
そこは廊下と同じですべてが白い部屋だった。深々とお辞儀をする女性がいた。姿勢を正した女性はゆったりと微笑み、お待ちしておりました、とサエコに向かって歓迎の言葉を口にした。
「カワムラサエコ様でいらっしゃいますね。」
初対面の人が自分のフルネームを知っていたことには不思議と疑問を抱かず、サエコは頷いた。
「あちらにお掛けくださいませ。」
女性が指し示す先には北欧家具店にあるような真っ白のテーブルと椅子が整然と置かれていた。サエコが着席すると、女性はもう一つの椅子を片手で引いた。反対の手は胸の辺りでタブレット端末を抱えていた。
「それでは、カワムラサエコ様の今後についてご希望をお伺いして参りたいと存じます。」
「今後…ですか?」
今後、と言われても、サエコには今自分が措かれている状況が理解できていない。何をたずねられて、何を答えればよいのか見当も付かないのだ。しかもその応対をしているのは初対面の人だ。あなたは誰なの?その前に、ここはいったいどこなの?
「不安を感じていらっしゃるのは無理もありません。まず、ここにいらっしゃった経緯をご説明するために、カワムラサエコ様ご本人である確認を致します。こちらのタブレットのマイクに向かってゆっくりとフルネームをおっしゃって下さい。声紋認証が可能です。どうぞ。」
女性はタブレットの上部をサエコに向けた。
「カ ワ ム ラ サ エ コ」
ありがとうございます、と女性が言い終わらないうちに、タブレットは文字で埋まった。
漢字にふりがな付きの本名に始まり、家族構成、学歴、職歴、趣味や性格まであらゆる角度の自分情報を一気に明らかにされたサエコは一瞬頭がくらっとした。気を取り直して上から順に一行ずつ目で追っていたが、自分史と言える分類の最後の行でサエコの視線は止った。
[享年 56歳(満54歳)]
享年、キョウネン?享年って、アレよね?人が亡くなった時の年齢。わたし、死んだの?サエコは目を閉じた。青い世界が広がった。青は徐々に小さく丸く固まって信号機の一つの目になった。自分は死んだのか。あの場所で。死んでしまってはどうしようもないことだが、自分の過失は限りなく小さいと思った。信号が変わった直後に交差点に突っ込んできた大型車に撥ねられたのだから。家族に迷惑は掛けていないだろう。でき婚で1年前に家を出た一人娘にはもちろんのこと、ゴミ出しを手伝ってくれなかった夫にさえも。
「54歳でいらっしゃいますか。お若うございますね。志し半ば、さぞご無念でございましょう。」
たった今サエコが考えていたのは過失割合についてだ。志しなどという言葉はなんともこそばゆい。しかし、そんなサエコの気持ちにはお構いなしに、話は次の段階に進んでいくようだ。
「まずは私どもの業務についてご説明しなければなりませんね。」
女性は居住まいを正した。
「お小さい頃に『閻魔様』のお話をお聞きになったことはありませんでしょうか。」
閻魔様ですか?いい大人同士の会話としては少々ばかばかしい気がしたが、サエコは思いつく限りの閻魔様に関する知識を披露した。と言っても、人が死んだ時に生前の所業によって地獄か極楽かの行き先を決める裁判官のような神様であることと、やっとこで舌を引き抜くという行為が脈絡なく浮上しただけだった。
どなたも同じですね、と女性は頷きながら言った。サエコは少しほっとした。女性はさらに続けた。
「閻魔様というのは人間が自らの戒めのために作り出した存在です。ですが、人間が死んだ後の過し方は新たに決めることになっています。遥か昔から、私どもがそのお手伝いをして参りました。人間の世界に合わせてシステムを徐々に変化させながらです。現世で個人情報カードがやっと機能し始めたようですが、こちらでは存命中の個人情報は細部まで把握しておりまして、次のステージへ進む資料として活用しております。それが今ご覧になっているデータです。」
はあ、サエコにはそんな相槌を打つのがやっとだった。さらに説明は続く。
「最後の欄、こちらをご覧くださいませ。この数字はあなた様が54年間の生き方で貯めたポイントです。買い物の金額に応じて貯まるポイントと同じようなものとお考えください。何十年か前までは『徳』という呼び方をしておりまして、今でもご高齢の方にはその名称でご説明することもございます。」
「お坊さんが徳を積むとかいう、あれですか。」
「レベルは違いますが、そのようにご理解いただいて結構です。」
それにしても、このポイントをいったい何に使えるのだろう。買い物?そんなはずはないだろう。それなら、これから先の待遇か。いやいや、その前に、自分のポイントは多いのか少ないのか、それさえわからない。年金もらう前に死んでるんだから、換算にはイロをつけてもらいたいものだ。こんな考え方をするくらいだから、自分は徳など積んではいない。先が知れてるな。笑ってしまいそうになってサエコは下を向いた。
「具体的に申しますと、お貯めになったポイントはいわゆる甦りにお使いいただけます。ただし、今回のポイントでは人間に生まれ変わることはできません。たいへん申し上げにくいことですが、享年50歳を過ぎますと換算レートがそれまでと比べて低くなります。それはちょうど…」
「生命保険の受け取り金額みたいなものですね。ある年齢で線引きされるっていうことでしょう。」
サエコが続きを引き取った。さようでございます、と答え、女性は席を立った。気を悪くしたのだろうか。サエコは少し気になって女性の背中を目で追った。心証が換算に影響するかも知れないと思ったからだ。しかし、女性は何事もないように壁の収納扉を開き、中から雑誌のようなものを数札取り出してもどってきた。
「こちらのカタログには、現在のポイントで甦りの際にお選びいただけるカラダが掲載されています。ご覧くださいませ。」
表紙に「あゆみ」と書かれた冊子を開くと、様々な動物の名前と写真がずらりと並んでいた。数が多すぎるからか、どうもこれというものが見つからない。なんだか、ここ数年もらうことが増えてきた香典返しのカタログに似ている。これが欲しいと思えるほどのものも見つけられないし、無難な物なら自分で買えばよいわけだし、選んだのは自分という責任もくっついてくる。ページをめくりながら溜め息をついてしまうところまでよく似ている。
「1ランク下でもよろしければ、こちらからもお選びいただけます。」
決めかねているサエコに女性はもう1冊を差し出した。そちらのタイトルは「はばたき」となっていた。
なるほど、「あゆみ」の方は小動物で、「はばたき」は鳥類なのだ。ランク下ということはポイントが余るということなのか。でも、見た目鳥の方がかわいいかな。いや、待てよ、こういう場合に希少動物を選んでおくべきか。この期に及んでも単純で打算的な考えしか浮かんでこない。もう何にでもしてくれという気になってきた時だった。
「はばたき」の中ほどのページに目立つ鳥を見つけた。
『これにします!』
「承知いたしました。では、さっそく登録致します。」
それにしても不思議ですね。こちらはここ数年どういうわけか人気がありましてね。特に既婚女性になのですが。
一仕事終えた気分のサエコは女性の話をもう真剣に聞いてはいなかった。
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