25


 暗く、冷たい、部屋。

 震えている。

 不安、恐怖、寒い…。

 ああ、あれは、俺だ。

 怯えきった眼。

 何に対して怯えている……?

 何かが近づいてくる。

 イヤな音だ。

 あいつが来る。

 眼鏡の奥の眼。

 ああ、思い出した。

 そいつが来た。

 鉄格子の向こうで嗤っている。

 じっけん…どう…ぶつ…。

 そういった。

 そうだ。

 俺は、あの眼に怯えていたんだ。


「俺を、こんな身体にしたヤツだ」

 順弥は、ファントムの抱えるカプセルの中で眼を閉じている首を見て呟いた。

 そうだ。

 池田博士といったか。

 ヤツが、俺の身体と精神とを弄び、化物にしたんだ。

 その、順弥が怯えた眼は、もう永遠に開くことはないのだろう。

 不思議な感慨があった。

 憎しみしかなかった筈なのに、ああなってしまっては、それさえも違った何かに変わっていく気がする。

「思い出したようだな」

「ああ。だが、そんなことはどうでもいい。――さっき、戻ると言っていたな」

「そうだ。もはや、ここに我らの仕事はないのでな」

「俺を、殺さなくていいのか?」

 順弥は、ふつふつと沸き上がるあついものを抑えきれなくなっていた。

 衝動。

「そんなに殺して欲しいのか」

 そう応えるファントムの美貌にも、凄絶な笑みが浮かんでいた。

 仲間を傷つけられた怒りなどではない。もとより、そのような感情は持ち合わせていない。

 あるのは、殺戮への衝動。

 それだけだ。

「殺せるならな」

 順弥もまた、嗤っていた。

「持っていろ、ガルム」

 脇に抱えていたカプセルをガルムに放る。

 あわてて、ガルムは左腕一本でそのカプセルを受け止める。

 そのときには、すでにファントムは地を蹴っていた。

 はやい!?

 一瞬で間合いを詰められ、順弥はブロックも出来ずに強烈な前蹴りをもろに腹に食らっていた。

「げっ!?」

 たまらず数メートルも吹っ飛ぶ。

 地面を転がり、血を吐きながら何とか起きあがった順弥は、だが、瞬時にして横に跳んでいた。

 刹那、順弥のいた場所に空中よりファントムの蹴りが突き刺さる。

 靴底が数センチも地面にめり込んでいた。

 ファントムが嗤っていた。

 その笑みめがけて、順弥が突っかけた。

 剣を水平に薙ぐ。

 ファントムが、スウェイバックして、躱す。

 瞬間、順弥の左手から銀色の閃光がファントムの右目に向けて流れた。

「――!?」

 鋭い痛みを感じて、ファントムが順弥から飛び離れる。

 眼を押さえた左手の下から、血が流れていた。

 そして、指の隙間からは、『忍者』のが生えていた。

「貴様――」

 美貌を鬼の如き形相に変えて、ファントムが順弥を睨みつける。

「おもしろいことをやってくれる。いいだろう、こちらも本気を出すことにしよう」

 嗤って、右目をごと引き抜いた。どろり、と糸を引いて右の目玉が足許に落ちたとき、順弥はファントムの足許から煙が立ち上っているのを見た。

「何だ――!?」

 ファントムの足が地面から浮いていた。煙は足の裏から噴出しているようだ。そして、踵のあたりに光が見えた。

 こいつ――

 飛ぼうとしているのか!?

「そうだよ。これが、俺の能力だ。俺の名はファントム。マッハのスピードで空を飛び、敵を殺すことが出来るのさ」

 得意気に語るファントムの身体が変形を始めていた。

 ああ、アレはまさに――

「戦闘機だと、いうのか」

 茫然となる順弥の目の前で変形は続き、数秒後、ファントムは完全にジェット戦闘機と化し、順弥の目の前に浮かんでいた。

 空中に静止しているのだ。

 これは、本物の戦闘機には出来ない芸当だ。

「さぁ、いくぞ、一〇五号」

 声が聞こえた。その瞬間には、ファントムの姿が幻のようにかき消え、刹那、順弥の背後にあった。

 転瞬、衝撃波が凄まじい爆風をともなって順弥に襲いかかり、順弥は弾き飛ばされていった。

 その間にもファントムは大空を横切り、再び順弥めがけてその機首を向けた。

「――!?」

 順弥は、ようやく起きあがった。

 そのとき、順弥は自分が全き静寂の中にいることを知った。

 思わず耳に手を当てた。

 ヌルッとした感触が伝わり、ハッとして手を見る。血がべっとりとついていた。

 耳の痛さだけが残っている。

 一瞬、耳が麻痺したのかと思ったが、どうやら、鼓膜がやられたらしい。

 何も聞こえぬ。

 戦闘機が、大気を斬り裂いて飛ぶ音も耳には届かない。

 来るか――

 だが、順弥には見えていた。遙か彼方より迫り来る漆黒の機体が。

 ヤツは、俺がここへ来る前に、俺の頭上を飛んでいた。あの音は、あのとき聞いたものだ。

 なめるなよ、鳥野郎。

 手に付着した血を舐め取る。

 そして静寂の中、剣を構えた。

「腹にどでかい風穴を開けてやるわ、小僧!」

 ドップラー効果で声が流れ、そして、ファントムの黒い機体は順弥と正面から激突した!

「おお!?」

 思わず、ガルムが声を上げる。

 そこには、凄まじい光景が展開されていた。

 順弥の腹をファントムの機首がぶち破り、大量の血と内臓を絡ませたまま背中へ突き抜けている!

「がはぁっ」

 しかし、順弥は血を吐きながらも、手にした剣を振り上げようとしていた。

 その順弥を、ファントムが空へと持ち上げていく。一気に急上昇だ。

 音速を超えようかというスピードに、今にも、順弥の下半身がちぎれ落ちてしまいそうだ。

 ファントムが勝利の嗤いに身を震わせていた。

 その嗤いが、直接振動となって内臓を揺さぶる。

 振動が、嘲笑と怨嗟の声が伝えてくる。

 吐き気がする。

 こんな状態にあっても死ねない、死ぬことのない自分の身体に自嘲めいた笑みが浮かぶ。

 徐々に音が聞こえ始めた。

 大気中を走り抜ける風の音。

 ファントムの狂ったような笑い声。

 そして、自分の口から洩れる呻き声。

 鼓膜が再生しつつあるのだ。

「ここまま、大空の旅行としゃれ込むか、小僧! それとも、ここから地面へ叩きつけてやろうかぁ!」

 二人は、絡み合ったままより高空へと上昇を続けていた。もう何百メートル、いや、何千メートル昇ったろう。

 大気が冷たく、そして空気が薄くなりつつあった。

 血が下がり、目の前が真っ暗になりつつある。だが、ファントムにはそれは関係のないことであるらしい。もとより、ファントムはこういう高空戦闘を意図して造り出されたのだろう。

 順弥はブラックアウト寸前の思考でそう悟った。

 ファントムの人間としての顔は、戦闘機の機首の下側にあった。そこに透明なドームに包まれて順弥を嘲笑っているのだった。

「ぐぅぅ…ふざけるなよ、貴様ぁ!」

 音速の世界の中、順弥は咆哮して、手にした剣をファントムに突き刺した!

「ぐわあぁぁぁぁ!?」

 そしてその剣は、戦闘機の中央部あたりから吸気口――腹部から肩口にかけて、一気に機体を切り裂いていった。

 ジェットエンジンの噴出が止まり、急速に推進力を失って、ファントムは上昇から落下に移った。

「ちぃ!」

 順弥は何とかしてファントムの先端部分を自分の腹から引き抜くと、背中に翼を出現させた。『鳥人』の翼だ。

 しかし、落下のスピードを落とすことが出来たが、あまりにも血を失いすぎた。

 目の前が暗くなり、力が出ない。

 自由落下中も、ともすれば切れてしまいそうになる精神の糸を必死でつなぎ止めていた。そして、地上に激突する直前に、背中の翼を大きく広げ、落下の衝撃を緩和した。

 ズタボロになりながら、順弥は立ち上がる。

 落下地点は、先ほどまでいた教会の敷地からそれほど離れていなかった。

 その順弥の目の前に、ファントムが横たわっていた。

 人型に戻ったファントムは、左肩の鎖骨部分から臍あたりまで斬り裂かれた無惨な状態で、血の海に沈んでいた。

「ファ、ファントム――!?」

 ガルムが、池田博士の首が入ったカプセルを抱いて、恐怖の叫び声をあげていた。

 もはやファントムは虫の息であった。

 ひゅう、ひゅうという呼吸音だけが聞こえる。

「小僧、貴様ぁ!」

 カプセルをその場に置くと、ガルムは怒りの形相で順弥をめ付ける。

「殺してやるぞ、小僧!」

「――無駄だ。お前は、絶対に勝てない。これ以上、戦っても無駄だ」

 順弥は息を整えながらガルムに告げる。

 正直な気持ちだった。

 この男の戦闘力は、すでに見切っている。一瞬で殺せるだろうと、順弥は感じていた。だから、そういったのだ。しかし、それは火に油を注いだようなものであった。

 ガルムが怒りの炎を身にまとい、順弥に突っかけてきた。

 順弥は溜め息を一つついて、剣を構えた。

 人類を導くだと?

 バカバカしい。

 見ろ、俺のこの手を。俺の歩んできた道を。そして、俺の運命を。

 こんなに血にまみれているじゃないか。

 俺には、この途しかないのか。

 破れかぶれの突進をするガルムとすれ違いざま、剣を真横に薙ぎ払った。

 上半身と下半身が腰のあたりで上下に分断され、ガルムは倒れた。

 動くものは順弥ただ一人。

 剣を一颯すると、少年は半壊した教会の扉をくぐっていった。

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