夢の話はつまらない?

会話の中で「自分が話したいこと」と「相手が聞きたいこと」が一致することは少ない。それどころか自分が話したい時に相手が話したがったり、自分が聞きたい時に相手が聞きたかったりすることもザラである。


会話と言うのは互いの我慢と妥協で成り立つ遊戯なのだが、世の中には人が話したがる割に、聞きたがらない話題というものが存在する。自分は話したいけれど人が話してくると大変につまらない。それに当て嵌まるものが「昨夜見た夢の話」と「飼っているペットの話」だと思う。


自分が使い古した靴下の匂いは嗅ぐけれど、他人の靴下を嗅ぐのは絶対に嫌だという人も(筆者はそんなことはしない、念のため)昨夜見た夢の話を得意げに人に聞かせては喜び、その翌日に人から夢の話をされてはげんなりする。


あなたがしていることは靴下の匂いを嗅がせることと同じなのだから反省しなくてはならない。まったく。


と言いつつ私も夢の話をするのが大好きなのだ。夢の話は良い。まず前提として荒唐無稽だから組み立てなんか考えなくてもいい。寧ろ展開が破綻している方が夢の話としては面白い。その面白味は本人しか旨くないのだが。


多少誇張しても怒られないのもよろしい。普段数人で会話しているときには「誇張警察」と呼ぶべき人が大抵一人はいる。誇張警察は「盛ってる」が口癖の会話の保安官である。彼の話はそれなりに面白いがどうにも爆発力に欠ける節があって、それ故に他人が少し会話の中で事実から少し逸れたような言い方をするとすぐに、「盛った」と言って取り締まるのを生業としている。


しかし誇張警察も流石に夢の話までは取り締まることが出来ない。なぜなら夢というプライベートステージに於いて経験したことは私以外の誰も知り得ないから。つまり盛り放題である。事実が「エレベーターに乗っていたら屋上を越えてどこまでも上昇していった」というものであっても「エレベーターに乗って空を自在に飛び回り成層圏に巣食う邪悪な龍と対峙した」と言ってもなんら差し支えない。


何しろ本人も半覚醒状態での記憶だから少し誇張して語っているうちにそれが本当に夢の本筋だったように思ってしまうことすらある。その点で言えば夢の話は当人の想像力の限界チャレンジと言ってもよい。


ところが聞いている方としては全く面白くない。なにしろ相手が成層圏で邪龍と対決しようが、オーロラを滑り台にして遊ぼうが自分には一毛の関係もない。会話と言うのは共感と反発で成り立つものなのだから、相手に触れずには成り立つはずがないのである。それならまだ二人の最寄駅で自動改札に挟まれた話をする方がマシというものである。


中には自分に関する夢の報告をしてくる者があり、これは自分に関係あるのだから興味が出るのかと言えばそうでもない。たとえ「昨日夢の中で木星に頭ぶつけて死んでたぞ」と言われたところで現実の自分に何一つ影響を及ぼさない時点でまたしても一毛の関係もない。せめて幽体離脱して現実の私の布団を剥ぎ取るくらいしてくれなければ答えようもないのである。


夢の話は満場一致の不要であると思うけれど、難しいのが「飼っているペットの話」である。これは「うちの小さい赤ん坊の話」と類するところがあって、興味がある人にとってはいくらでも飽きない話の種となるようだ。しかし、人が飼っているペットに就いて話したがり、聞きたがらない場面を私は何度も見てきた。


友人と3人でいる時、一人が「うちのバカ犬がさ」と切り出した。私は(アレルギー持ちなのもあって)動物やらの話題にとんと興味がない。そこで応対をもう一人の友人に任せることにした。彼は動物好きなのである。しかし問題があった。猫派だったのである。


犬が寝転び、転がっているうちに縁側から落ちそうになる動画が延々再生されていた。撮った本人は大笑いだが、我々二人の間には全然その魅力が伝わってこない。その内にも別の動画、静止画がいくつも上映され、私はジュースを啜りながら完全に目を殺していた。猫派の友人も同じである。


そこで猫派の友人が動いた。「そういえばうちの猫がこの前狩りを始めてさ」という出だしだったような気がする(なにせ精神も死んでいたので覚えていない)。そうして上映が始まったのがまるきり野性を失った飼い猫が鳥に飛びつくも、あえなく躱されるシーンである。撮った本人は目をとろんとさせて愛でるように画面を眺めている。


これにも共感できない私はなんとなく目を上げて犬派の友人の目を見た。すると彼の目は、さっきまであれほど元気だったその双眸は、すっかり色を失って瞼に臥せっていた。死んでいる。


私は驚愕した。なんだこの無用な時間はと。互いに口では可愛いだのなんだのと言っておきながらこの有様である。話しかけるならSiriにでも話しかけている方が余程有益ではないかと思った。


故に私は「夢の話」と「ペットの話」を「二大話者満足話」と認定した。


最近ではめっきり見る機会が減ったが昔、年賀状というものがあった。いや今でもあるのだがここ5年ほど見ていない。年賀状で一番がっかり、というか、はあ、となったものはペットの写真がでかでかと載っている物であったような気がする。戌年に犬の画像を載せるなら分かる。蛇年に猫であった。


勿論猫好き同士なら弾む話題もあろうが、興味がないものと交わすペットの話題の弾み方ははまるっきり低反発枕のそれである。


しかし夢の話は場合によっては面白い。三が日過ぎて届いた年賀状に初夢の内容が事細かに記されている物があったがあれは非常に良かった。年賀状映えする内容だったと思う。だから通常時であっても面白い夢の話というものはあるはずである。それを探すため、私は今日も嫌がられながらも夢の話をする。


なぜだか個人的怨嗟故にペットの話のみに強く当たってしまったが、どちらにせよ余程自信がない限りはこれらの話はせぬがよろしかろうと思う。話すならば同じだけの分量を聞く覚悟をすべきだ。そのつらさに耐えてまで話す価値があるならば話せばよい。しかし大抵そんな価値はない。

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