記憶ノ消失
椿叶
第一部
第一章 壱
大正百二十七年。この時代のことを説明するならば、日本がとてつもなく強大な国力をもっている時代、といったところだろうか。
日本は広大な植民地を持ち、帝国として世界に名を馳せていた。国民はそのことに胸を張り、生きている。戦火に怯える事もなく、食べ物にも、仕事にも困らず、のんびりと生きている。
しかし、平和すぎることに退屈する人もいる。そんな人は、やがて『面白いもの』を探し始める。例えば噂話も、その面白いものの一つだろう。
どの時代でも、人は噂が好きだ。この時代も例外ではない。根も葉もないものだろうが何だろうが構わない。ただ話したいのだろう。それはどこでもどの時代でも一緒らしい。噂は生まれ、やがては消えていく。この前の噂はもう誰もが忘れているのだ。
だが、一つだけ長い間語り継がれているものがある。
人は言う。
奴らは人の命も顧みない冷徹な奴らだ。
そんなことはない。人を助けているのを見たぞ。
一体何なのかしら、彼らは。
誰が知るか。そんなもの。
でも国の偉い人はいないって言ってるぜ?
じゃあいないんじゃねえの?
つまり結局は誰も分かっていないのである。
が、どの噂でも共通点があった。それは夜にしか現れないこと。黒い軍服を着ていること。一丁の拳銃と一振りの刀を持っていること。そして、頬に卍の傷があること。
彼らはこう呼ばれている。その名も。
『日本帝国軍卍部隊』
実際、それは実在した。ただの噂ではない。存在しているのだ。
この少年も、その部隊の一員だった。
少年は夜道を駆けていた。暗い道を迷うことなく駆ける。服装は例にもれず、黒い軍服に刀と拳銃。そのせいで物々しい雰囲気がある。顔は暗くてよく見えない。
満月はもうすでに傾いていた。雲に隠れながらも辺りを照らしている。凍えるほど寒いせいか、いくらか澄んで見えた。
少年の足音はかなり小さい。速く走っているのに、だ。それもそのはず。少年は意識的に足音を小さくしていたのだ。人を追っているのなら、大きな足音は立てない方が良い。だから少年は足元に注意を払っていた。それでも、視線は追っている男から外さない。
男はひょろっこくてもやしみたいだ。脇に書類が詰め込まれた鞄を抱えて、少年から逃げている。壊れかけた電灯のせいで視界が確保できず、つまずいたり、転びかけたり、何かにぶつかったりしていた。
狭い小道を通ったり、何度も曲がったりしているが、少年は男を見失わない。それに、少年の方がよっぽど速い。
あっという間に追いついた。
近くの木箱に飛び乗り、大きく跳びはねる。低い屋根に着地して、もう一度跳び跳ねる。そのまま、刀を抜きながら道に飛び降りる。
気がついた男が慌てて何歩も下がった。その瞬間に少年が着地する。そこは丁度男がさっきまで居た位置だ。飛び退かなければ、踏まれるか斬られていた。
「クソ!」
男が歯がみした。音もなく着地されたと思ったら、今度は白銀の刃を向けられているのだ。焦るのは当然だろう。少年はそう思い、男の様子をただじっと見ることにした。
男は自分が何をしたか理解しているはずだ。そしてその罪の重さも。軍の基地に侵入した上に、重要書類まで盗んできたのだ。軍や政府から何もされない方がおかしい。こうやって軍の、例えばこの少年のような人間から、追われる覚悟は出来ていたに違いない。だが、まだ捕まりたくはないらしい。せめてもの抵抗に、と辺りを見回している。目の前の処刑人から逃れる手段を探すために。
そして見つけてしまった。たった今電気の付いた店を。その中で大きく伸びをした少女の姿を。
男の行動は早かった。ドアを蹴破ると、驚く少女の首根っこを掴み、外に引きずり出した。そして再び細い路地に入る。
「いや! 離して……!」
男はポケットからナイフを取り出し、ピタリと少女の首筋に当てた。
「おい、お前! こいつの首がとぶところを見たいか!?」
「ひっ……」
少女は自分が人質にされたことに気がついたらしく、ぼろぼろと涙を流し始めた。顔が真っ青になったのが暗がりでも分かった。
「た、助けて……」
「喋るんじゃねえ!」
「!」
押し当てられるナイフに力がこもる。
痛くはないだろう。まだ触れているだけだから。でも、怖いことに変わりはなく、体が震えている。
少女がこちらを見てきた。怯えきったその目は助けを求めている。
それに対して、少年は動揺すらしていない。抜き身の刃はしっかりと握られている。
「こ、こいつがどうなってもいいのか?」
男が一歩づつ下がっていく。後ろはバチバチと点滅を繰り返す電灯だ。次第に男の周囲が明るくなっていく。
少年は一歩近づいた。さらにもう一歩。その歩調に、一切のよどみはない。
男が何で来るんだよと呟いた。その手は震えている。
少年は男が少女を殺す気が無いのを分かっていた。だから近づく。遠慮など無い。彼にとっては、少女がどうなろうと興味は無かった。だが、犠牲は少ない方がいいと隊長とアイツが言っていたから、一応安全には気を配る。その必要も無さそうだが。
軍帽を深く被っているせいで、男と少女からは表情はおろか顔もほとんど見えなかった。
月が雲に隠れた。電灯がバツンと音を立てて消える。真っ暗になる。何も見えなくなる。
瞬間、少年が踏み込んだ。男の方へ。
恐ろしく早く繰り出された峰打ちは、男の脇腹に命中した。
「ぐっ……!?」
衝撃で鞄は吹っ飛び、少女は地面に投げ捨てられた。そちらには目もくれず、倒れこんだ男の腹を勢い良く踏みつけた。
当然男は気絶した。少年はそれを確認すると、刀を納めた。それからわずかに軍帽を上に上げて、少女を見やる。
「怪我は無いか?」
「だ、大丈夫です……。ありがとうございます」
少女は体を起こし、こわごわと首筋に手を当てた。どこも切れていないと確認して安堵したのか、力が抜ける。地面にへたりこみ、「生きてる……」と呟いた。
その時、雲が晴れた。月が、少年を照らす。
年にして十七ほど。髪は黒い。右頬には卍の傷がある。黒い目は無表情にも、仏頂面にも見えた。軍服の左肩には、『壱』と書かれた腕章が縫いつけられている。
少女は時も忘れて少年を見つめていた。少年はしばらく黙っていたが、さすがに訝しく思う。「おい」と言うと、少女はハッとした。その時は他から駆けつけた隊員が、男を担いだところだった。いつの間にか鞄も回収されている。
「今日のことはくれぐれも内密に頼む」
少年はそれだけ言うと、踵を返した。
「待って!」
数歩歩いたところで、声をかけられた。後ろを振り向く。すると少女は期待と安心と喜びがない交ぜになったような表情でこう言った。
「優くんだよね!?」
(優くん、だと?)
少年がわずかに眉をよせる。他の隊員はすでに撤退していた。いるのは自分と目の前にいる少女だけだ。呼ばれるとすれば自分しかいない。
多少ふらつきながらも少女は立ち上がり、少年の頬に手を当てると顔を近づけた。
「私だよ! 雫だよ!」
少年はここでようやくまともに雫と名乗った少女を見た。雫の方が背が低いので、見下ろす形になる。
卵型の顔。 肌は白い。黒い瞳は大きくくりくりしていて、まだ幼さが残っている。年は自分より一つか二つは下だろう。服装は寝巻き。長くて黒い髪は乱れたままだ。
「優くん今までどこに行ってたの!? 本当に心配したんだからね!? でも良かった、生きてたんだね……。ここで何してるの? その傷は? 『卍』……。もしかして、『卍部隊』!?」
少年はもう一度まじまじと、質問攻めをする少女の顔を見た。喜んでいるのか、再び涙を流していて、頬は紅潮していた。大きな笑みも浮かんでいる。だがしかし。
「俺はお前の事は知らない」
「……え?」
少年は雫の手を引きはがした。
「今、何て?」
「俺はお前の事など知らない」
少年は雫の愕然とした顔を見た気がした。少年にとってはどうでもいいことだが。
「嘘、でしょ? 絶対あなたは優くんだよ」
「優くんなど知らない」
「冗談はやめてよ。優太郎くんでしょ?」
「違う」
「違わないよ。あなた、優くんだよ」
少年はなぜ雫が自分のことを『優くん』と言うのかが理解できなかった。なぜあれほど喜んだのかも。ただ一つ言えることは。
「俺は優くんなどではない。人違いだろう」
「そんなことないっ!」
腕をつかまれた。その手は震えている。目に涙をため、それを懸命にこらえながら、雫は言った。
「何で……? おかしいよ、こんなの」
「放せ」
振り払う。その時雫の表情が見えたが、無視した。
「じゃあ、あなたは誰なの……?」
歩き出そうとして、止まる。普段なら無視するところだが、今回ばかりは答えてやってもいい。これでもう、優くんなどと呼ばなくなるだろうと思ったからである。
「俺は『紅蓮』。そう呼ばれている」
踵を返す。軍帽を深くかぶる。
泣き崩れた音と声を背中で感じながら、少年――紅蓮は闇にとけ込んでいった。
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