第53話 役に立つ人間だけしかいらない社会はいつかあなたも排除される

 2016年7月26日、相模原障害者施設殺傷事件で19人の障害者が「障害者は要らない」という犯人の身勝手極まりない理由で殺された事件がありました。

 中世の魔女狩りみたいな話が、科学技術の発達した現代日本で起きてしまいました。


 ネット上をよく見ればその意見に賛同し、「良くやった! 障害者は要らないんだ!」と彼を賛美する事を書き込む連中もいます。正直気持ち悪すぎて吐き気すら出ない程ですが調べれば出てくると思います。見てるだけで胸糞が悪くなるのでリンクは載せません。各自自己責任で見て下さい。


 私としてはそんな意見には断固反対します。だがそれは100%自己保身のためだけではありません。「障害者は要らない」と言う人間のためでもあります。




 何も「右の頬をぶたれたら左の頬も差し出せ」と聖人ぶっているわけではありません。「障害者は要らない」社会は、障害者を排除する人間もまた「もれなく」「100%」排除される社会になるからです。


 何故なら人間は誰もが必ず老います。老いた人間は足腰が弱り、視力も衰え、細かい作業が出来なくなり、病気にも弱くなるという「役に立たない」人間になります。そして役に立たない人間を切り捨てる社会はそんな弱い老人を切り捨てる姥捨て山を肯定する社会となります。

 役に立つ人間しか要らない社会は最終的には「必ず」全ての人間が要らない人間として削除される社会となります。そこに誰一人例外はありません。「必ず」切り捨てられてしまいます。




 いや、老いて切り捨てられるのならまだいい方でしょう。それよりもずっと若いうちに「要らない人間」になる可能性だってあります。

 例えば自分は交通ルールをきちんと守っているのに、寝不足で判断力が鈍ったり、飲酒運転してたり、スマホをいじっててわき見運転しているトラック運転手に轢かれてある日突然半身不随という「役に立たない人間」になることだってあります。

 そうなると安楽死しなくてはいけなくなります。半身不随の人間なんて何の役にも立たないどころか、介護の手間をかけさせるマイナスな存在にしかならないからです。

 それでいいのでしょうか?


 他にもワクチンを打ってなかったがためにインフルエンザの後遺症で脳に障害が残ることだってあります。

 その際「役に立たない人間は要らない」という社会では「お前は役に立たない不要な人間なので死ね」と言われ殺処分されるでしょう。

 それでいいのでしょうか?


 子供を授かった際、その子供がダウン症を持って産まれることだってあるでしょう。役に立たない人間は要らない社会では「その子は産まれるべきではなかった」と間引きしなくてはならなくなります。

 それでいいのでしょうか?


 「それでいいよ。俺でさえ切り捨てられる人間なんだから俺以上に役に立たない人間を一人でも多く巻き込んで死ぬよ」とほざきだす人もいるかもしれません。

 そう言う人はどうぞT4作戦という障害者排除プログラムを実行した、ナチスドイツの影響を受けた人間として捕まってください。

 少なくとも日本人には全ての人間に生きる権利があります。それには誰一人例外はありません。その権利を侵害するのは許されざることです。




 ADHD、およびアスペルガー症候群というのは要る要らないで言えば正直「要らない」人間に入るでしょう。


 「空気を読めば誰でもわかることを何で一々言葉にしないと分からないんだ!?」とイラつかれることばかりしますし、健常者からすれば発達障害者へのケアそれ自体が「不要で無駄な事」ですし、発達障害の理解の無さにより「何で貴様らが周りに迷惑かけてるのに俺らが折れなきゃならないんだ!?」と怒り、憎しみを溜める原因になるでしょう。


 可能であるならば発達障害者は健常者の社会から引き離して隔離病棟等の一般人の視界に入らない場所で「飼育」した方がお互いのために良いとすら思います。

 私の様な発達障害当事者ですらみんなに迷惑をかけている罪悪感があるためこんな事言い出してしまうほどですが、それが出来ないので何とか社会で暮らさざるを得ないというのが現実でしょう。




 なお「障害者は犯罪を起こすし、起こしても気○い無罪だから要らない」という人もいるかもしれません。

 ですがあえて言わせてもらえば健常者だって犯罪を起こすじゃないですか。結局のところ健常者障害者問わず、誰だって犯罪者になる可能性はあるのです。

 ちなみに統計上では健常者と障害者では健常者の方が犯罪率は高いというデータもあります。



最後に、「障害者は要らない」と宣言し、T4作戦という名で実際に虐殺までしたナチスドイツに抵抗した司教様の有り難いお言葉を紹介します。




 貧しい人 病人 非生産的な人 いてあたりまえだ

 私たちは 他者から生産的であると 認められたときだけ生きる権利があるというのか

 非生産的な市民を殺してもいい という原則ができ 実行されるならば

 我々が老いて弱ったとき 我々も殺されるだろう


 非生産的な市民を殺してもよいとするならば

 いま弱者として標的にされている精神病者だけでなく

 非生産的な人 病人 傷病兵 仕事で体が不自由になった人すべて

 老いて弱ったときの 私たち全てを 殺すことが許されるだろう


- クレメンス・フォン・ガーレン司教

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