ロナウドに憧れた男性はピッチに乱入して

昨日、開催国フランスを下したポルトガルの優勝で幕を閉じたサッカーのユーロ大会。私も朝の4時からテレビに縋りつくようにして見ていたのだが、そんな中で気になる一幕があった。


後半(だったと思う)、プレーが中断した時に一人の観客がフィールドへ乱入したのだ。映像は直前のプレーを映していてその雄姿が日本で放映される気配はなかったが、実況のアナウンサーは冷静に乱入と警備員による捕縛を伝え、解説の松木さんは「いやぁ、折角ユーロ決勝を観に来たんだから最後まで見ていけばいいのにねぇ」といつもの明るい調子で述べ、映像は次のリスタート後のピッチに移り変わった。


サッカーの試合で観客の乱入と言うのはさして珍しいことではない。このユーロ大会でも選手とのセルフィーを撮影するためピッチへ入り込んだ男が捕まり、会場から追い出された後に500ユーロの罰金と1か月のフランス入国禁止を言い渡されていた。たまに選手ばりに足の早い乱入者もいてその疾走ぶりを見る選手の苦笑、乱入者が迫って来るのに恐怖した選手の姿を見るとなんとなくおかしみを感じてしまう。


今回の乱入者について、私はなぜか非常に気になった。なにせ映像は残っていないので想像力を掻き立てられるし、アナウンサーの口ぶりから察するに然程長い時間ピッチに逗留できたというわけでもなさそうだった。


ユーロ決勝のチケットなどはとんでもない代物で、特にヨーロッパのサッカーファンならこぞって手にいれたがるプレミアチケットなのである。それを後半の途中という一番良いシーンで破り捨て、罰金と国外追放を課せられることが分かっていながらもピッチに向かって走った彼の心境はどのようなものであったか。それを想像してみたいのだ。


彼のことが気になった瞬間、私はなぜか三島由紀夫の『金閣寺』を思い出していた。金閣寺消失事件というショッキングな題材から三島が犯人たる学僧の生い立ちからコンプレックス、実際の放火に至るまで、その心中を炙り出して克明に書き上げた名文には遠く及ばないけれど、私もこの乱入者の心中を想像して書いてみたいのである。


決勝のチケットと言うのは当然高価だ。調べてみたところ最低85ユーロ(12000円ほど)であって、おいそれと購入できるものではない。今はテロ対策などで確認も厳しくなっているので譲渡による観戦なども出来ないはずだ。故に乱入者はそこそこ余裕のある財布の持ち主である、またはその者の親戚であることが仮定できる。


その者の特徴として一人で観戦に来ているであろうことを想定している。なぜなら友人、家族と来て一人で乱入するなどということは考えにくいからだ。若い友人同士の悪戯、悪乗りによってその一人が侵入したという考えもなくはないが、アナウンサーが侵入を告げてから捕獲を告げるまで、恐らく5秒もなかった。入念に心と足の準備をした若者の走力に、最も気の緩みがちな後半にスタンドを見張る警備員がそこまで早く追い縋れるとは思えない。よって私の中で30代以降で小金持ち、サッカーファンで独身の男性が乱入者として想定された。


さて、ではなぜこの男性はピッチに乱入したのか。それを示すために欠かせない重要なファクトがある。クリスティアーノロナウドの負傷退場である。


クリスティアーノロナウドはポルトガル代表のサッカー選手で、メッシと並んで世界最高の選手と評される稀代のストライカーだ。しかし自分の所属するクラブではあらゆるタイトルを獲得した彼も、ポルトガル代表としては12年前のユーロ大会での準優勝が最高成績であった。31歳になり代表のキャプテンを務めるようになったロナウドは今大会も大車輪の活躍でチームを決勝に導いてきた。


決勝の舞台でもその実力を発揮しチームを優勝に導くはずだった彼をアクシデントが襲う。前半20分ごろに相手選手と接触し、膝を痛めて一時退場してしまったのである。テーピングを巻いて再びピッチに戻るも、ロナウドは自らプレーできないことを宣言し、担架を要請した。その眼には涙が浮かんでいた。


決勝までにポルトガルが奪った8ゴールのうち、6つに絡んだロナウドの交代は戦前不利の評判を受けていたポルトガルを更に追い込んだ。攻撃は噛み合わずに押し込まれる時間が続いたまま、前半を終えた。フランスがポルトガルからゴールを奪う時は近いと予感させる展開だった。


思うに、乱入した男、ポルトガル人の男性にとってロナウドはヒーローだったのだろう。


男性の趣味はポルトガルサッカー界に目覚める新しい才能の発掘で、特にユースから生まれる次世代のスターを見つけることが何より楽しみだった。彼自身はとっくにサッカーをやめてしまっていたのだが。そうしてある日見つけたまだあどけない少年。彼こそがクリスティアーノロナウドだった。華麗な足捌きや快速ぶり、力のあるキックに得点への嗅覚。それらは今まで見たどんな選手より頭抜けていて、ポルトガルのサッカー史上、いや世界的にも稀に見る逸材だ、男性は思った。


1人の熱烈なファンが生まれたことも知らず、ロナウドは楽しげにプレーを続けていた。それから男性は暇さえあればロナウドを見に通い、あれよあれよと言う内に彼はポルトガルからイングランドに渡り、名将ファーガソンの下でその才能を一気に開花させていく。若き成功者に昔から目をつけていたことを小さな誇りにしつつ、男性は自らの仕事に打ち込み、それなりの地位やお金を賜った。ロナウドに比べたらちっぽけなものでも、毎週の試合を見にバーに通うくらいのお金はあるのだった。


その後ロナウドはスペインに新天地を求め、旅立つ。同じイベリア半島に帰ってきてくれたことが嬉しくて、毎試合とは言わずとも重要な試合は当然観戦に行った。国内で行われる代表戦も勿論、たまにはピレネー山脈を越えて他の国にも出かけて行った。もうこれ以上の出世の見込みはないのだけれど、彼の給料はそれをするくらいには十分だった。


スペインで活躍を深めるロナウドに彼は大満足であった。なにせロナウド個人のファンであるから活躍の場所はどこでも良かった。チャンピオンズリーグ制覇の瞬間も見たけれど、2年連続でバロンドール(世界年間最優秀選手賞)を獲得した瞬間の方が嬉しかった。それでもやはり、ロナウドに代表で活躍してもらいたいという気持ちは確かに存在した。ロナウドは代表においては国民からの重圧に耐えかね、思うようなプレーが出来ないこともしばしばであったのだ。思えば彼がロナウドに魅了されてから10年以上が経過していた。


ユーロ2016、ポルトガルは決勝進出チームの本命では無かった。それでも31歳となり円熟したロナウドが出られるユーロはこれで最後かもしれない。男性は一縷の望みを賭け、決勝のチケットの抽選に申し込んだ。


グループリーグでは苦しんだポルトガルも、決勝トーナメントでは調子を上げていった。ロナウドもエース、キャプテンとしてふさわしい活躍をした。決勝のチケットに当選した幸運な男性は、ロナウドの決勝点で準決勝に勝利した時、叫んだ。「神よ、ロナウドと同じ時代に生きられることを感謝します」と。


待ちに待った決勝、舞台はフランスのサンドニ。男性は20着以上あるロナウドのレプリカユニフォームの中から、最新のユニフォームを選んで旅行鞄に詰め、ポルトガルを発った。もはや仕事は手につかないので休んだ。奮発したチケット代はいつもの何倍もしたが、ロナウドがゴールを決め、12年越しの雪辱を果たし優勝杯を掲げる瞬間を間近で見られるなら惜しくはないと思った。


試合が始まる数時間前にアウェイのスタジアムに乗り込み、フランスサポーターに比して少ないポルトガルサポーターの歌う応援歌を共に歌った。その背中にはエースの背番号7が燦々と輝き、ウォーミングアップを始めたロナウドに熱い視線を送った。今日も活躍してくれる気がしていた。この予感が裏切られたことは無かった。だからこそ彼はロナウドのファンだったのだ。


試合開始直後、ロナウドは相手の厳しいチェックに合いなかなかボールに触れない。その中でもさすがの技術と体躯でボールを持つとすぐに相手のブーイングを受けたが、人気選手にお決まりのそれは男性の誇りでもあった。もっとロナウドを見てくれ、烏滸がましいと思いながらも男性はそんな風に思い戦況を見つめていた。


しかしその時はやってきた。前半20分過ぎ、相手のチャージを受けたロナウドはなかなか立ち上がれない。ロナウドはもともと膝に傷を抱えており、遂には心配した敵味方審判が集まって彼のヒーローを取り囲み始めた。ポルトガルの選手が頭を抱えだした。ようやく解けた輪の間からロナウドを見た彼は直覚した。これで終わりだと。いつも頼もしいその体が小さく見えた。


そこから先はあまり覚えていない。ロナウドの居ないピッチがあまりにも広く見えたことだけは印象的だった。彼のヒーローは控室に引っ込んだきり出てこない。サッカーで一度交代した選手はその試合二度と出場できない。ロナウドのユーロは残酷な形で終わった。男性は放心状態となり、自らが購入した席に座りこんだ。いつの間にか前半が終わっていた。


彼の周囲にいたポルトガルサポーターも厳しさを漂わせ、ロナウドの交代を悔やんだ。後半いよいよフランスが波に乗って来たという時、彼の後ろに陣取っていた口の悪いサポーターがこんなことを言った。「負傷交代っていってもそんな大けがじゃないんだから表に出てくるのがキャプテンの筋ってもんじゃないかねぇ」


男性はカッとなって後ろを振り返ろうとしたが、同時に気付いた。いま一番つらいのはロナウド本人ではないか。ポルトガル代表としてあまりにも重い期待を背負いいくつものゴールをもぎ取ってきた、そして辿り着いた悲願の決勝でキャプテンマークを外して負傷交代。こんな残酷なことがあるだろうか。


その時唐突に彼の脳裏によみがえった15年前の記憶、リスボンで見た若き日のロナウドの姿はサッカーをする喜びに溢れ、それに応える彼自身の天賦の才が男性を魅了した時の記憶。伝えなければ、と男性は思う。控室にいるロナウドに、あなたのおかげだと言わずにはおれない。そう思うと彼は弾けるように立ち上がり、スタンド最前線に駆け寄り、一気にピッチサイドに躍り出た。元々サッカーをしていた彼の本能がピッチを横切るわけにはいかないと告げたので、回り込むようにして走り出した。と、その時異変に気付いた警備員が彼に向かって一斉に走り出し、彼の目の前に立ち塞がった。


1人を躱したが、2人目には服を掴まれた。3人目には肩を抑え込まれ、いくらかじたばたとしたものの両脇から抱え込まれ、彼の動きは完全に止まった。それでもロナウドの元へ、と叫ぶ彼を薄気味悪く見遣るサポーターを尻目に彼はスタジアムの外へ連れ出された。その頃にはいくらか気持ちが収まり、警備員が何やら無線で連絡する様子をぼんやりと見つめ、要求された身分証を従順に提示した。取り返しのつかないことをした、だとか、やってしまった、という気持ちは湧いてこなかった。ただ、届かなかった、と思った。彼は自分をずっと魅了し続けてくれた傷心のヒーローに一言声をかけることすら叶わなかったのだ。


警備員は彼がいつまた走り出すかと疑るような様子で彼をじっくり睨つけながらポルトガルへの帰還を命じた。処分はまた後日下ると告げ、彼がスタジアムに背を向け、完全に姿を消すまでじっと見つめていた。振り返っても彼の眼からはスタジアムが見えなくなるころ、スタジアムからひときわ大きな歓声が上がった。それはロナウドの抜けた穴を埋めるために投入されたエデルが待望の先制点を挙げた瞬間だった。ロナウドもいつしかベンチに戻り、味方に檄を飛ばしていた。男性はポルトガルに戻る電車の中でポルトガルの勝利を知った。見届けられなかったことに不思議と後悔はなかった。


翌日の朝刊にはベンチサイドで見方を鼓舞するロナウドの姿と、決勝点を挙げたエデルの姿が認められた。喜びのコメントを読むと幾分ほっこりとした。昨日この場にいたことが嘘のように思えた。処分の通知はあと数時間後に来るだろう。

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