第4話ーーThe hill‐side's dew‐pearledーー

夢。


この夢が私のものか、はたまたシクイのものかは分からない。どちらにせよ私が認識出来ている以上、逃れる事は出来ないが。





辛い。


起きるのが辛い。スーツを着るのが辛い。電車に乗るのが辛い。挨拶をするのが辛い。机に座るのが辛い。


会社の成績は良くも悪くも無い、社内の人間関係もだ。家庭では人並みに父親としての役割を果たしているつもりだし、家族も笑顔で私の帰りを迎えてくれる。


少し疲れているんだろう、最初はそう思った。だから休みを取って久しぶりに趣味の一人旅に出た、目的地は一般的な温泉街。2泊3日で疲れを癒そう。




3日目。布団の中で目覚めた私は驚愕した。


ずっと布団で寝ていたのだ、私は。景色を眺めに出歩く事も土産物屋を覗く事も、あろう事か温泉に浸かる事も無く、ただただ布団にくるまっていた。


"気付いて"からの私は、一見何の変化も無いように見えたのだろう。今まで通り飲み会にも誘われ、妻は帰りが遅くなっても待っていてくれた。



眠りは死に限り無く近い。そんな言葉を聞いた事がある。


そうだ、私は生きているのが辛いのだ。死にたいのだと気付いてしまった。よくある心の病なのかもしれない。しかし、だからどうなると言うのか。


病と知れれば会社での立場はたちまちの内に揺らぐ。そうなれば家族を養う事は難しい。誰に相談出来る訳も無かった。



家族と社会。既に私はどうしようも無い所にいるのだ。縁の繋がりによって生に繋がれている。私の死によって生まれる影響が全く無いなどと思えるほど、卑屈でも無責任でもない。


「警察です。落ち着いて聞いて下さい、ご家族が……」


なんと呆気無いのだろうか、その一言で私の家庭は消失した。


急な心臓発作で道路に倒れ込んだ老人を避けようとしたトラックが、家族の乗った軽自動車とまともに衝突した。誰にも責任の無い不幸な事故。誰の事も恨んではいない、本当だ。



「そうか……。いや、この街にいては家族を失った傷も癒せないか。後の事は心配しなくていい、辞表は確かに受け取った」


これを神の啓示と呼ぶのかもしれない。すぐさま会社を辞めた私を責める者も、追う者も居なかった。


親の居ない同士で結婚した私と妻には、近しい親族は居ない。これで誰に気兼ねする事無く無に帰れるというものだ。それなのに、


「おい、あんた。その先は立入禁止だぞ?埋め立て予定地で明日にはコンクリを流し込むんだ。……ひょっとして近くの風俗と間違えたな?よくいるんだ、案内してやるよ!」


「そこの方、酷い凶相が出ております。私の事務所でお祓いをしておりますので……」


善意・悪意にかかわらず、誰かが私に縁を結ぼうとして来る。既に私の心は壊れていたらしく、排除するのに迷いは無かった。



何人目かを排除したある日、またしても路地裏で私に話し掛けてくる人影。どこにでも居そうな女子高生だ、すぐに足下の死体と同じにしよう。


しかし数秒後。私の視界は暗闇に閉ざされ、身体は痛みに支配されていた。


「ーーーーーー」


少女が何か言ったようだが、上手く聴き取れない。


代わり聴こえて来たのは、およそ人間の物とは思えぬ哄笑。その得体の知れない存在が近付いて来るのが、どうしてか分かる。


そして、それは姿を現した。


視界を失っていたはずの視界を埋め尽くす形容しがたいもの。生理的な嫌悪を呼び起こすそれが、私という存在が触れた経験を、感情を切り分け、咀嚼していく。絶え間ない哄笑と共に。


望んでいたはずの死。それは私という存在が消滅する事に違いないというのに、こんな形で迎えるものとは聞いていない。


形の無いはずのものが音を立てて引き裂かれ、砕かれて口内に引きずり込まれて行く。クチャクチャと品の無い咀嚼音まで聴こえて来るようだ。


嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!


私の知っている死はこんな残酷なものじゃない!もっと刹那的で、速やかに訪れるもののはずだ!


やめてくれ、私を果物のように切り分けるのは。肉のように噛み砕くのは。穀物のように磨り潰すのは!


そうして私を構成していた全ては得体の知れぬ暗闇に飲み込まれた。




全て?


否、ここにある私は?



散々私を貪り食った何かは既に遠ざかり、暗闇は濃さを増している。


暗闇に私が溶けていく。それだけが分かった。


そうか、あれは私の……僕の……を食って行ったのか。









とんでもない勢いで瞼が開く。


「っ……はっ!」


闇に消えた意識を否定するように力強く心臓が脈打ち、呼吸は荒い。


"夢だ、だが幻の類じゃあねぇぞ"


無機質な声でシクイが言う。この時間はいつも眠っているはずなのに。



ひどい汗だ。頭から髪を伝ってこめかみまで湿らせている。ついでに眠気が再来して来た。


「……シャワー、浴びなきゃ」


「だと思って準備しといたよ。はい、タオルと着替え」


既に汗まみれのパジャマはベッドの脇に追いやられ、身に付けているのは下着だけ。受け取ったタオルと着替えを持って浴室に向かうだけだ。


「ありがと、気の利く妹を持つと姉は朝から楽が出来るよ」


「制服もアイロンかけといたよ。姉さんってば、帰ったと思ったらそのままベッドに直行するんだもん。いつも言ってるでしょ?」


「ごめん、昨日は疲れてて……」


熱いシャワーを頭から浴びて眠気の残る頭に覚醒を促す。


昨夜、帰ってからいつの間に眠ったのか全く覚えていない。靴を脱いで部屋のベッドに腰掛けて……そのまま眠りに落ちてしまったのだろう。


手早くシャワーを済ませて浴室を出る。妹の用意したタオルで適当に身体を拭いて下着を身に付け、髪を乾かす。


「……私、制服のまま寝てたんだよね?」


シクイに訊ねた訳ではない、自分自身への問いだ。


ーー「姉さんってば帰ったと思ったら制服のまま……」


ドライヤーの音に混じって、その台詞が頭の中で反芻する。



「わ……わわ若葉ぁぁぁぁ!」


「あぁ、姉さん。丁度朝ご飯出来てるよ、叫んでないで食べちゃって」


「あんたまた勝手に私の服脱がせたでしょ⁈パジャマまで着せて、恥ずかしいからやめてってば!」


若葉というのは妹の名前だ。フライパンから目玉焼きを皿に移しながら、子供を叱るような視線を向けてくる。


「シワになるからハンガーに掛けてって言っても、いつも聞かないでしょ?私の仕事を増やさない為の致し方無い手段です」


ぐうの音も出ないとはこの事だ、正論過ぎる。


「姉妹で恥ずかしがる事も無いでしょ?早く食べないと遅刻するよ」


朝食を食べる私の顔はさぞ不貞腐れていた事だろう。




若葉と一緒に家を出て、徒歩数分の交差点で別れる。ここから学校までは1人だ。


"グッドモーニング紅葉!いやぁ、まさに良い朝だ。良い晩飯を食って良く寝た後の朝は目覚めも良いときた!気分が良いから代わりに登校してやろうか?陸上部からスカウトされる事間違い無しのタイムで登校してやるぜ"


「……バッドモーニング化け物。こっちはあの後散々だったのに、いい気なものだね」


普段から選んで通る人通りの少ない通学路で良かった。我ながら女子高生が朝の登校でする顔では無い。


"そりゃゲロを吐いた事か?それともそれをあの人妻に見られた事か?"


寝るといっておきながらしっかり把握しているではないか。


"ま、そんな事はどうでも良い。気分が良いから教えとくがな、つけられてるぞ"


「……っ⁈」


思わず振り向きかける身体は硬直し、ひとりでに前方へ向き直る。


「ちっ……悔しいけど助かった。で、何者?まさか昨日の事が?」


"違う、あの場にお前に繋がるモノは残しちゃいない。あの街の連中が警察に聞かれて何か喋る訳もねぇしな。……ま、保証は無ぇが?ハハハッ!"


「ふざけんなっ。捕まったりしたらアンタだって食事が出来なくなるんだからね。それに若葉が……」


もつれそうになる足を前に運び、平静を装う。


もし私が警察に逮捕されでもすれば懲役刑は免れない。殺人をはじめ数え切れない罪を犯してきた私は、下手をすれば終身刑だ。


若葉を独りにしてしまう。それだけではない、きっとまたあの子の人生を狂わせてしまうだろう。



両親を惨殺され、姉が重傷。その姉は動く事など到底出来ない筈の身体で犯人を殺害。


その中で唯一、無傷で生還した少女に世間の目が集まらない筈は無い。マスコミが押し寄せる病院で、若葉は私が意識を取り戻すまで手を握ってくれていたそうだ。


私が目覚めるまでの1週間、日々垂れ流される心無い報道に若葉はたった独りで向き合っていた。8歳になったばかりの女の子が独りでだ。


その胸中を、私は察する事しか出来ない。




「もう誰にも、あの子の人生を狂わせやしない。その為にアンタと生きる道を選んだんだ。身体はくれてやる、だから邪魔者は排除しろ、シクイ」


罪を隠す為に罪を重ねる。愚かな選択だという事は自分が一番理解している。そんな事は分かっているのだ。


でもせめて、せめて若葉が1人で生きて行ける年齢になるまでは。それまでは私がそばにいてやりたい。その日が来たら、私はこの化け物と共に世界の果てへでも消えよう。


"ヒハッ、すげぇ顔だな。良いぜ、お前のそういう所だけは昔と変わらねぇ。だが安心しな。昨日の件でも、ましてこれまでの事でもねぇよ"


「分かるの?」


"あぁ、今までのどの匂いとも違う。これは……あれだ、俺とお前が出会った時の……"


シクイにしては歯切れが悪い。その話をすると、決まって私の機嫌が最底辺まで悪くなるのを知っているからだ。


「はぁ……今回に限ってアンタは悪くない。いいから教えて」


カーブミラーを視線だけで覗き込むと、確かにそれらしき人影がある。帽子を被っていて顔は見えない。


"そうかい。……これはあれだな、あの時の現場を知ってる人間だ。ホントに警察の関係者だぜ。それもただ現場に居ただけじゃない、お前と何かしら接点のある奴だ。覚えはあるか?"


両親が殺されたあの事件の?


だが接点のある人間など挙げればキリが無い。私を搬送した救急隊員、事情聴取に来た複数の刑事に、果ては退院の日に親戚の元まで送迎してくれた婦警……。その全てを思い出す事は不可能だ。


「心当たりがあり過ぎる。確認だけど、私がやってきた事とは関係無いのね?」


"普通の人間に俺の鼻はごまかせない、信用して良いぜ"


「ならこのまま学校に行こう。事情があって私の様子を見に来ただけかも」


時刻を確認して歩調を速める。話しながらではどうしても歩みが遅くなっていけない。


"あいよ。明日も居たらどうする?"



「……アンタの食事が増えるだけ」













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