第3話
次の日学校に着くと、荷物を置いて二つ隣のクラスに行った。まさやは窓辺の席で、淡い水色のハードカバーの本を読んでいた。まさやとは入学式のとき、体育館でばったり会って、あっ同じ高校なんだと話をして以来、まったく話してなかった。
教室はざわざわと挨拶が飛び交っている。
「うす、」
ぼくはちょっと照れくさくなって、右手をちょっとだけ挙げて前の席に横向きで座った。まさやがそっと本から顔を上げて、ぼくの顔を見て不思議そうに視線を止めた。
「……何?珍しいじゃん。……どうした?」
「あ、いや。どうもしてないけど……最近話してないなぁと思って……」
窓の外では澄み切った青空が広がっていて、電気をつけた教室でもぼくらの顔半分は暗くなっていた。
「あぁ……そうだな……」
お互い何も話すことがなくて、ぼくはただちらりと外を見た。風でぱらぱらと捲れるページを気にしてか、まさやがぱたんと音を立てて本を閉じた。
左上から予鈴が聞こえた。
その日もぼくは「いしざき」に行った。今日は昨日みたいに急がずに、風をさらさらと感じながらゆっくりと自転車を走らせた。
「いしざき」の前に着くと、店主らしいおやじがいた。おやじといっても、30代中頃だろうか。黒くて肩につきそうなくらいの髪を後で結っていて、なんだか陰気な空気をまとったおやじだった。えんじ色のエプロンをして、店の商品をきれいに並べ直している。
店の端っこで、ちりんと季節外れの風鈴が鳴った。
「あ、いらっしゃい。」
おやじがぼくに気付いて会釈をしながら言った。
「あ、君……。昨日も来てた……」
どこから見ていたのか、おやじはぼくが店に来ていたことを知っていて、小さくはっとした表情をして、昨日のオレンジ色のなわとびを手に取った。また、光に反射してきらきらと光っている。ぼくは昨日の白昼夢への恐怖で手を伸ばせなかった。
「……大丈夫だよ」
おやじがそっと言った。しんと静まり返って、でもセミの声が遠くから鳴って店内に響く。
「この店にあるものは、みんな変だろう?」
めがねの奥で目が優しく笑った。不思議と恐くはなかったけれど、何と返して良いかわからないくて、淡い目線で彼を見た。
「まぁある意味、俺の趣味なんだけどね。こういう不思議なものを集めるのが……あ、座る?」
おやじは、そっと店と奥の部屋との境目にある縁側を指差して、どこからか取り出した缶コーヒーをぼくにくれた。ぼくはそれを一口飲んで、久々に感じた苦さに少しだけ顔をしかめた。
長くゆったりとした沈黙が流れた。
「この店はね、忘れ物をしてる人のための店なんだ。」
おやじがぼそりと、まるで独り言みたいに言った。それが沈黙をやぶって、ぼくは目覚めるみたいにおやじの方を見た。
「俺もきっと忘れ物を沢山してる。思い出そうとすると胸がぎゅっとなるような。それはまぁ……後悔みたいなことなんだけど。そういうの、君にもあるだろう?」
———この店に来たってことは。
忘れ物
なんだろうと思った。今、後悔になって残るもの。店の外の太陽と夕日の境目に照らされたコンクリートを眺めながら、ぼくはまさやを思い出した。神社で遊んでいた幼い頃と、今朝見た大人になった雰囲気。何かをきっかけにずれた違和感を思い出すことができなくて、かき消すようにコーヒーを飲んだ。
「おじさん。明日も来ていい?」
無表情とも取れる顔と不釣合いな優しい瞳に、ぼくはそっと肯定を手に入れて「いしざき」を出た。
それから、学校帰りに自転車で「いしざき」に行くのが習慣になっていた。店にはいつも客はひとりもいなくて経営的には心配だけど、でもそのおかげで店のおやじとゆっくり話ができた。おやじはぼくの知らないことを沢山知っていて、たくさんの昔話を、あの縁側で、あのコーヒーと一緒に聞いた。
彼は昔、カメラマンをしていたそうだ。いろんな仕事をしたらしく、ファッションショーの写真も撮ったし、芸能人のアーティスト写真も撮った。海外の風景を撮影して旅行代理店のパンフになったりもした。
そして、その足は戦地にも向いた。ぼくが小さい頃テレビでやっていたような、大きな戦争にもいくつか出向いていて、左腕の肘よりすこし上のところに銃弾がかすった傷跡があった。でもそれも彼にとっては目を細めて懐かしめるひとつのことで、それらのことはすべて、写真という目に見えるになって残っていて、何も不安は感じないんだそうだ。
ぼくは思った。
この胸にもやもやと滞在する曖昧な記憶。これは目に見えない形で、それでも確かに残る大切な記憶だから、こうやって戻ってきたのかもしれない。それでもぼくはあのなわとびに手を伸ばせないでいた。
「……ってたんだけど、その時はね。……どうした?」
おやじの声でぼーっとしていた脳が自分を取り戻した。店の外はもう夏の名残が消えて、落ち葉が風のリズムでくるくると舞っていた。
「あの……なわとびは……記憶を取り戻すんだよね?」
ぼくが小さい声でぽとりとことばを落とすと、おやじは「あぁ」と低い声でそっと肯定してくれた。
「その記憶は、どうやって選ばれるんだろう?だって忘れてることは沢山あるだろ?なんであのとき、あの記憶が見えたんだろう?」
別にまさやとの記憶じゃなくたって良かったんだろうか。
「それを俺に聞くってことは、わかってるんじゃない?」
……え?
ゆったりとしたいつもの返答ペースに反して、おやじがぼくに向かって言った。その瞳は、初めて会ったときみたいに優しかった。
「この店にあるものは、俺らに何かしらの影響を与える。それはきっと使った人に対して“何か”を与えてくれる。それが君にとって良いことなのか、悪いことなのか、俺には今わからないけど。しょうは、わかってるんじゃない?」
おやじがコーヒーの残りを飲み干して、家の中に戻ってしまうと、店の外に猫が通った。灰色と黒の2匹の子猫だった。落ち葉に混ざってじゃれあって、子猫たちはとても幸せそうだった。でも、ぶぅんと鈍い音を立てて白い車が通った瞬間、2匹は離れ離れになってしまい、そのままじゃれあうことなく店の前を走り去ってしまった。
ぼくは店を出たあとも自転車には乗らず、とぼとぼとそれを押しながら歩いた。夕日に照らされて歩く。でも、その輝きに目をあわすことが出来なかった。手にはあの、同じ色のなわとび。
まさやとの間に何があったんだろう。
考えても考えても思い出せなくて。でも、思い出して何かを巻き戻したいと、胸の奥がきりきりと鳴いた。
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