第5話ーーThe lark's on the wingーー
「グッモーニン、紅葉ー」
思わず顰め面になる。
「あれ、あたし挨拶しただけだよね?紅葉ってジャパニーズイングリッシュにそんな厳しかった⁈ヤンキー漫画の主人公みたいな顔になってるんだけど」
完全に非は私にあるのだが、先程のシクイの台詞を思い出してしまったのだ。
「あ……ううん、ちょっとお腹痛くて!おはよう向日葵」
さり気なく傷付く発言があったが発端は私なので触れない事にする。
私の通う高校は……と、普通ならここで紹介しておく所だが割愛しよう。特に誰かの得になる情報は無い。
「はい、ホームルーム始めるよ。みんな席に……着いてるね、面白味の欠片も無い」
「「理不尽っ!!」」
教師が教室に現れても騒いでいる学生なんて今日び見かけないが、うちのクラスの担任はそういういかにもな学園生活に憧れている節がある。
「クラス総出のツッコミありがとう、教師になった甲斐があるよ。それじゃ連絡事項からね。知っての通りこの街の繁華街は治安が悪いから、21時以降は出歩かないでってのはいつもの話」
言われるまでもなく、まともな生活をしている人間は学生でなくとも近付かない。分かりきった事でも必ず連絡しなくてはいけないのは、社会人の証だ。
「で、こっからちゃんと聞いといてね。実は最近住宅街の方でも不審者情報が上がってます。流石にお菓子でつられる歳じゃないと思うけど、頼むから知らない人には付いて行かないでよ?出来れば話もしないでね、以上」
この担任が資料ではなく生徒の方を向いて話す時は決まって重要度の高い話だというのは、向日葵の談。どこを見ているのか分からない表情のせいか、私にその違いは分からないが。
かくしてホームルームはかなり手短に終わりを告げた。
「春の風物詩だね〜。けどわざわざ生徒に連絡させるって事は、結構危ない案件なのかも」
後ろの席で頬杖を付く向日葵。手にしたスマホでニュースでも見ているのだろうか。
「私達、バイトで帰りが遅いから不安だね。早く解決すると良いけど……」
「ネットでもこれといって情報は上がってないな〜。いつもなら噂くらいは転がってるんだけど」
不安というのは口だけだった私も、珍しく怪訝な表情の彼女に心底からの不安を抱いた。
「紅葉さんはいらっしゃるかしら⁈」
向日葵の怪訝な表情は一転して不謹慎なにやけ顏に変わり、私の表情は曇る。
「麗しの女王様のお出ましだ」
「茶化さないで。……あの人も毎日よく来るなぁ」
腹の底からの溜め息を机に浴びせかけ、席を立つ。声の主が教室後方の扉を仁王立ちで塞いでいるせいで非常に迷惑だ。早い所退いてもらおう。
「おはようございます、会長。その……何度も誘っていただいて申し訳ないんですが、答えは変わりませんよ?」
金髪の縦ロールだったらとても絵になるのだが、生憎我が校の生徒会長はいわゆる黒髪パッツンという校則遵守の塊。それでも高貴な印象が消えないのはやはり生まれの違いなのだろうか。
「誤解なさらないで。確かにあの件についてはわたくし、未だ諦めてはおりませんが……今朝は別件ですの。貴女にお客様です」
さっさと諦めてくれればいいものを、顔を歪めないよう奥歯に力を込める。
その上私に客とは、全く面倒事を持ち込むのが好きな会長様だ。いや、それより……。
「……お客様⁈私にですか?」
胸中で会長への非難を唱えている場合ではなかった。
生徒会長自らが案内する客人だ、告白をしに来た男子生徒という事はあるまい。……すいません、調子に乗りました。
「どうも〜、おはようございます。朝から貴重な学生生活を邪魔してすみません」
長身の会長の後ろからヒョコっと現れたのはスーツ姿の女性。腰は低いが締まりのない笑顔に何とも軽薄な印象を受ける。
「いえ、そんなに大した青春は送ってませんから。それで……私に何か?」
「えぇ、ちょっとしたご用が……私こういう者でして」
そう言って女性が他の生徒から見えないよう差し出したのは、もう二度と見る事は無いと思っていたもの。無骨な黒の革張りのそれは……
「っ、警察……の方ですか。私、警察にお世話になるような事は……」
竜胆鈴音。
5年前に散々見せられたおかげで、氏名の記載された部分はすぐに読み取れるようになった。
「いえいえ、そういうんじゃありませんよ〜。あれですよ……病院で言う所の経過観察、みたいなものです。少し近況なんかを聞かせていただくだけ。それで、都合のいい時間を教えて欲しいんですよ」
こんな若い警官が来たのはそういう事か。歳が近い方が色々と話し易かろうという警察側の配慮だろう。
「それじゃ、今日の放課後はどうですか?ちょうどバイトも休みなので」
配慮は有り難いが、面倒事はさっさと済ませるに限る。
「話が早くて助かります。では放課後に校門の辺りでお待ちしてますね〜」
「会長、何だって?」
「珍しく生徒会長らしい用件。警察の人が私に話を聞きたいらしくって……」
ニヤニヤと締まりの無い顔で向日葵に問われるが、彼女の期待したような内容ではない。
「あぁ……ごめん、まただ。もう聞かないからさ」
一瞬だけ険しい表情を浮かべると、向日葵は肩を竦めて窓の外を向いてしまった。別に気にする事はないのだが。
普段から締まりの無い顔をしているせいか、たまに見せる大人びた表情は整った顔立ちを引き立たせ、同性ながらドキリとさせられる。
気にしていない事を告げたかったが、教師が扉を開ける音で思考は断ち切られた。
「紅葉さ〜ん。お待ちしてました、こっちですこっち」
そして放課後。校門の向かいに止めた車の前で手を振る竜胆刑事を見付けた。
学校生活?友達の少ない私に語る程の内容があるはずも無いので割愛。
「あの……これ警察の車なんですか?」
周囲の目を惹かない為にもパトカーでの訪問はご遠慮願いたかったので、それ以外の車輌を選択してくれた事には感謝だが……。
「いえ、マイカーです。職業柄ローンが組みやすいんですよね〜」
真っ赤なスポーツカー。車の知識が無い私にはそれしか分からない。あとは高級車であろう事だけ。流石は公務員だ。
竜胆には全く似合っていないスタリッシュな車に乗り込み、シートベルトを締める。
「刑事さん、出来れば知り合いには見られたくないので……」
「あ〜、ご心配無く。その為のマイカーですよぉ。少し遠出して隣町の喫茶店にでも入りましょう。それから、"刑事さん"なんて堅苦しい呼び方をしなくてもいいですよ。気軽に"竜胆"と呼んで下さい。あ、学生時代のあだ名で"りんりん"とかでもいいですよ〜」
竜胆で鈴音だからりんりんなのだろう。
「あ、それじゃ竜胆さんで」
「つれないですね〜。それはそうと、お店に着くまでに少し話しましょうか」
視線は前を向いたまま、ハンドルを握る竜胆が淡々と話し始める。
世間話の類と油断したわたしの表情はすぐに凍り付く事となった。
「事件は5年前の冬……某県の一般家庭に押し入った男によって、4人家族の父母が殺害。当時小学生の娘2人が眠った後の犯行でした。殺し方も酷いものですね、父親はハンマーで頭を一撃、母親は口に氷を詰め込まれて窒息死した後に腹部を裂かれる。父親に至っては死後に強姦された形跡がありました」
まずい、これ以上はまずい。
何が?感情を隠し切れない。既にカーブミラーに映る私の顔から笑顔は消えている。
そもそも何故、当事者の私に今更事件の概要を説明するのか。既に犯人が死亡し、一応の解決を迎えた事件だ。
私が殺した。後悔は微塵も無い。
「室内の金品を物色していた所へ、物音に目を覚ました次女が。……犯人は相当な異常性愛の持ち主だったようですね、当時8歳の次女を組み敷いて強姦しようとした。悲鳴を聞き付けてやって来た長女……紅葉さんの両手両足の骨を折って放置。すぐに殺害されなかったのは次女を優先したのか、それとも……」
「竜胆さん、お話は今度にしていただけませんか?車酔いしちゃったみたいで」
あぁ、もっと感情を制御出来るようちならなくては。ミラーを見るまでもなく目元は彼女を睨み付け、声色が低くなっているのが分かる。
「大丈夫ですか〜?少し窓でも開けましょうか。……犯人の死体が発見されたのはその2時間後。気の毒に、次女の通報で駆け付けた警官はその日の夕食を残らず吐いたそうですよ。惨殺された父母はもちろん犯人の死体も損壊が激しく、当初は別の犯人が居るものと考えられたりもしました」
「やめろ!!」
窓ガラスに拳を叩き付ける。素の私では拳の方が痛いだけなのだが。
しかし無遠慮なこの女を黙らせる事は出来たらしく、バックミラー越しに口元を歪めてこちらを見ている。
やっと気が付いた、この竜胆という女は私を不快にさせたがっているのだ。未熟な小娘はまんまと声を荒げてしまった訳か。しかし何故?
「いい顔になりましたねぇ」
「……窓を叩いた事は謝ります。ここで結構ですからもう降ろして下さい、歩いて帰りますから」
竜胆の唇がさらに歪み、白い歯が僅かに覗く。
「ここで降りる?私は構いませんが、本当にここから1人で帰れますかぁ?」
ひとりでに両目が見開き、視線が窓の外を彷徨う。動揺を悟られてしまった。
いつの間にか周囲から人工の建造物は消え失せ、鬱蒼とした木々に陽の光が閉ざされている。
「私が警察官の道を選んだのはですね」
「っ!!」
「それです、まさに今紅葉さんが浮かべているような表情。悲しみ、怒り、怯え、羞恥……いわゆる負の感情。私、そういう感情を抱いた人間の顔を見るのが堪らなく好きでしてね〜。性的な興奮さえ覚えます」
他人事のように話す竜胆、その口調は学校で言葉を交わした時と変わらない。だというのに、私の身体は隣に座る女への激しい拒絶反応を示している。
まるで「趣味は映画鑑賞です」とでも話すような軽い口調だというのに。
こんな時に限ってシクイの奴は惰眠を貪っているらしく、心の中で呼び掛けても反応が無い。
「そもそも貴女がいけないんですよ?5年前の病院……きっと覚えていないでしょうけど、私はそこで貴女を見た。両親の死を告げられて混乱し、医師や看護師に取り押さえられる貴女をね」
この女は危険だ、知りすぎている。
このまま同じ空間に居続けるか、諸々の危険を承知で車外に逃れるか。答えは1秒とかからずに導き出された。
「知人のお見舞いに来ていた私は衝撃を受けました……これほど涙と焦燥が映える人間がいるものかと。貴女の事は知っていましたが、いかんせん新人警官が住居や私生活を探れば不審に思われてしまう」
幸いな事に、見通しのわるい山道のためにスピードはかなり落ちている。加えて道は舗装されていないぬかるんだ地面だ。
興味の湧かない1人語りが続いている内にシートベルトを外して、車から飛び出せばひとまずこの気色の悪い女と距離を置ける。私の身体にいくらかダメージがあれば、シクイも目を覚ますはず。後は身体を貸してやればいい。
「ある程度の職権を手に入れるまで5年もかかってしまいましたが、苦ではありませんでした〜。なんたって貴女を観察出来るようになれば、私の欲求は半永久的に満たされる」
竜胆の視線は前を向いたままだ。シクイが起きていれば有効な隙を突く事も出来たが、使えないものをどうこう言っても仕方が無い。
意を決してシートベルトに手を掛ける。
「どこ行くんですかぁ〜?」
急ブレーキ。
半ば身を乗り出していた私は一瞬の浮遊感の後、シートに勢いよく叩きつけられる。
「かっ、は……」
急激に肺から呼気が排出され、目の前が霞みながらも右手はベルトを外そうともがく。
「紅葉さーん」
カシャン。と、軽い金属音。
構わず伸ばした右手は即座に冷たい感触に触れ、自由を失った。
「敵意がね、見え見えなんですよぉ。それでいて私から少しでも距離を置きたい……面白いほど伝わってきますよ」
手錠だ。無骨な黒い金属の輪が私の右手をシートの金具に繋いでいる。
「……ちっ!」
思わず舌打ちをしてしまったが、恐らくもう隠す必要は無い。
どうやら竜胆は私のそういう感情をこそ求めているようだ。
「思った通り。貴女、本当の顔を隠して生きてきたんですねぇ」
吐息すら感じられる距離に近付けられた竜胆の顔から、出会った時のような軽薄さは消え失せている。先ほどから感じていた気味の悪さの正体はこれか。
「やっと貴女のデータを手に入れて観察を始めた私は、失望のあまり失禁しかけましたよ。紅葉さんってば普通に暮らしてるんですから〜」
車のエンジンをが切られ、ヘッドライトが消える。外はすっかり夜だ。
「きっと己の境遇や世間への憎しみをばら撒いて、しかし孤独に震えて捨て犬のような目をしながら生きていると思っていたのに……。まるで"辛い事なんて人並みにしか経験していない"ような顔をして暮らしている」
竜胆が懐から何かを取り出すのがうっすらと見えた。僅かに発光するそれを手元で弄っていたかと思うと、四角いそれは瞬間的に激しい光を放つ。
それがスマートフォンだと気付いた時には既に遅く、シャッター音が車内に響いた。
「あぁ〜いい顔ですねぇ。焦りと羞恥が綯い交ぜになったいい顔です、紅葉さんも見ます?」
シャッターに眩んだ眼ではよく見えないが、とても他人に見られたい写真でない事は確かだろう。
不幸中の幸いは、私の左手が自由な事か。しかしこの体勢から竜胆の首をへし折ったり殴り殺す腕力も無ければ、武器になりそうな物は手の届く範囲には無い。非常に残念だ。
「それでも諦めずに観察を続けた甲斐がありました。今朝、貴女を尾けていた時に見せた表情……今も同じ顔をしてますね。歓喜のあまりその場にへたり込んでしまいましたよぉ」
今朝の視線の主はこの女だったのだ。
暗闇でもはっきりと分かる程に恍惚の表情を浮かべた竜胆は、ジャケットを脱いでネクタイを緩める。
「今日はバイトが休みというのも承知していましたから、誘い出すなら今日しか無いと思いましてね〜」
竜胆の行動が何を意味するのかを察して顔から血の気が引いて行く。混乱のあまり無駄と知りながら右手をばたつかせ、ガチャガチャと喧しい音が車内を支配した。
「あ、あんたどうかしてる!警官がこんな事してタダで済むと思ってるのか⁈この異常者!!」
「写真を撮ったのは趣味と口封じを兼ねてですよぉ?それに、一度狂った人生は余程の事が無い限り元には戻らない。貴女は生涯、私のような異常者の目を惹き続ける運命です、紅葉さん。ま、今後は私が独り占めする訳ですが」
生理的な嫌悪感に全身が震えだす。無駄と知ってなお左手は助けを求めて虚空を彷徨うが、すぐに強い力で拘束された。
「くそっ!殺す、殺す……それ以上触ったら殺す!くそっ、くそっ!早く起きろシクイぃ!!」
「もう混乱して何を言ってるのか意味不明ですねぇ、そんな顔も素敵です。後は恥辱の表情を拝むだけですよ」
反射的に閉じた脚の間に竜胆の膝が捻じ込まれ、太腿を蛇のような感触が這い回る。
「……ひっ」
熱い吐息の唇が視界を支配し、思わず目を閉じる。
が、いつまで経っても予期したような展開は訪れない。気付けば竜胆の吐息も遠ざかっている。
「………………?」
恐る恐る目を開けると、鋭い眼光をした竜胆の横顔。視線の先を追うと、暗闇の中に人影らしきものがあった。
「たっ、助け……んぅ!!」
好機とばかりに口を開くが、すぐさま竜胆の唇がそれを封じる。
「うう、うんぅぅ……」
油断無く車外へ視線を向けながら、いたぶるような口付けが数秒。やがて口内を蹂躙していた熱の塊と共に唇は離れた。
「……っは。ははっ、ご馳走様です。誰か来たようなので上手く誤魔化してきますね。下手に声を上げたりしたら、外の誰かさんは撃ち殺しますからそのつもりで」
腰のホルスターをちらつかせた竜胆は凶悪な笑みを浮かべると、瞬時に軽薄な表情を作って車を降りる。
「……………………」
涙を流したのは初めてを奪われたからではない。
ただただ恐ろしかったのだ。これから先、あんな人間と幾度も向き合わなければならない事が。小娘でしかない私にはとても恐ろしかった。
"ヒハッ!生意気言ってもやっぱりまだガキだな、ヤバくなって初めて理解しやがったか"
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