第3話ーーMorning's at sevenーー
「いやぁ、危ねぇ危ねぇ。最後の1個とはツいてるじゃねぇか!」
人通りの絶えた住宅地。近くの高校の制服に身を包んだ少女がビニール袋を2つぶら下げて歩む。私の身体だ。
"ちょっと、いい加減にしてよ!この辺りまで来たら知り合いも多いんだから"
だが決して私ではない。人格と身体が一致していないという意味では。
スキップでも始めそうなほど上機嫌だった身体が停止したのが、視界の揺れが収まった事で分かった。
「んだよ、わがままな奴だぜ。俺の食事が上手くいって、お前の夕飯候補も確保出来たじゃねぇか。俺が身体を使ってなきゃ確実に間に合わなかったね。……まぁいい、どっちにしても頃合いだな」
夢から覚めたような、身体が主導権を取り戻す感覚。悪夢から逃れたような安心感。
"満腹になったら眠くなって来た、俺は寝る。何かあったら泣き叫んで助けを乞えば応えてやるよ"
返答する間も無くシクイの気配が薄れていく。生意気な事にこいつは睡眠を必要とするのだ、生物のように。
助けを求めるなど可能な限りしたくない私は一刻も早い家路を急ぐ。住宅地の片隅にひっそりと横たわる公園を抜けようと足を踏み入れた時、
「うっ、ぐ……!」
込み上げる猛烈な吐き気に口を押さえてくずおれる。
押し寄せる熱い塊を脆弱な喉は押し留める事が出来ない。出来る事と言えば、せめて公園の隅の植木に向かって吐き出すくらい。
「ぉえ……っは!ぅ、げほっ!げほっ!……ぅ」
私の身体は、シクイとの共有物になった時から常人よりも機能が向上している(ちなみにあいつが操っている時の方が身体能力が高く、人間離れしている)。でなければこんな一般人の小娘が大の男を殺せるはずも無い。
しかしいくら身体を強くした所で、脳は凡人のままだ。事の最中は身体を動かすので精一杯の脳が、今更になって拒否反応を示しているのだろう。シクイが入っている時は何も起こらないというのに。
「はぁ、はぁ……。くそっ、あんな人殺しのクズを掃除したくらいで!」
「もしかして……紅葉さん?」
1人悪態を吐く背中に、戸惑いを含んだ女性の声。
「っ!!」
驚いて振り向く。
「やっぱり!紅葉さんも近道?今日もバイトお疲れ様」
控えめに手を振りながら近付く人影。距離から考えて先程の独り言は聴かれていないだろう。
「香さん……。こ、こんばんは」
慌てて口元をハンカチで拭うが、足元にぶちまけた汚物までは隠せない。すぐに彼女の視線はそちらへ移り、直後にこちらへ戻る。
「えっ、ちょっとどうしたの⁈具合悪いの?そ、そうだお水を……」
品良く着こなしたスーツの彼女の名は
「だ、大丈夫です。ちょっと寝不足で気分が悪かっただけで、吐いたらすっきりしましたし」
差し出されたペットボトルの水を丁重にお断りし、いつの間にか手を離れていたビニール袋を拾い上げる。卵は奇跡的に割れていなかった。
「そう?あぁ、でも顔色はそれほど悪くなさそうね。あんまり夜更かししちゃ駄目よ、身体にも美容にも良くないんだから」
そう言って香さんは私の頬に触れ、髪を優しく撫でる。ほんのりと柑橘系の香水が鼻腔をくすぐり、同性にもかかわらずドキリとしてしまった。
豊満な身体つきに優美な仕草。加えて母性的な人格に、世の男達は一瞬で虜になる事だろう。残念ながら既婚者で夫との仲も極めて良好、涙を飲んだ男が何人いるのだろうか。
身体つきだけで言うなら向日葵も引けは取らないが、いかんせん向こうは人格に少々難ありだ。
「少し顔が赤いわね、もしかして熱が……」
「なな、無いです、大丈夫です!」
少し夜風に当たりたい所だったが、そんな事を言えば香さんまで付き添うと言い出しかねない。大人しく帰る事にした。
「香さん、今日は帰りが遅いんですね。お仕事ですか?」
「そんな所ね。一昨日から夫が海外に行ってるから、帰ったら食事の準備をしないと……早く帰った方が食事の用意と決めたのに、反則よね?」
マンションのエレベーターの中で他愛の無い世間話を交わす。彼女の家庭事情なら多少興味はあるので、苦にはならない。
「出張の多い仕事っていうのは承知の上で結婚したけど、やっぱり寂しいものだわ。そうだ!紅葉さんの家にお邪魔しちゃおうかしら。上物のワインがあるの」
「うちは未成年しかいませんよ?ワインに合うような料理も出せませんし」
食事の用意は主に妹が担当だが、家庭料理にひと手間加えた程度の物しか見た事がない。レシピと材料があればもしかして作れるのだろうか?
「ふふっ、冗談よ。大好きなお姉さんを取ったら妹さんに怒られちゃう」
確かに妹は所謂「お姉ちゃん子」な所があるが、仮に香さんを連れて帰ったとしても少し戸惑う程度だろう。
エレベーターの扉が開き、それぞれの部屋を目指して廊下を進む。月下家と我が家はなんと隣同士だ。
どうして比較的裕福な彼女の隣に私のような親の居ない者が住んでいるのかと言えば、今の家が遠い親戚の厚意で用意してもらった場所だから。
親戚は地方に住む資産家なのだが、「ど田舎暮らしは今時の女の子には性に合わないだろう」と気を遣ってくれた結果がこの高級マンション。厄介払いにしても好待遇だが、素直に甘えることにしている。
「それじゃあお休みなさい。今日は早めに寝るのよ?ワインは紅葉さんが大人になったら2人きりで……ね?」
流し目からのウインク。これが魔眼というやつか!
ドアが閉まる音で我に返った私は、取り敢えず成人するまでは生きる事を心に誓った。
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