夜行バスには人生がいっぱい その1

夜行バスに乗ると、他人の人生というものを非常に身近に感じることがある。電車や飛行機、更には昼間に走るバスなどでもこの感覚は味わえない。夜行バスは独特の魅力を載せている。


夜行バスに乗ったことがない人のために説明すると、夜行バスというのは夜に出発してパーキングエリアやサービスエリアで幾度か休憩を挟みつつ、明け方頃に目的地に到着するという交通手段であり、大抵は横に4席か3席の座席が並ぶ構造になっている。前者を4列シートと呼ぶのだがこれは一般のバスを想起してもらえば分かりよく、(一人で申し込む限りは)知らない人と目的地まで尻を共にすることになる。3列シートの場合は各個の座席が独立しており、それぞれ通路を挟んで窓際の席、中央の席、窓際の席、というように分かれている。勿論価格はこちらの方が少々高くなっている。


こんなことを言いだしておいてじゃあ私が夜行バスを愛好しているのかと言えば決してそうではない。お金と時間(夜行バスの方が大抵、始発の新幹線より早く着くのだ)が許すならば新幹線や飛行機を使いたいのだが、なにせ安い。東京、関西の間を2000円程度で行くこともできる。私はいろんな事情があり3列を選ぶのだが、それでも5~6000円程度である。


夜行バスには色々な人が乗っている。テーマパーク帰りと思しき、土産袋を提げた人。テーマパークに行くであろう男女。スーツらしき荷物を預けるサラリーマン風の男。小汚い風体をしている中年男。こうして考えると乗客はやはり男が多く、女性は若い複数人の旅行客が多いように見受けられる。


私が初めて夜行バスに乗ったのは18歳の頃だった。東京へ遊びに行こうと思い立ち、安さに釣られ四列席を予約してバスターミナルに向かった。早くから並んでいたのでいの一番にバスに乗り込んだ私は、イスを倒すレバーを探してキョロキョロと席周りを探っていた。そういえば窓際席を当てがわれた、ラッキー。と思っていた矢先、隣にどっかりと座りこんできたのは100キロを優に超えるであろう巨漢の男だった。


どっかり、と書いたが重さ故にそう表現せざるを得なかっただけで実際は小声ですいませんと言いながらの着席であった。席は普通のバスと同じほどの大きさで、肉がこちらへはみ出してきていたので私は少し窓の方へにじり寄った。男はまたすいませんと言った。夜行バス初心者だった私は、中で寝るのだからとシャワーを浴びていったのだが、後から聞いたところによると現地についてからシャワーを浴びるという層もいるらしい。夜行バスは寝苦しく、汗をかくこともあるので理にかなっていると言えなくもない(私は信じられないが)。


隣の男もそちらの流派であったに違いない。常に、というわけではないが特に頭を動かすたびに臭気が立ち、私は眩暈がした。友人のマスクを持って行けという助言はこのためだったのかと後悔を深め、走り出したバスの前方に備え付けられた時計が遅々として時を刻まないのを見ては絶望した。隣の男はまたすいませんと言いながらおにぎりを食べ始めたので私は顔を背け、窓の方を見遣ったが夜行バスは車内を暗くするためにカーテンを閉め切ってある。持ってきた音楽プレーヤーでラジオを聴きながら眠ろうと努めた。


夜行バスは大抵高速道路を走るため、速度の緩急、地面の凹凸に悩まされることは少ない。が、何事にも例外はあるもので夜行バスの場合それはタイヤの上に当る席である。ここは大変揺れる席で、アトランダムならともかく座席指定が出来るなら通は避ける席のようである。私は運悪くそこを引き当てていた。臭気と揺れに中てられながら、私は早くも疲れ切っていた。


そうして午前1時半頃、一睡も出来ぬまま最初のサービスエリアで休憩と相成り私は少しでも綺麗な空気を吸うべく外へ出た。再集合時間の描かれた白板をチェックしバスを降りると、昼間とは違う顔のサービスエリアに行き会う。自販機のみが煌々と光を放ち、それ以外は誘導灯、室内灯などが漏れ出ているのみである。しかしトラックやバスが頻繁に出入りするため、夜の街のように「眠っている」という印象もなく敢えて言うならなにか「暗躍」という言葉を当てはめたいような、それも違っているような、あやふやな存在感が確かにあった。これは夜行バスの醍醐味かもしれないなと思った。


バスに戻ると隣席の男はおらず、好機とばかりに目を閉じて私は眠り、そのままうまく東京まで寝果せた。すいませんと繰り返す隣の男は別に悪い人ではないのに、少しばかり苛々としていた自分を今では恥じるばかりだが、バスに乗った当時は眠気も相まって怒ってしまったのであった。


これ以来私は隣人トラブルを起こさぬよう、3列シートに好んで乗るようにしたのである。


しかし、隣人トラブルは避けられても上下関係はまだ付き纏う。正確には前後なのだが。私が3列シートの真ん中、つまり両脇に通路を抱える席に陣取った際、前に座った男は襟足を触角のように伸ばしたヤンキー風の髪型をした男だった。男は席に腰掛けるや否や全力で席をグイッと倒した。これでもかという倒し方だった。夜行バスの席と言うのは結構深くまで倒れるようになっていてその角度大体135度くらいである(おそらく)。私は微妙な傾斜よりは普通の席の形になっている方がよく眠れるので、あまり倒さないことにしているのだが前の男は違った。倒れきったのちも、まだ倒れるだろうと疑ってかかるような執念深い倒し方だった。


当時はもう夜行バスに乗るのも10回は優に超えており、経験上前の人は倒しても110度くらいのものであった私に前の男は全力で傾斜してきた。未だ嘗てそんなことを経験したことがなかった私はつい頭に血が上りつい、プラネタリウムかよ、と零してしまった。その瞬間前の男はぐいん、と振り向いて「は?」と言った。私は御多分に漏れず音楽を聴いていたので正確には分からないのだが口の形は「は?」といっていた。「あ?」だったかもしれない。


勇ましいことを言ってもヤンキーは怖い。私は返事もせず虚空を見た。前の男は肘掛を一度殴り、向き直って携帯をいじり始めた。私に勇気があればもう少し傾きを緩くしてくれと言えたものを。哀れなるは私の膝である。


前の座席スレスレに座する膝は窮屈そうにし、前の席を蹴らせてくれと申し出ていた。そんなことをすれば今度こそ喧嘩になる。私は申し出を却下し、前の男が寝違えるように祈ることを代案として提示した。その日もよく眠れず、あわやエコノミークラス症候群というところで私は踏みとどまった。休憩中に何度も屈伸運動、アキレス腱伸ばしをした。待ち遠しい未明、ヤンキー風の男は私より先に降りていき、座席は135度を保ったままだった。私は嫌みたらしく男が席を立つや否やすぐに前のレバーを引いて元に戻した。男は見ていなかったようだが、見られたかったのかは判然としない。私は解放された膝を労わり、足を組んで明るくなる車内を見ていた。


こうした次第で夜行バスにはいい思い出ばかりではない。しかしいい意味で心に残る瞬間もある。そういったエピソードが私は好きで、友人から聞いたりもする。次はそういったことを語るとしよう。

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