夜行バスには人生がいっぱい その2

花束を持ってバスに乗りこむ男性がいた。


私が3列シートのバス、正面向かって左側の席に座っていると、通路を挟んで隣にあたる中央の席に彼は腰掛けた。通常夜行バスに乗るという時、人は楽な格好をするものである。Tシャツやパーカーにスウェット、履物はサンダルやスリッポンが主流だろう。ところがその人は違った。ストライプのシャツに深い紺色のジャケットを羽織って、テーパードの効いたベージュのチノパンを履いており、足元はキャップトゥの革靴であった。


その風貌だけでも浮いていると思うのだが、更に腕には花束。完全なる主人公である。私はその境遇にいろいろ思いを馳せた。


まず整髪料をしていないことから帰りではなく、行きだと推察した。長めの髪をぞんざいに中央で分け、垂らしていたが癖がついているため普段は後ろに流しているのだとあたりを付けての結論である。また持ち込みの荷物がなく、持ち物は携帯と花束のみのようであった。残念ながら車両下のトランクに預けた荷物の有無までは分からなかったが、備え付けのスリッパや(夜行バスにはトイレに移動したり靴を脱いで履き替えるための簡易スリッパがついていることが多い)毛布を使わなかったり、席を倒すレバーの操作に手間取っていたりと夜行バスに慣れていない印象も受けた。


左腕に付けた時計は恐らく高価なものであろうと思われ、夜行バスに乗るほど(という言い方は他の乗客に失礼だが)お金がないようにも見えない。東京行きのそのバスは朝の6時頃到着予定で、新幹線の始発に乗れば8時半には東京に着くのでその2時間半を惜しむ余程切羽詰った用事があるのだろうと考えた。


しかし花束と言うのが解せない。私は花束のことをそれほど知っているわけではないが、かつて自分が人に送ったものは3000円程度のもので、それでもそれなりに立派だった。しかし彼の手にあるのはそれ以上に大きく、華やかなものだった。そしてメッセージカードのようなものが中に差し込んである。宛名にはよく分からない外国語が記されていて、私の思い描いていた「東京に住む彼女へのサプライズプロポーズ」という線はなくなってしまった。


夜行バスと言うのは元より静かなものであって、殆どが個人客なのだから人の声と言えば乗務員さんの声くらいのものである。その中に交際などは無く、旅の道連れを差し挟むような余地はない。しかし私はどうしてもこの人の事情を訊いてみたかった。この人がなぜ花束を持ってこのバスに乗り込んできたのかを知りたくてムズムズした。しかしすぐに消灯の時間がやってきてその機会は潰えてしまった。鼻をひくりとさせると花束のいい香り、と言うより花屋の匂いがした。花束と言うのは作った花屋のミニチュアなのかもしれないなと思った。


うつらうつら、という感じで最初のサービスエリアまで揺られ、バスが停車したことに気付いて目を開けるとその男性は花束をそっと席に横たえ、立ちあがるところであった。この機を逃せばこの謎を解く機会は与えられないと考えると寝てもいられなくなり、私も後をついて便所に向かった。


普段なら知らない人に話しかけることなどないのだが、前章にも述べた夜のサービスエリアの魅力が私を後押しし、男性もちらちらと見遣る私に気付いていたようで、突然話しかけた私に「迷惑かなと心配してたんだよね」と笑う余裕まで見せて語ってくれた。要約すると以下のようになる。


自分の昔の仲間が東京で喫茶店をオープンした。と言っても1週間前のこと。皆で何かしようと思ってはいたが、それならその店で小さく同窓会をするがよかろうということになり、サプライズで明日の朝9時から皆で集まることになっている。自分は向こうの仲間に花束を用意してもらおうかと思ったのだが、花束に贈り物を仕込みたかったから自前で用意した。前泊するつもりが、仕事が長引きそうだったので急遽夜行バスを予約して花束は会社まで届けてもらって今に至る。


ということであり、余りの素敵エピソードぶりに私は困惑した。なにかドラマのモブキャラになった気分であった。君は学生?僕は学生のうちにバスに乗ることがなかったんだけど、これきっついね。全然寝られないやという男性に、慣れですよ。次はスウェットで乗るといいですと言うと、次があるかなと笑っていた。男性は結局眠れなかったようで、多少疲れた顔をしていたものの新宿のバスターミナルに到着すると、仲間との待ち合わせ場所に向かうと言って颯爽と去って行った。


この話は夜行バスに乗るたびに思い出す。仕事が早く終わっていたら男性は新幹線で向かったのだろうし、私の人生と交わることは恐らく無かったのだろう。たとえ新幹線で乗り合わせてもお話しする機会には発展しなかっただろう。これきり私は夜行バスの中で喋ったことがない。特別なエピソードである。



泣きながら乗り込む女性がいた。


これは非常に状況が分かりやすかった。なにせ彼女の隣の席は空席だったから。偶然だったかもと思わなくはないが、夜行バスに1人で乗るタイプにも見えず、手には土産を提げていたため恐らく恋人と直前で喧嘩したに違いないと思った。相手はどこかに泊まって翌日帰ることにしたのだろうか。なにせ泣きながらなので、相当直近の事件であるか相当に引き摺る喧嘩だったか、どちらかなのは明白である。


車内の注意事項を話す乗務員さんの声もどこか気遣わしげで、車内からはどうにも沈痛な空気が拭いきれない。なにせ落ち着いてからもしゃくり上げる声などが良く響くのである。


消灯後の空気は人に色々なことを思わせる。例えば旅行客は着いてからどこにいこうだとか、帰ったら何しようとか。就活生は面接をシミュレートし、サラリーマンは先の仕事のことを考える。ラジオを聞いてくつろぐ人もいれば、吐き気を催している人もいるだろう。なにか詩のようなものを考えている人もいれば、卑猥千万なことを考えている人もいるかもしれない。


先の女性は座席に腰かけて何を考えていたのだろう。隣にあるはずの体温はなく、寄りかかることが出来るのはごわついた遮光カーテンのみだ。その差はあまりにも大きく、彼女はその車内で明らかにヒロインであった。彼女はもう夜行バスに乗ることは無いだろうなと思いつつ、私は目を閉じた。


結局夜行バスの魅力と言うのはなんなのだろうか。それは暗闇と息遣いの作用に他ならないと思う。携帯の明かりすら許されない車内で、知らない数十の息遣いとタイヤの音だけが聞こえる。彼らは全員何か目的がある人々である。暗闇の中で前方にいる人の妄念が見えたなら。そうすれば暗闇でやたらと退屈を弄ぶこともないだろうに、私たちは決して同乗者の人生を知ることがない。それは電車で知らない街を通過するときに感じる、「この街にも何万と人がいるのに知り合うこともなく生きるんだな」という感傷に似ている。違うとすれば夜行バスの同乗者は声が届く距離に居る、ということだけだ。夜行バスは今日も人生を載せて走っている。

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