「おめぇ、楽しんでるだろ」

それは席替えをし、新たな配置での授業のことだった。


私は窓側の一番前になり、例の塩田先生の熱心なファンこと浅倉聖は窓側の一番後ろになったのである。勿論、聖には席を代わってくれと懇願された上に神を見るような目付きで拝まれたが、私は席を交換してあげなかった。だって、今まで一番後ろだったとき、塩田先生の特徴的な字が全然読めなくて苦労しましたので。

聖が私の席と交換したいのは、彼女曰く「世界史を頑張りたいから」。しかし、私には「世界史(で塩田先生を観察するの)を頑張りたいから」というようにしか聞こえなかった。

「お願いだから!今の一時間だけでいいから代わってよゆつきぃぃ!」

「え、やだ。」

「そこをなんとか!ああ、世界で誰よりも美しく清く気高い黒山柚月さま!あっ、間違えた。世界で一番美しく清く気高いのは塩田先生。」

「うんうん。でも、考えてみ。塩田先生、席が違ったら君のことを追及するよ。」

「うぐっ。でっ、でも!」

というような会話を延々としているうちにチャイムが鳴り、その瞬間、先生が扉をガラッと開けて入ってきてしまった。

…そういうわけで、私は一番前の列で世界史を受けてしまったのだ。


「では、今からこのプリントに各国の関係図を書く。へい。」

塩田先生はクラスの人数分のプリント全てを一番前の席の生徒に渡した。つまり、取ったら横に束を渡して、後ろにもプリントをまわすスタイルのよう。


丸と丸と丸と丸と四角四角四角線線線線線。そこには文字がなく、ただ図形が描かれていた。恐らくここに国名や都市名などを書き込んでいくと思われるが。

「へい、資料集の93ページ開く」

言われた通りに開くと、そこは中国の宋時代の地図があった。

北宋が周りの国に圧迫されていき、次第に南へと中心を移し南宋となっていく過程だ。

「そこにさぁ、北宋があるけどさぁ、周りにある国あるじゃん?書き込んでぇ。」

面倒臭そうに投げやりに言うと、先生はそこで「ふう」と大きなため息をついた。

先生…面倒臭かったら、いつも立ちっぱなしだし、椅子に座ってもいいんですよ……。


「柚月ちゃん、わかる?」

隣の席になった守野礼夏もりの らいかが、不安そうな顔で私を見ていた。礼夏ちゃんは、実は名前はそれこそ日本人だが、イギリスとハーフの、ネイティブ並に英語が堪能だ。

私は礼夏ちゃんの問いかけに、先生に聞こえないようボソッと呟いた。

「いや、わかんない…。」

改めて丸四角線のプリントを見下ろす。

だって、この丸が国のことらしく、北宋は入ったのだが、周りの丸がある位置に該当しそうな国が見当たらなくて…。

「誰かわかんねぇ奴いるかいね。いたら、タダとは言わねえが、教えてやってもいい。」

ちょうど私たちの会話が聞こえたかのように、塩田先生はクラスを仰いだ。

「毎年いるんだいね、こういうことするとクラスに一人はわかんねえって言ってくる奴がさ。」

フンと軽く鼻で笑う先生を見てニヤニヤしている聖が視界の端にいるが、それについては気にしてはいけない。


「ねえ、どうしよう。塩田先生に聞く?」

「………聞いたら、私たちネタにされてしまうよ。」

「だよね…。って、え?柚月ちゃん、そこは西遼なんじゃ…。」

ボソボソと先生に見つからないよう、頑張って必死で礼夏ちゃんと擦り合わせていたのに。

その声は斜め上から降ってきた。

「何、おめぇら、二人ともわかんねぇん?」

恐る恐る顔をあげると、塩田先生が唇の片端をつり上げてニヒルに笑っていた。その瞬間、礼夏ちゃんは「あっ、あーーー!」と笑いながら叫んだ。

「すみません!先生わかりましたっはっは!」

彼女は自分のノートを手のひらでパンパン叩き、何を悩んでいたのかとそれを吹き飛ばすように一人でウケていた。

それを見て、普段感情を表に出さない塩田先生は、珍しく気後れつつ礼夏ちゃんの大笑いを怪訝な顔で見ていた。

「へぇ、わかったん?ふーん。」


え、おいおいおい、ちょっと待て。待て待て。わからないの、このクラスに私だけになっちゃったよね?必死で資料集をパラパラめくり、該当しそうな国がないか探す。

「黒山、何がわかんねぇん?」

先生は親切なのか、白板にかいたプリントの模式図の前に立ち、それを指差しながら説明し始めた。

「ここ、何のの国?」

「…南宋です」

「じゃあこっちは?」

なんだわかってるじゃねえかと言いたげな先生は、北宋の西側の丸を指差した。

「……えっと、えー。あ、西夏…ですかね」

「もいちどよく見てみ。」

前のページの地図とも比べて見ても、私の頭にはクエスチョンマーク。何故わからないのか自分でもわからない。

「…私の目が可笑しくなければ、西夏だと思います」

そう私が言うと、クラスがドッ、と笑い始めた。礼夏ちゃんもわっはっはと笑いながらも、私の資料集を指差して教えようとしてくれた。

「はっは、えっと柚月ちゃん…西夏こっちだよ!そこは西遼だって。あっはっは!」

「何で…だってこれ。えっ、もうわかんない…。」

私も少しパニックを起こしながらも、何となく自分の間違いに気づき始めた。とりあえず、言われた通り、西夏と入れた場所に西遼と書く。

ん………?あっ、えっ……。




「あああああああああああああああ!!!!」


わかった、わかったよ礼夏ちゃん!

私は感謝の意を浮かべ目をキラキラと輝かせて礼夏ちゃんを見つめた。礼夏ちゃん、本当に隣の席になってよかった。さっき、一瞬見捨てられた気もしなくもないが。

「何、黒山だっけ。わかったかねーえ。」

腕組みをして、足の重心を左右交互にかけて私を待っていた塩田先生。ダルンと語尾を伸ばしながら、彼は待ちくたびれたというように壁に持たれていた背中を浮かせた。

「あっ、はい…多分」

まだ埋め終わっていないので、『多分』と付け足しておいた。よし、続き書くか。

「ん?」

待てよ、こんなところにある丸に入る国なくないか?あっ、ダメだ、声に出してしまった。終わった。

頭を抱えて机にドサッと倒れこむ私。

「えぇ?何、おめえもうわかんねえんかい!」

そこに独特のスローテンポでつっこむ先生。何が面白いのか、また礼夏ちゃんを初めとするクラスメイトが笑う。

先生はいつもより一回り―いや、0.5回りくらい、わずかに目を見開いて口角をあげていた。そう、両端の口角を!

そんななかなか見られない珍しい表情に呆気に取られた私は、思わず起き上がって先生をまじまじと見てしまった。

しかし、すぐにその表情は、いつもの表情に戻ってしまい、気だるげな切れ長の目に光はなく、片端を吊り上げたニヒルな笑いを浮かべていた。その笑みを浮かべる薄い唇は一言、お決まりのようにグサッとくる言葉を放った。

「おめぇさあ、わかんねぇの楽しんでるだろお」


グッサ!



当事者になればわかる。良くも悪くも心に刺さる。塩田先生って気だるげに正論言うからグサッとくるんだな。って、そんなことよりこのプリントどうしよう。


「へえい、黒山は自力で頑張ってもらうことにして。もういいやいね。はい、ごうれえ。」

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