第三章 参

 紅蓮は鈍い動作で、無造作に置いてあった木箱の上に座った。それからやはり鈍い動作で外套の内側から封筒を取り出し、栓を切る。

 これは紫陽が夕方に渡してきたものだ。なんとも、天泣が紅蓮当てに書いたものだとか。「紅蓮、これ隊長から預かってきたの。天泣からだそうよ。外で読みなさい。いつもより早く出てかまわないから。――隊長も自分で渡せばいいのにね」と紫陽は言っていた。ぼんやりと頷いたのを覚えている。

 中身は手紙だった。文章はたった一文。『人とかかわるのを、おそれないで』。あまりにも拙い字だった。

(恐れないで、だと?)

 それは未来の出来事を予知していて、それを食い止めるような印象を受けた。

(俺が怖がっているみたいじゃないか)

 実際怖がっているのだろう。昨日は雫にあんなことを言った。人を失うのが辛いと思った。だから近づきたくないと思った。きっとこれが怖がっていることになるのだろう。天泣はそれを止めようとしているのだろうか。

 ここまで考えてはっとした。

(まさか天泣、自分が死ぬことを知って――?)

 だったらどうして。だったらどうして、言ってくれなかったんだ。どうしてあのとき「さよなら」しか言わなかったんだ。それではこっちが辛いだけじゃないか。何もできないじゃないか。そんなの、勝手すぎる。

 くしゃり、と紙が潰れる。文字がかすんだ。

(でも、もう遅い)

 天泣は死んでしまった。これだけはどうにもならない。もう雫には会えないだろう。追い払ってしまったから。いや、会おうと思えば会える。でも、その時何て言えばいい? 「すまない」で済むのか? きっとぶつけた言葉が作った傷は大きい。簡単に消えるほどのものではないだろう。もしかしたら、もう会いたくないと思っているかもしれない。こう考えると体が震えた。

(嫌だ。一人は)

 いつから自分はこんなにも寂しがりやになったのだろうか。短い間だったけれど、三人で笑った時のことが忘れられない。あのときに戻りたいと思う。自分は呆れたりしていたけれど、実は面白がっていて、ずっとこのままがいいと密かに思っていたのではないか。

 でも、もう、戻れない。この現実は深々と胸に刺さった。

(せめて)

 せめて雫の笑った顔が見られたら、と思う。雫が笑っているのを見ると、何だかほっとするのだ。天泣は戻ってこないけれど、雫は戻ってくるかもしれない。……いや、それはないか。戻ってくることもなければ、笑ってくれることもないだろう。そうだ、俺は一人になった。もう誰かと笑いあうことも無いだろう。そう考えていくたび、たった数日前の事が懐かしく感じる。誰かに笑いかけてもらいたい。雫に笑いかけてもらいたい。

「優くん」

 そう呼んでくれる優しい声が聞きたくて。

 紅蓮はそっと目をつぶった。今ここで聞こえたら、それはきっと夢。

「優くん!」

 はっとして顔を上げた。夢? 違う。夢じゃない。想像よりもずっと焦っていて、息も切れ切れになっていたけれど、夢じゃない。

 思わず立ち上がって、「雫?」と呟いた。

「いた!」

 雫だ。いつもの服装の上から、真っ黒いぶかぶかの外套を羽織っていて、肩で息をしている。そして何か封筒を持っていた。

「お前、どうして」

 俺はあんなにひどいことを言ったのに。

「……これ」

 雫は質問には答えなかった。代わりに息が整うのも待たずに、封筒を渡してきた。

「何だ、これは」

 封筒の表を見る。そこには『紅蓮』と書いてあった。瞬間、どっと心臓が跳ね上がる。慌てて中身を取り出してみると、それは紙の束だった。表紙には作之助と上の人間の印が押してある。これはまさか。

「お前、まさか基地に忍び込んだっていうのか!?」

 雫は頷いた。

 一瞬目の前が眩んだ。まさか、そんなことするなんて。見つかったらどうなるのか分かっているのか、こいつは。

「どうしても、みて、ほしくて」

「な……」

「かこ、の、とこ」

 はっとした。思い当たる節があった。

「俺が、幼なじみなんて嘘、と言ったからか?」

 頷かれた。

「これだけは、譲れなかったから」

(ばか! 俺よりもお前のほうがよっぽどばかだ!)

 もう頭を抱えてしまいたい。雫まで失いたくない。それは本当に怖い。

「お願い、見て」

 大分普通の呼吸に戻っていた。

 紅蓮は震える指で表紙をめくった。生前の欄が目に入る。そこに書いてあったことに目を通す。

「っ……!?」

 読み終わった瞬間、頭に激痛が走った。思わずひっくり返る。木箱に背をぶつけたが、頭痛と比べたら大したことはない。雫が駆け寄ってきた。どうしたのか、大丈夫か、と聞かれている気がしたが、目も眩むし何だかよく分からない。ぎゅっと目をつぶると、映像が頭に流れ込んできた。それは、さっき文章で読んだものだ。それが映像となって、それも視点は自分で巡って流れていく。

(これは、記憶……?)

 それは、武器商人の屋敷に忍び込んだところから始まっていて、自分が気を失うところで止まっていた。

(そうだ、そこで俺は、雫を助けようとして……)

 映像が止まると同時に、ふっと激痛が和らいだ。

「優くん、大丈夫?」

 側には心配そうな雫の顔があった。頭を押さえながら答える。

「大丈夫だ。――思い出した」

「え?」

「過去を、少しだけ。昔、お前を助けにいったところを」

 雫の表情がやわらかくなった。それから「よかった」と呟いた。

「すまない。昨日は」

「いいの。私もあなたの気持ち、ちゃんと考えてなかった」

「そんなことは」

「いいんだって。それに、私、また来ちゃったし」

 雫は微笑んだ。それは、ずっと見たかった表情で。

「雫」

 なあに、とでもいうように、首を傾げられた。

「マフラー、持っていてくれたんだな」

「うん。大事だから、ずっと持ってた。大分ぼろぼろになっちゃったけど。――優くん」

「何だ」

 今度は寂しそうな顔だ。何だか嫌な予感が胸を横切る。

「私を軍に連れて行ってもいいよ」

 驚いた。そのせいで、言葉が出なかった。ただ、ぱくぱくと口だけが動いた。

「私ね、ちょっとしくじって、軍の人に見つかったみたい。多分もうすぐこっちにいるって気がつかれると思うんだ。だから、連れて行かれるんだったら、優くんがいいかなって」

 思わず、雫の両肩を掴んでいた。やはり、言葉がでてこない。何て言えばいいのか分からない。言いたいことはたくさんある。でもそれらがぐちゃぐちゃに絡まって、何がどの言葉なのか、分からなくなっていた。

 しばらくして、ようやくこれだけ言えた。

「雫、その外套貸せ」

「え? うん」

 立ち上がって自分も外套を脱ぎ、渡されたものを着る。大きさは丁度良かった。

「お前は着るなよ。卍部隊の刺繍がはいっているからな」

「う、うん……」

 外套についている帽子を被る。軍帽が邪魔になったので、取って無理矢理ベルトに挟み込んだ。それから大判のハンカチを取り出して口元を覆う。

「優くん、何してるの?」

 その質問には答えない。かわりに、静かにと指で合図する。

 その一瞬後、紅蓮は木箱を踏み台に飛び上がり、ある物陰の一点に飛び降りた。そして相手に峰打ちを喰らわせる。

「?」

 雫は何があったのか分かっていなかったらしい。ちょい、と手招きする。

「わ」

 倒れていたのは卍部隊兵だった。外套には『十』と刺繍されている。彼は刀を抜こうとした姿勢のまま倒れていた。

「卍部隊の十番隊だ。おそらく雫を狙ってのことだろう」

 案の定雫は呆然としていた。そりゃそうだろう。紅蓮が今行ったことは、反乱に間違いないのだから。

「ねえ、いいの?」

「いいんだ」

 紅蓮は十番隊の男のもとにしゃがみこみ、かちゃかちゃとベルトをいじって刀と銃を取り外した。それを雫に渡す。

「持っていろ。銃の使い方は分かるか?」

「分かんない」

「歩きながら教える」

 そう言い、歩き出す。雫はぱたぱたとついてきた。

「ねえ優くん。本当にいいの?」

「いいんだ」

 もう、誰も失いたくないから。失わないためには、守ればいい。それだけの力を、きっと自分は持っている。

 あのときと同じなのだ。昔雫を守ったあのときと。失いたくなかったから、助けて、守った。

 そう、失いたくないのは、大切だから。

 思い出したのだ。あのとき雫を助けたのは、雫が大切だったから。そして、その気持ちは今も変わらない。

 守るためになら、きっと力を使える。

 怖くない。天泣、ありがとう。大事な言葉を届けてくれて、ありがとう。

「雫、俺にも大切なものがあるんだ。そのためになら、無理くらいする。安心しろ」

 ぽん、と雫の頭に手を置いてみる。雫の瞳に、涙があふれた。

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