粗製濫造のおめでとう

言葉に罪はない。あるとすれば使う人間に罪があるのであって、故に嫌いな言葉、という言い方はあまり嵌まらない。ともすれば失礼ですらあると思うのだが、こうした言い方をせざるを得ないことに自らの語彙の少なさを感じてしまう。私の罪、無知による罪だということにして後々自らに罰を与えるのでここでは嫌いな言葉、という言い方を採用させていただきたい。


嫌いな言葉がある。おめでとうとがんばれである。


これを言うとまるで私が人非人であるかのような誹りを受けることが多々あるのであまり言わないようにしていたのだが、一度書き出すことで自分の考えを整理できることがあるため書いてみようと思うのである。


いきなりだが定型文というのは害悪であると思う。例えばたまに手紙でも書こうと思い、拝啓、と置いてみたもののその後何とかけばよいか分からない。仕方がないのでインターネットで「時候の挨拶 手紙 初夏」という検索をかけてみる。するとなるほど、梅雨が明けたことを書けばいいのか、とか暑くなってきて相手の体が心配だと言えばよいのか、とか学びを得るのでそれをなぞる様に挨拶を書く。


別にそんなことを言わずとも「こんばんは。今これを書いているとき26時20分です。あ、今21分に。そちらは何時でしょう」と始めたっていいのである。人の文章を借りて改編したところで自分の気持ちは乗らないのであって、やたら凝った時候の挨拶を借りて書くくらいなら筆者の目の前に過ぎる時刻や天気を刻々と書いてくれた方が臨場感があってよろしいと思う。


そうは言いつつ私も近頃まではそんな次第で手紙やメールの頭に美辞麗句を書き立てていた。向こうが健康であることを分かりつつ(なにせ前日に会ったり連絡したりしていたりする)健康を気遣ったり、さして興味もない季節の花に感嘆して見せたりと思い返すだけで恥ずかしい。形式などどうでも良く伝えたいことを伝えようという努力が大切なのである。


私が声を大にして言いたい、しかし人非人認定されてしまいがちなので小声でこっそり言いたいのは、挨拶も定型文であるということである。私が「おはようございます」と「早い」に関係性があること、「おめでとうございます」と「めでたい」が姻戚関係どころかほぼ同一人物であることに気付いたのはだいぶ遅かったように思う。


それは関西弁を話す祖母が電話口の相手、恐らくはセールスに向かって「朝早うからご苦労様です」と話したときだったと思う。非常に京都人らしい嫌味を感じるセリフではあるがそこは本筋ではないので割愛。朝はよう、と聞いたときに私の中で「おはよう」と「早い」が突然合体した。それまで脳内にある別の箪笥にしまっていたものが急に飛び出して磁石のように離れなくなってしまったのである。


そうして私は直ぐに「こんにちは」が「今日は」であること、「こんばんは」が「今晩は」であることを理解した。なぜ「こんにちわ」でないかということも同時に了解した。「おめでとう」は少し難しかったが「めでたい」と結ばれるのにさほど時間は要らなかった。そうして私は子供らしい明快さで次の朝から「おそよう」と言うようになった。新しく覚えた言葉はまず対義語を考える、賢しい子供だったという証明になりはしないだろうか。


しかし同時に「こんにちは」と「こんばんは」が苦手になってしまった。なぜなら「今日は~」の「~」にあたる部分が省略されていることに気付いてしまったからである。「人から聞いたんだけど…やっぱりいいや」と言われたら誰だって気になる。同じように省略が非常に気持ち悪く感ぜられた。しかし少年は次第にこの世界の理に慣れ、いつしか実は「今日は」であるという事実も忘れてしまったかのように「ちわっす」と言うようになってしまった。


今考えるとこの「ちわっす」、「は」が「わ」に代わっている。私は老若男女問わず助詞の「は」を「わ」にする輩が大の嫌いで比喩ではなく虫酸が走るのだが、つい便利故にこのような言葉遣いをしていたことを非常に後悔している。


ついつい本題から逸れてしまった。以上から分かるように定型文化すると人はその言葉の表示している本来の意味を忘れ、思考停止したまま使ってしまうものなのである。挨拶とはそういうものだと言われてしまえばそれまでなのだが「朝早くからご苦労様です」と考えながら「おはよう」と言う人は日本にどれだけいるのか。


ここで一つ疑問が生まれた。イギリス人やアメリカ人も”いい朝だな”と思いながら”Good morning”と言っているのだろうか。身近に聞ける人がいないので是非どなたか聞いて結果を教えてほしい。


さて、これら挨拶に比べて「おめでとう」は一度わかってしまえば原型を確認しやすい形をしていると思う。本来めでたい!となれば拍手喝采は当たり前、歩行者天国に神輿を出して「おめでとう」の対象を載せて練り歩くほどの気持ちであると思うのだが、今の「おめでとう」はめでたいの本来の意から遠く離れたところにいる気がする。とりあえず「おめでとう」を投げておこうというような印象、それが気持ち悪いのである。


この話をしているとどうしても誕生日の話をせざるを得なくなり、私は誰からも祝ってもらえなくなりそうで非常に恐ろしい。まず前提として「おめでとう」はうれしい。今までの議論はなんだったのかとお思いだろうが結論としてうれしいことは言わせてほしい。そしてできれば誕生日を祝ってほしい。


思い切っていうが―、私は傍から見ているとき、とくにSNSなどで交わされる大量の「誕生日おめでとう」「ありがとう」のやり取りが気に食わないのである。嫉妬ではない。不足なのである。めでたさが欠乏しているのである。


私が他人の誕生日祝う時、必ずおめでとうにいくつかコメントを添える。多くは個人的な思い出である。またどこそこへ行ってなにをしよう、だとか他愛もないことだが、それだけあなたの誕生日にあなたのことを考えたぞというメッセージである。これがめでたい、の表れなのであり、もしもこれが書けないのであればおめでとうは言わないことにしている。押し付け染みた価値観であることは承知してはいるが。


誕生日おめでとうに対して多くは「ありがとう」が返っていく。これもまたおかしい。元来「有難い」つまり「めったにないことだ」という意味なのに皆のSNSにはあまりにもたくさんの濫造された「おめでとう」が届いているし、それは事実まったく「有難く」ない。


こんなふうに考えていたのだが受け取る側に立ってみると「おめでとう」だけでも十分嬉しいと気付いてしまい論は揺れに揺れている。もはや崩壊したと言ってもよい。恐らくは誕生日を覚えていてくれたという事実が重要に違いない。そこではもう「おめでとう」の対象に対する情愛があふれているため言葉は何でもよいということになるのだと考えている。故にFacebookが採用している誕生日を知らせてくれる機能はイマイチだと思う。


論は崩壊してしまったが、未だに上述の違和感、気持ち悪さは残っている。おめでとうの一文だけに未だ抵抗がある。ただ、嫌いではないということは分かった。冒頭の言葉は言い換えよう。「おめでとうが苦手」だと。


がんばれ、に関してはまた少し毛色が違うので別に書いてみたいと思う。

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