2 血

 男に連れて行かれた場所は居酒屋で、けれどもチェーン店ではなく、地元の店の佇まい。それで料理が美味しいかといえばそうでもなく、けれども不味くもないので普通に食す。男とわたしは顔が似ていなかったから、歳の離れた兄弟には見えなかっただろう。もちろん親子は年齢的にほぼ無理なので、周りの人たちは、そのまま援助交際と思ったはずだ。あるいはまるで気に止めないか。

 わたしが醒めた頭で、そんなことを考えていると男にビールを勧められる。御屠蘇を別にして、わたしは家でお酒を飲んだことがない。友だちの家では試していたが……。量は僅か。ビールも日本酒もウィスキーの味も知っている。もちろん当時どれも美味しいとは思わない。あのときも場の雰囲気を毀さないため、ほんの一口戴いただけだ。その後はウーロン茶に代えてもらう。言わば、わたしの男へのサービスか。

 当時のわたしは食が細く、すぐにお腹が一杯になる。男の目的も食事にはないはずだから、わたしが満腹だと知ると自分もすぐに食事を終える。男は大喰らいの仲間ではない。わたしが見た限りでも、それほどの量を食さない。それともわたしと出会う前、すでにお腹がくちていたのか。

 居酒屋を出ると迷わず男がラブホテルに向かう。男はわたしの手を掴まない。だから逃げようと思えばいくらでも逃げ出せるシチュエーション。それがラブホテルに至るまで延々と続く。わたしが男に従い――利用客としては初めて――ラブホテルに入り、シャワーを浴びる。

 破瓜まで、あと数十分か。そんなことを考えながら……。

 子供ができるのが嫌だったから男にコンドームを使うように恃む。男が快くそれを受け入れる。今思えば、まるで奇跡のよう。その後わたしを抱いた男たちの多くがわたしの要求を呑んだが、世間では珍しいことらしい。AV好きの若い男と寝たときは、前戯かわりに数本のAVを斜め見するが、演技にしても非使用の場合が多かったのだ。もっとも彼のAV趣味がそうだっただけかもしれないが……。

 初めての経験なので快感を得られるとは思わない。が、想像していたより痛さが少なく救われる。事前に男のモノを触らせてもらい、径が細いことを確認したが、それも幸いしたようだ。といっても細い管に異物が挿入されるのだから尋常ではない痛さがあり、わたしは歯を食い縛り、目から涙まで流してしまう。男が機転を利かせ、大量のローションを用いなければ、果たしてどうなったことか。とりあえずコトが終わり、布団を退け、コンドームやシーツに付いた血を見て男が驚く。わたしが男にコンドームを恃んだ理由をその血のせいと思ったようだ。

 つまり穢れ。

「始めてだったらそう言えばいいのに……。ずっと不貞腐れた顔をしていたから、アバズレだと思ったじゃないか。とにかくゴメンな」

 裸の背を見せ男は言うが、その言葉を感慨なくわたしが聞く。

「どういう事情か知らないが、まあ、無茶はしないこと」

 それだけを口に押し黙る。

 男があのとき同情の言葉をかけたら、わたしは反発しただろう。が、幸運にも、そんな事態は訪れない。年相応の分別が男にあったか、それとも単なる偶然か。

 男が先にシャワーを浴びに立ち上がり、戻ってくるとわたしに勧める。わたしは声に出さずに、ありがとう、と口を動かし、何やら共犯者めいた気分に浸る。男に微笑みさえ投げかける。

 男とは、その一夜で終わる。

 わたしがまどろみから覚めたとき、すでに男がその場にいない。代わりにメモとお金があり、

『少ないけど、オレも持ち合わせがなくてな』

 と三万円が包んである。

 わたしは漠然と、それだけのお金があれば彼は風俗に行けただろう、と思うが、いや、それだけでは足りなかったからウブなわたしを誘ったのだろう、と思い直す。それから、昨夜のわたしの対価は三万円か、としみじみ思う。ついで、贅沢しなければ数日は過ごせるな、と計算し、でもそれだけか、とグッタリする。

 すると何故か、わたしの脳裡に家族の姿が浮かび上がる。

 わたしの母は専業主婦だから悪いけれども印象が薄い。わたしの家族の中では、いわば一般的なイメージか。それでというわけではないが、父の方を身近に感じる。当時、特に好いていたわけでもないから摩訶不思議な感覚だ。家のローンを払い、妻と二人の子供を、まるで生まれる前からの約束のように養った父。普通に大変だったろう、と今のわたしが考える。まるで他人事のように……。ついで家族の中では自分と一番性格が似ていたはずの長女に何の前触れもなく家出され、一体どれだけ怒っただろう、と考える。裏切られたと腹を立てたか、あるいは単に心配したか。母はおそらく半狂乱でわたしを探しまわった気がするが、父は冷静/冷徹だったのではないか。自ら警察に届けに行ったものの、すでにこの世に娘はいないと諦めていたかもしれない。

 本人に自覚があるかどうか知らないが、父はいつでも冷静/冷徹な人間だ。怒った姿を見たことがない。子供の頃から体が弱く、常に死を脳裡に思い描きながら生きてきたようなので、怒りは無駄と考えていたのかもしれない。多くのことに執着を持たず、いつ死んでも構わないという考えだったか。人付合いも相当希薄。まるで性格が反対ともいえる母と出会って結婚したのが、わたしにはつくづく嘘に思える。さらに二人の子を成し、四十台半ばまで生き延びる。それで少しは人間らしさを得始めたのかもしれない。わたしの印象では変わらないが……。より正確に分析すれば、冷静/冷徹というより極めてあっさりで淡白という表現になるだろうか。もっとも父を詳しく知らない他人から見れば、どちらでも同じかもしれない。

 そんな父の血がわたしには色濃く流れている。

 母の実家は兄弟姉妹が多く、それだけが理由ではなかろうが、情に厚い。不幸な人を見かけると空かさず手を差し伸べようと動いてしまう。そんな母が見た目、冷静/冷徹な父の何処に惹かれたのか、わたしには今もって大きな謎。たぶん父は母に対してそうでなかったではあるまいか。今では、わたしにもそんな気がする。

 父の冷静/冷徹な血はわたしにのみ遺伝する。妹が受け継いだのは母の情に厚い血の方だ。妹は人に優しく、そして時折お節介。わたしは人との関わりをできるだけ避けつつ、当時も今も暮らしている。

 わたしが中学に上がったとき、父がふと漏らした言葉が、

『衿子はオレに似ているから心配なんだ。人生を憎んで生き続けそうで……』

 であったことに何か意味があったのか。

 わたしにはそれが父の本音とわかるが、もちろん証拠立てる術はない。理由もなくわかるのが血の繋がりというべきか否か。

 因みにわたしには母の気持ちがわからない。いや、わからないというより、その本質が見えてこない。何か事が起これば母の行動予測は容易だが、単にそれだけのこと。妹に至っては想像することさえ困難。おそらく妹にとっても同じだろう。

 もっともわたしはそのことを気にしないが、妹はある年齢以降、ずっとわたしを嫌っている。

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