蕎麦道場の門下生の門下生

蕎麦を打つ。


となると、まず信州の山中にある小屋に閉じこもる。往復二時間掛けて汲んだ南アルプスの湧水を使い、北大路魯山人のような顔をした師匠に見守られながら粉を挽き、捏ね、伸ばす。タンタンと麺きり包丁を振り下ろす音が断続的に響く。もう何千本の蕎麦を切り離したか分からない。とうとう包丁を置いて休み始めてしまった私の手を魯山人先生がぴしゃりと警策で打つ……


蕎麦打ちのイメージと言えばこんな感じであった。蕎麦を打つということはすなわち、厳しき修験道に踏み入ることと相違ないと思っていたのだ。そもそもいきなりずぶの素人が蕎麦を打っても蕎麦がきのようにぼってり丸くなるのが関の山だろうと思っていた。


しかしそのずぶの素人がしっかり蕎麦を打てる場所が近所にあった。しかも電車で一本、駅から徒歩三分だという。


そんな楽で良いのか、信州に籠らなくてよいのかと思わなくはなかったが、楽できるところは楽をしたい。そしてあわよくば美味しいところ、楽しいところだけを持っていきたい。出掛けてみることにした。


指定された場所は駅を出てすぐにある、至って普通のアパート。三階に上がっても猶、警策で手を叩く音はなく、蕎麦打ちの様子も窺えない。指定の部屋のインターホンを鳴らしてみると、出てきたのは魯山人先生然とした老人ではなく、さっぱりとした立ち居姿の男性であった。


部屋に上げていただくと一室が蕎麦打ち専用の部屋となっている。清潔な木調の部屋で、広さは8畳ほどだろうか。大工さんの友人に作ってもらったという特注の蕎麦打ち用机が二つ並び、壁には麺棒が掛かっている。机の上には大相撲優勝力士が口を付ける大杯くらいの大きさの漆器が存在感を放っている。


先生は軽妙な関西弁を操る。「ほなやりましょか」の声で貸していただいたエプロンを身に付けて蕎麦打ち部屋に入室。先生は紺色の作務衣を着ていらっしゃるのに対し、私はなぜかアロハ柄のポロシャツ。


先生が予め用意してくださった中力粉と蕎麦粉を二対八に混ぜた粉をふるいにかけ、先の漆器に落としていく。後から何度も思うことなのだが、なんだか児童の頃に興じた砂場遊戯を彷彿とさせる楽しさである。そこに水を三度に分けて入れながら混ぜる。混ぜる。ひたすらに混ぜる。ひんやりとした細かい粒子が指先に心地よい。初めはそんな感想だったのだが、水分が加わるごとに粉が纏まりだしてパン粉ほどになり、鶏そぼろのようになり……と成長していく。


かきまぜる度にふわりと鼻腔を掠める蕎麦の匂いにうっとりとした。しかし休みなく動かし続ける両手から伝わる粉っぽさが「まだ混ぜろ」というので一心不乱に混ぜる。というのは嘘で、先生が水加減や混ぜ上げた状態を確認して助言をくれる。この工程が一番大切なのだという。


十分ほど混ぜ、次いで未だ小規模に散らばる蕎麦玉(正式名称はわからない)を一つに纏めていく作業である。目の前で手本を見せてくださった先生の手の中へ蕎麦玉が急速に集結していく。私は見よう見まねで練っては捏ね、捏ねては練る。すると段々粘り気が消え、表面がつるつるとしてくる。必死に生地と遊んでいるうちに、生地と呼ぶにふさわしいものが完成した。ゴーダチーズのような形に纏められたそれは、うっすらとしたピスタチオ色の中に蕎麦らしい茶色の斑点を忍ばせ、蕎麦のタネ、という印象を与える。


いよいよ漆器から取り出された生地を引き伸ばす作業である。厚みがありすぎては麺棒が使えない。よってまず掌でピザ生地大に押し広げる。時より掴んで振り掛ける打ち粉のひんやりした感覚が懐かしい。今や生地は粉、下積み時代からは考えられぬほど纏まりのある蕎麦へ成長した。均等に、均等に、という先生の声を口の中で復唱しながらゆっくり押し広げていく。


先生は基本的にほめて伸ばすタイプのようで助言も端的である。それを見習い私も「もう美味しそう」「良い匂いだ」などと蕎麦を褒めながら生地を伸ばしていく。どうやら生地も褒められて伸びるタイプのようであった。


麺棒を持つと興奮する。幼少の頃、帰り道で木の枝を拾って持ち帰っては母に怒られた。その木の枝の最上級が麺棒であろう。90センチほど真っ直ぐ均等な太さを保ち、表面にはささくれ一つない。陶然とした心持で更に生地を伸ばす。力を入れ過ぎず抜きすぎず、指先で生地を傷つけないように麺棒に巻きつけてはまた伸ばす。木版画をしているような気持ちになる。


いつの間にやら生地は座布団大にまで伸びきって真四角、とまでは行かずともかなり四角に近い楕円を描いている。不思議なものである。高見盛関よろしく大量の打ち粉を振りながらそれをペタンペタンと畳んでいく。「綺麗やね」と先生が仰る。


後は麺きり包丁を用いて畳んだ生地を麺へと変化させていく。切断補助と生地の押さえを担当する板をとんとん、と包丁の側面で叩き、少しずらす。上から宛がった包丁を落とすと、紛れもない蕎麦がはらりと現れる。切る、という感じではない。包丁を落とす、という感じで心地がいい。


切っていると先生が「めっちゃ綺麗ですやん!」と褒めてくださる。図に乗った私は板をずらし過ぎ、現れた麺は稲庭うどんほどの太さになっていた。切るということは精神修行なのであると悟った。


なんだか信じがたいことに、切り終わると五人分の蕎麦の束が出来上がっている。多少不揃いではあるものの、一本一本、私が捏ね、練り、延べ、切ったものだと考えると慈しみを覚えた。あっという間に1時間以上が経過していた。


一本分ずつ袋詰めして、タッパーに入れる。そしてリビングでコーヒーを啜りながら色々なお話を聞いた。毎年福井県で行われる名人戦の様子、蕎麦界の伝説に就いてなどなど蕎麦界の奥深さを知る。先生にも先生がいて、そのまた先生もいる訳だからこれはもう大変なことである。私は今日その末端に流れてきた蕎麦を啜る形になったのである。


深く礼を言ってから先生宅を退散した。指先にくっついて洗い流せていなかった蕎麦粉が名残惜しそうにしている。


家に帰り、早速茹でてみることにした。今回は北海道産の新蕎麦を打たせてもらっていた。新蕎麦は冷蕎麦に限る、ということなのでざる蕎麦にする。袋から出した瞬間にふんわりと漂う打ち粉に少し感激する。


茹でるのは一分ほどでいいと仰っていたのですぐに冷水に取り、軽くぬめりを取って盛り付ける。箸に纏わりつくことなくつるつるとした麺が素直に口に運ばれる。固めに茹った蕎麦が冷たい出汁に良く合う。


食べてるうち、先の稲庭うどん並の太さを誇る麺に出くわした。それすらもいとおしく思えた。

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