がんばると言わないようにがんばります

前話で「おめでとう」と並んで「がんばれ」が嫌い(苦手)だといった。ここではがんばれについて語ってみたいと思う。


論の取っ掛かり口が見当たらない時は語源、成り立ちを見るとよい。まず「頑張る」というのは当て字である。これを知らない人が意外と多い。いや当然私も以前に調べるまでは知らなかったのだが「頑張る」で意味が分かってしまうので当て字の雰囲気はあまり感じない。


説は二つあり、「眼張る(がんはる)」から転じたという説、「我を張る」から転じたという説があるようだ。前者は見張る、更にはそこから動かないという意味に変遷していったとされ、後者は読んで字の如く自分の意見を曲げないことから今の意に変わったとされている。どちらにせよえらく「がんばっているな」という印象を受ける。前者はそのまま「一所懸命」と置き換えてもよさそうだし、後者はなにかこう「耐える」というような、がんばることの本質を教えてくれているような、そんな字面をしている。


がんばる、というのは非常に便利な言葉である。動詞としては勿論(一生懸命がんばります!)名詞的用法(がんばりが大事だ)、形容詞的用法(がんばる人)、副詞的用法(がんばってやる)、あまつさえ感動詞的に使うこともできる(何か言われた後の応答として「がんばる!」)


そろそろがんばるに飽きてきた頃合だろう。短時間で(といっても分からないだろうが)これほど例を挙げられるほどに、この世の中において「がんばる」は氾濫しているのである。


これに気付いたとき私は「がんばる」をやめようと思った。がんばらないという意味ではなく言葉としての「がんばる」を使わずに生きようと思ったのである。言葉は使い減りする。がんばる、と言っただけ頑張らなくなってしまいそうだと思った。そうして意識してみてはじめてわかったのは「がんばる」の汎用性の高さと「がんばる」への依存であった。


「~して」といわれると「がんばる」と答えていないか?

「~する」と告げられ、「がんばれ」と返していないか?

何か返事が物足りなければ「がんばって~する」と言っていないか?


こうして具に発言を検証していくとラップのように挟まる「がんばる」が全く意味を為していないことに気付く。SNSのやり取りで「がんばる」が挟まらないことはめったにない。「がんばれ」「がんばる」と終わる会話も沢山ある。もはや日本人は「がんばる」を英語の”do”のように用いているのである。強調構文に使われるところまでそっくりである。”do”に対応するのは「する」であるはずなのに日本人は「する」を飛び越えて「がんばる」のである。日本人は「がんばる」中毒なのだ。


その癖じゃあ実際に「がんばる」のかと言えばそうではない。当たり前である。恒常化した「がんばる」の意味は「平常通りに過ごす」或いは「平常通りに怠ける」のどちらかなのだから。「がんばる」では少し緩かったり真面目にとらえられなかったりするな、と感じた際には「鋭意努力いたします」だの「精一杯尽力してまいります」という風に仮面を被せて登場させるのだが結局その実態は「がんばる」なのだから世話がない。


ここまでの全てが我が身に刺さって非常につらい。しかし日本人の用いた「がんばる」と言うのは9割ほどががんばられずに終わるということを意識してよい頃ではないだろうか。ここではっきりしたのは私が憎む「がんばる」は「実体なきがんばる」であることだ。実際の努力を欠いて「がんばる」を復権させることは出来ない。日本人は自分の「がんばる」にもっと責任を持つべきなのではないかと思う。ほとんど自戒である。


ここまであまりにもたくさんの「がんばる」が登場した。それを上手く読み流すようなことが出来る人は「がんばる」に対する責任を負っていないのではないか、換言するとがんばっていないのではないかと思ってしまう。「がんばる」ことの重みをしっかりと把握することで実のある人間になるべく、私とこの文章と共に頑張っていこう。

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