野球の書

少し遡るけど、私たちが古代エジプトの単元に突入しようという時のことを話そうか。



「ねえねえゆっきー」

「ん、何?」

女子のロッカールームは、いわばSNSのようなもの。誰々がリア充になったよとか、豆テストはアレが出るよとか、様々な情報がたった5分の休み時間ごとに飛び交う。広いわけではないから他の人が話している事もすべて聞こえる。……私はあまり興味がないので、さっさとロッカールームを出ていってしまうけど。

そんな私に話しかけたのは、隣のクラスの友人である伊東花穂だった。花穂は私の友達の一人で、独特のマイペースさが特徴的なおっとりとした天然ガール。私の名前は黒山柚月くろやま ゆつきというのだが、彼女は何故か私のことを『ゆっきー』と呼ぶのだ。これを聞いた人は、大体私の名前を『ゆき』とか『ゆきの』などではないかと勘違いする。『ゆつき』なんだけどね。つまり、不思議な雰囲気の友達だ。

「ゆっきーのクラスって、次、世界史だよね…?もう、壁画やったかな…」

斜め下を向きながら話すのは彼女の癖。

壁画って、古代の壁画か何かなのだろうか。

「いや、まだだよ。なにそれ」

そう答えると、花穂は曲線を描いた糸目をパッと目を開き、ふわっと笑みを浮かべた。

「そっか、ゆっきーのクラスまだだよね!…じゃあ、言わない…楽しみにしててね。」

「…お、おう」

「あ!もう授業始まっちゃう!ゆっきー、またね」

意味不明な予告を残し、これまた可愛らしい女の子走りでトコトコと駆けていった花穂。また、いつもの不思議ちゃん言動かと思えば…。私は数分後に彼女の言葉の意味を思い知らされるのだ。



「うぃー、じゃあ教科書の15ページを開く」

世界史教師、塩田はまたかったるそうに、言葉を紡ぐ。はい、と言っているはずだか、やはり私には『うぃー』に聞こえてしまう。

「この写真は死者の書と言って、古代エジプト人が、死後、死人はどうすればいいかを描いたものだ。」

ああ、知ってる、と私は思った。これは有名な写真なので、恐らく知らないものはいないだろう。

「この時代の美術様式だが、平面的で、本当の人間じゃ有り得ないような角度を向いた絵が描かれている。」

こんな感じで、一通り、いつもと同じく説明が終わり、今日はこのまま無事に授業が終わるだろうと、一人でホッとしていた矢先だった。先生は黒板に文字を書き終えると、突然クラスに向かって次のような問いかけをしたのだ。


「このクラスで、野球部の奴は誰なんだ」




私たちは黙ったまま、質問の意図をくみ取ろうとした。


「おい、誰だよ」


展開についていけず、後から「はい…?」と困惑気味の返事をした者が2人いた。

一人は浅田勇志あさだ ゆうし。彼は高校生から野球を始めたばかりだ。中学が違うので私はよくわからないが、どうやら彼は中学時代は別のスポーツをやっていたようで、運動神経がいい。

もう一人は篠田一葉しのだ いちは。私は彼が授業以外で声を発しているのを聞いたことがない。否、声を発してはいるのだが、特定の人としか話さずこそっと耳元で小さく話すものだから、話したことが一回もない。話しかけたことはあるが、そそくさをいなくなってしまうあたり、内気であるようだ。


二人を見た塩田は、「篠田、前へ来い」と指名した。たぶん、この指名には特に意味はないのだと思う。

私の席まで聞こえるかわからない位の声で「はい」と返事をした篠田くんは席を立ち上がり、あまり乗り気でない様子で前に出た。


「よ、よりによってあの篠田くんを指すなんて」

前の席の、メシアをやったことがある木崎さんはぽろっと呟いた。

「だよね、私もそう思うわ。何をさせられることやら。」

「え、お前ら知らないの?」

木崎さんの隣に座る広谷くんは信じられないという顔で私たちを見た。

「なにが?」

「これから壁画やるっていうのに…」

うわ、出た。『壁画』花穂も言っていた言葉だ。まあ、篠田くんには悪いけど、私はおとなしくみていようと思う。


「篠田、お前上履き脱いで教卓上がれ。今から篠田が“わざわざ”みんなのために、平面的な美術様式である古代エジプトの死者の書を再現するからな。よく見とけよ。」

先生は、目を篠田くんから教卓へ向け、教卓の上へ立つようにと促した。

篠田くんは、困りながらも恥ずかしそうに恐る恐る教卓の上に立つ。それから、次はどうしたらいいのかと、指示を求めるような目線を先生へ送った。

「いいか、篠田。この写真をよく見ろ。真横を向け、それから、…違うそうじゃねえよ。その足は平面上にあるように一直線に並べろ!で、その手は」

もはや世界史の授業でもなんでもない。まるで篠田像のエキシビジョンだ。

内気な篠田くんは、指示にたいして文句も言わず眉を潜めながらもどこか楽しんでいるような笑みを浮かべて、指示通りにポージングをしていた。

そうこうしているうちに、数分がたち、ようやく先生は満足そうに頷いた。

「そうだ、それだ。俺がいいと言うまで、絶っ対動くなよ」


授業にしては異様な光景だった。私たちから見て左側を向いている。足は前後に真っ直ぐと並び、上半身は大きく捻って私たちの方を向いている。しかし、顔は左側だ。腕は、左右で高さが違い、くねりと手首を曲げている。

うん、なんとも奇妙な光景だ。

そして、人間の正常な身体ではどうやっても表現が不可能…なはずのエジプト美術を見事に再現している。ついでにいえば、篠田くんの足は、ポーズの限界により、さすがにピクピクと震えていた。


「うぉし、篠田。降りて良いぞ」

篠田くんは、こくりと頷き、ピョンと教卓から飛び降りた。上履きに足を通し、さっさと席に戻っていく。

先生は、気だるげに足を持ち上げ、教卓の前までと歩いていく。先程、篠田くんにポージングをしていたときは、あんなに目を輝かせていたのに…。

はは…は、何なんだ本当に。塩田先生は謎しかない。

一人、心の中で苦笑いをしていた私だが、そのとき先生は突然顔をしかめた。

そして、教卓のサイドに置いてあった出席簿を手に取る。

「え……」

先生はこうダルそうにしていても几帳面だから、出席はしっかり最初にとっている。なのに何故…

私たちの疑問は解決しないまま、先生はその出席簿を教卓の上で動かした。まるで、何かを机の上からはらうように、だ。






「あー、きたねぇ、きたねぇ」



出席簿は雑巾ではありませんよ、塩田先生。クラスの皆がそう思い、目で訴えると、先生は顔をあげてボソッと呟いた。

「俺の私物で拭きたくねぇじゃん。机の上なんか。……はい、綺麗になった。授業再開するぞ」





私はこの授業で身に染みたことがある。


『傍若無人』『几帳面』


この二要素は何があっても絶対にくっつけてはいけない。

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