第一章 四
雫と分かれた後、紅蓮と天泣は部隊の基地に戻っていた。まず見回りの結果を報告する。報告先は壱番隊隊長だ。機械的なやりとりを終え、食事を取る。食事は相変わらず簡素で、米と汁と適当なおかずである。紅蓮はそれを黙々と食べた。
食べ終わり、立ち上がろうとした時である。
「紅蓮」
後ろから声をかけられた。反射的に振り向く。声の主は、
「よう、元気か?」
隊長の作之助だった。
濃い栗色の髪。同じく茶色の目には挑戦的な光がある。そのせいで、真面目という印象はなく、むしろ獅子のような印象がある。年は二十代半ば。背は紅蓮よりも高い。やはり黒い軍服を着ている。腕章の数字は『零』。隊長もしくは副隊長の印である。どういう訳か、頬に卍の傷は無い。
卍部隊において、頬に傷があるのは、普通の部隊兵のみだ。隊長、副隊長にはそれが存在しないのである。そのせいか、どこか別格じみたように感じる。
「元気です」
なぜわざわざ聞くのかは分からない。ただ、作之助はこのやりとりが好きなようで、よくこう聞いてくる。そしていつもの返答に満足そうに頷くのだった。
「そうか。ならいい。天泣は?」
「元気です」
「よし、何よりだ。飯は食い終わったんだな?」
「はい」「食べ終わりました」
「じゃあ、早く休め」
「「はい」」
作之助はそれだけ確認すると、立ち去ろうとした。その作之助に、声がかけられる。
「隊長」
女の声。少し高めだが、まとわりつかず、さらりとした声。
「紫陽か。どうした?」
その女は藤咲紫陽という。女でありながら副隊長の席に座る人だ。年は二十代前半。肩よりも長い黒髪はしっかりと手入れがされていて、茶色の瞳も大きくつぶらだ。色白で、顔の形も非常に整っていて、体型も良い。一言で外見を表すならば、妖艶な美しさを持つ女、といったところだろうか。声があまり艶っぽくないのが不思議なくらいである。
紫陽は刀よりも、銃を愛用する。本当かどうかは知らないが、敵の部隊一つを狙撃で壊滅させたという。また、暗殺においても一流だとか。
「今大量の弾丸と銃、刀が届きました。あと、防寒具も」
「良かった。まだ使者はいるか?」
「います。隊長直々に挨拶をしてきてください」
「分かってる」
作之助は返事をするなり駆けていった。「私は出かけますので」と紫陽が言ったが、聞こえただろうか。今日もずいぶんと多忙だな、と紅蓮は思った。
「紅蓮、天泣」
「何ですか」
紫陽が話しかけてきた。紫陽が紅蓮たちに話しかける時は、たいてい優しそうな笑みを浮かべてくるのだが、今は心配そうな表情だった。
「何か、変わったことでもあったの? そうね、特に紅蓮」
「……何のことでしょうか」
「ちょっとうまい言葉が見つからないんだけど……、そうね、雰囲気が違うわ。何て言うか、明るくなったかしら?」
紅蓮は内心首をかしげた。変わったことはある。もちろん雫だ。だが、その事は言わない。正確には、言えない。それに変化があったとして、そんなにも分かりやすいものなのだろうか。
「まあいいわ。気のせいよね」
紫陽は一人頷くと、「出かけてくるわ」と言って去っていった。
天泣が何か言いたげにこちらを見てきたが、無視した。天泣より先に部屋に戻る。それから簡単に風呂に入り、再び部屋に戻る。寝転がっても、いつもすぐに襲ってくる眠気は一向くる気配がない。
朝日が昇り、空が青くなり始めたころ、ようやく紅蓮は浅い眠りにつくことが出来た。
「こんにちは」
カラカラと戸の開く音で、雫は目が覚めた。
「いらっしゃいませ」
そう言ってから、目をこすり軽く周りを見る。目の前にはミシンと裁縫道具、縫いかけの服が置いてあった。
(そっか。ちょっと目をつぶるだけ、って思ったら寝ちゃったんだ。朝帰ってきてから寝たのに。あ、布汚れてないかな? 大丈夫かな?)
布が無事なことを確認すると、雫は客の姿を探した。
雫は一人で服屋を営んでいる。主に女物の洋服を取り扱っていて、大半は自分で一から作っている。大繁盛、というわけではないが、生活に困らない程度の収入はあり、安定していた。
作業場から出て、店の方に入る。
作業場の横にしきりをまたいで店がある。店には服が並べてかけてあり、客が自由に見られるようになっていた。
客は自分の姿を見ると、にっこり微笑んできた。
「あら、雫ちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは。眠そうね」
「はい。ちょっと寝不足で……」
「駄目よ、寝不足は。お肌に悪いわよ。若いんだから大切にしなくちゃ」
雫は内心苦笑した。
(あなただって若いよ。それにしても、美人だなあ)
整った顔立ちに、優しそうな笑み。見た目に反して、声が艶っぽくないのに驚くが、聞きやすくていい。常連の客だが、いつも見とれてしまう。
「雫ちゃん、黒いワンピース無いかしら」
「あ、はい。えっと……、これとこれです」
置いてあったワンピースを二つ見せると、客はう~んと頭を抱えた。どちらにするか悩んでいるらしい。
「どっちもいいわね~。なかなか決められないわ」
「どうぞごゆっくり」
雫は奥に置いてある椅子に座った。そこで次に何を作るか決めるべく雑誌をめくる。
(あ、これかわいい。うん、次はこれにしよう)
色と図案を書き留める。きっとこれはこの客のような人に合うのだろう。いや、この客はきっと何でも似合ってしまう。ちょっとうらやましいと思った。
(そろそろ自分用に何か作ってもいいよね……。作るなら、あのマフラーが似合うものがいいな)
そこまで考えて、ふと雑誌をめくる手が止まった。
(やっぱり優くん、あのマフラーのこと覚えてないのかな……)
再会した時の優太郎の姿が、ふと頭に浮かんだ。あの時の優太郎の、かつての優しい面影もない目が忘れられない。
卍部隊兵は、今までの記憶を全て忘れると聞いたことがある。本当かどうかは知らない。だが、それが本当でないと、優太郎が自分を忘れている説明ができない。ただ、優太郎が生きている説明にも、優太郎が卍部隊に属している理由にもなっていないが。
「決めた、こっちにするわ。……雫ちゃん? どうしたの、思い詰めた顔して」
「いえ、何でもないです」
雫は慌てて笑みを作った。ぎこちないことに、作ってから気がつく。
「そんなことないでしょ。悩み事なら聞くわ」
きっとこの客は優太郎のことを知らない。なら話してもいいかもしれない。この曇った空のように重くてつらい気持ちが、話したことで晴れるなら、話してしまいたい。
「私の大切な友達に、久々に会ったんです。でも、私のこと覚えて無くて……」
話せるのはきっとここまで。これ以上は卍部隊について触れてしまう。それは、避けなければならないはず。
「そうなの……。それは辛いわね」
「どうしたらいいんでしょうか」
言葉は勝手に口から出ていた。
最初は生きていて良かったと素直に思えた。でも、記憶がない、というのは辛い。自分のことを覚えていないし、会えた喜びも分かってくれない。それを実感してしまうから、胸がぎゅっと締め付けられる。生きてるだけでいい、っていうのは間違ってない。でも、それ以上を求めてしまう自分がいる。それが、嫌だ。欲張りな自分が嫌だ。
「そうね……」
客はほんの少しの間考え込んで言った。
「一緒に、ご飯食べたら?」
「ご、ごはん?」
思わず瞬きしてしまった。なぜご飯なのだろう?
「一緒に食事すると、仲良くなるって聞いたことあるわ。何もしないよりいいでしょ?」
客はそう言うと微笑んだ。
仲良くなれれば。仲良くなって思い出してもらえるわけではないだろう。それでも、一緒にいたいのは変わらない。だったら、一緒にいて、仲良くなって、それで前みたいにとはいかなくても、時を過ごしていけたらいいのではないか。思い出してもらいたい気持ちには我慢してもらわないといけないかもしれないが、やっぱり今一緒にいることの方が大切だ。
(一緒に、ご飯。いいかもしれない。優くん、何が好きだっけ?)
自分の顔が明るくなっていくことを自覚した。ぽかぽかと心が温まっていく。
「ありがとうございます! そうします!」
「いいのよ。じゃ、これ買うから」
「毎度ありがとうございます!」
客は雫の様子を見て微笑んだ。それから、店を出て行った。雫はその後ろ姿をしばらく見ていた。
(そうだ、優くんおにぎり好きだったな。それも鮭と昆布。よし、買いに行こう)
客――藤咲紫陽は店を出てからため息をもらした。
(うちの隊員だったりしないわよね、まさか)
隊員と一般人が会っていると、上の人間に知られたらどうなることか。想像しただけで鳥肌が立つ。卍部隊は国家機密なのだ。そんなものが普通の人間と会っていいわけがない。
自分と作之助以外の、卍部隊の隊員に記憶がないのは本当だ。それは偶然ではなく必然である。そして、失った記憶の大半は戻ってくることがない。ただ、よっぽど印象深かったものは脳の片隅に眠っていると聞く。無論、それも思い出すことはほとんど無いらしいが。
紫陽は広くない路地を歩く。何人か男が振り向いたが、気にせずに進む。
(可能性があるとしたら――)
真っ先に思い浮かんだのは紅蓮の顔だった。次に天泣。
紅蓮の様子がわずかに違うと感じたのは気のせいか、そうでないか。分からないが、可能性としては否定できない。報告によれば、雫が人質にされた時、駆けつけたのは紅蓮だった。その時に顔を合わせてしまったのかもしれない。いや、それにしては日数が短い。
(大切な友達って言ってたわ。なら、影響は大きいかも。でも、今更になって天泣の影響が強くなってきたって線も考えられなくはないわね……。ううん、こっちの方がよっぽど考えられないわ)
等々、いろいろ考えてみたが、結局答えは分からなかった。
長い髪を後ろに払う。風が吹いて、少し揺れた。
作之助に雫と紅蓮の事を言うべきか迷った。作之助は理解のある人だから、悪いようにはしないはずだ。きっと黙認するだろうし、余裕さえあれば陰から応援するだろう。冷徹な結果主義の人間を装ったりするくせに、世話焼きで、人が好きだから。隊員を人だと思っているから。
言ってしまいたい。でも、彼の近くには神崎がいる。絶対に神崎に知られてはいけない。神崎は常に作之助を見張っている。作之助のおせっかいと、勝手な行動を阻止するために。作之助に打ち明けるということは、神崎に知られる可能性が高いということ。それはあまりにも危険すぎる。神崎は全てを滅茶苦茶にしてしまいかねない。
(やめておくべきね。私の中にとどめておきましょう)
紫陽は、紅蓮が雫の友達であっても、そうでなくても、人らしくなって欲しいと思っている。紅蓮だけではない。全ての隊員にだ。上が許さないから行動になかなか移せないだけで。
(罪深いわね、私たち。本心と真逆なことやっているもの)
紫陽はほんの少しだけ顔を伏せた。それからすっと前を向く。
午後から仕事だ。その為の準備はさっき終えた。そろそろ基地へ戻らないと。
(せめて、紅蓮だけでも。――私の自己満足って、分かっているけどね)
紫陽は自嘲気味に笑った。それから真っ直ぐに基地の方を向いた。
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