第一章 弐
今日はいくらか風が強い。冷たい風が吹き付ける。十二月の深夜帯となると、薄着では外にいられない。もしそんなことすれば凍え死ぬだけである。外套の前をしっかり閉めても、寒さが和らぎはしなかった。
「寒いねえ」
「そうだな」
紅蓮は隣に立つ少年を見上げた。
年は紅蓮よりいくつか上。右頬には卍の傷がある。色素の薄い茶色の髪で、目もまた薄い茶色。たれ目でおっとりとした印象がある。左肩の腕章には『壱』。紅蓮と同じ仕様の軍服である。さらにその上に黒い外套。彼は今、耳をさすって温めていた。
彼は『天泣』。そう呼ばれている。天泣という言葉は『狐の嫁入り』を指すらしいが、詳しいことはよく知らない。
「そろそろ耳当て支給されてもいいんじゃないかな?」
「去年のはどうした?」
「汚れた。貸して」
「嫌だ」
「あ、やっぱり?」
(俺のも汚れているんだ。自分で身につけるならかまわないが、汚れを気にするやつには貸せない)
「まあ、しょうがないよね。歩き続けていれば、温かくなるかな?」
「だろうな」
「相変わらず愛想無いな、紅蓮は」
「お前が異常なだけだ」
「異常って、ひどいなあ」
天泣は笑った。紅蓮はそれを横目に見る。
二人は町の見回りに出ている。これも部隊の仕事の一環だった。普通兵には夜休ませたいとかいう、偉い人の命令だ。卍部隊は偉い人にとって、どうでもいいらしい。でなければ、こんな寒い夜に外に、こんな格好で放り出したりしないだろう。
「大体、お前くらいだぞ」
「何が?」
「何かあると笑ったり、こんなにも無駄なこと話すのは」
「そう?」
そうだ。紅蓮も含めて、普通の隊員は雑談等のおしゃべりはほとんどしない。常に冷たい目をして、黙々と任務にあたるのである。なのに、天泣だけは雑談を好み、微笑んだり、お腹を抱えて笑ったりする。人として普通な事だが、この部隊では異常だった。天泣が何か話しても、白い目で見られるか、誰も反応しないか、そういったことの方がよっぽど日常的だ。その度に天泣はつまらないと、紅蓮に文句を言う。紅蓮も反応しないことの方が多いが。
「別にいいと思うけどなあ。僕は」
「お前はな」
「何それ、ひどい」
「いいから、任務に集中しろ」
「大丈夫だよ。ちゃんと周り見てるから」
天泣はそう言って周りを見る仕草をした。
「そうか」
紅蓮は黙らせるのは無駄だと諦めた。
基本、見回りの時は紅蓮と天泣で組むのだが、毎回天泣はどうでもいい話ばかりしてくる。無視することも多々あるが、最近は適当に会話をしていた。何か話していた方が、体が冷えないからだ。何も話さない時は、体の芯まで冷えて、凍えそうになる。それは嫌だった。矛盾しているとは思うが、実際紅蓮はそうしている。
「あ、三日前の女の子――雫ちゃんだっけ――はさ、ここの通り二本向こうに行ったところに住んでるんでしょ?」
「だろうな」
「行かないの? 会いにさ」
「行かない」
呆れた。なぜ会いに行かなければならないのだ。
「行けばいいじゃん。知り合いかもしれないんでしょ?」
「俺は知らないと言って――」
「本当に?」
言葉を遮る。紅蓮がわずかに眉を寄せる。
「だってさ、僕たち」
ここで、一呼吸おいた。続きを言おうとして口を開く。
その時。
「あ、いた! 優く~ん!」
少女の声がした。思わず振り向く。
「ここにいたんだね」
少女は白い息を吐きながら駆け寄ってきた。雫だ。白いコートとマフラー、黒い手袋をしている。手には何か本と小さな手提げを持っていた。
「あれ、向こうから来ちゃったのかな?」
「黙れ」
天泣は脳天気に笑ってから、「温かそうだなあ」と呟いた。
「お前、なぜここにいる」
「何でって、優くんを捜しにだよ」
雫は何のよどみもなく答えた。
「俺は優くんなどではない」
「ううん。あなたは優くんだよ。私が言うんだから間違いないよ」
「意味が分からない」
「そのまんまだよ」
顔をしかめたくなった。本当に意味が分からない。天泣をチラリと見たが、ニヤニヤ笑っているばかりで、口をはさむ気は無さそうだ。
歩き始める。天泣だけでなく、雫までついてきた。正直に、なぜついてくるんだ、と思った。
「俺は紅蓮だ」
目は合わせない。合わせたら、じっとのぞき込まれる。それは何となく嫌だった。だから、前を向いて話だけ聞く。
「知ってるよ。この間言ってたもん。でも、私は優くんって呼ぶからね」
「……」
強引に押し進められてしまった気がする。三日前は二度と会うことも無いだろうと思っていたのに。
「あのね、都市伝説の本に偶然卍部隊の事が載ってたから、しらみつぶしにあたってみたの。そうしたら、二日目で会えたんだよ」
厚めの本を押しつけられた。その名前は『気になる! 都市伝説』。めくってみるとごちゃごちゃと色々な事が書いてあった。すぐに目が疲れたから、閉じる。記憶が正しければ、戦時中に不適切な内容だとかで絶版になっていたはずの本だ。確か政府の人間が無理矢理絶版にしたはずだ。恐らく卍部隊について書いてあったから、政府の人間が慌てたのだろう。その後回収もされたはずなのだが、まだ残っていたとは。
ますます呆れた。こんなに寒いのに。それも深夜なのに。何をやっているんだ。
「帰れ」
歩くペースを上げる。雫は早歩きでついてきた。
「どうして?」
「危険だ」
危険。本当の事だが、とっさに思いついたから言った、という方が正しい。鬱陶しい、とでも言っておけば良かったか。
天泣が横で吹き出したが、気がつかなかったことにする。
「どうしても?」
「ああ」
雫は少しの間黙った。
「じゃあ、帰る。でも、これだけ」
まだあるのか。でも、これで帰るならいいだろう。
「何だ」
「温かいお茶入れてきたんだけど、飲む?」
「……」
そんな事か。なんだか呆れた。
「今紙コップに入れるから。あ、あなたも飲みます? 別に要らなかったらいいんですけど……」
「僕にもくれるの? 欲しい欲しい。ちょうど寒かったんだ」
「あ、良かったです。はい、どうぞ」
「ありがとう」
水筒から注がれたお茶は、ほかほかと湯気を立てている。温かそうだった。
「優くんも」
要るだなんて、言ってない。そう言おうと思ったが止めた。代わりに黙って受け取った。
「おいしいよ。お茶入れるの上手だね」
「ありがとうございます」
雫は照れくさそうに笑った。それから少し下がって、「帰るね」と言った。
紅蓮は何も言わない。雫は少し寂しそうな表情をしたが、これ以上は何も言わず去っていった。
「紅蓮、飲まないの? おいしいよ? 温まるよ?」
「……毒でも入っていたらどうするんだ」
天泣は大げさな身振りで呆れてみせた。
「またまたあ。そんなわけないでしょ? あの様子が演技だったら、あの子、世界で活躍できる女優になれるよ」
確かに、あれが演技だとは考えにくい。だが、信じようとは思えない。
「天泣。お前は少しは疑え」
「じゃあ、紅蓮。少しは信じろ」
無視。答える代わりにお茶を飲み干す。
じんわりとした温かさが体に染み渡った。
「おいしいでしょ?」
「まあ。自分が作ったみたいに言うな」
「わー、厳しー」
「黙れ」
紙コップを握りつぶす。そして、見回りのために目を光らせた。
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