22


 痛い。


 身体を少しでも動かせば、凄まじい痛みが走り抜ける。

 頭が、いやにすっきりしていた。

 あれほどの恐怖と絶望に満たされたというのに、今は何もなかった。

 また、痛みが疾った。

 ほんの少し腕を動かそうとしただけだというのに。

 眼を見開いた。

 いったい、自分の身体がどうなっているのか確認したかったのだ。

 右腕を伸ばして、見た。

 一瞬、それが何なのかわからなかった。

 腕は、そう、無数の死人の顔で出来ていたのである。

「――!?」

 ねじれ、歪み、重なり合い、呻き、恨み言を言っている。

 青白い、死人の顔。

 見たことがある。どの顔にも記憶がある。

 初めての敵。『騎馬』に変身したあいつ。

 あのひとの部屋で戦った奴等。

 夜の公園での死闘。二百人近いやくざ。

 津田由紀のマンションを襲撃してきた『巨人』。

 そして、ああ――

 腕は、付け根から指の先、爪、細胞の一つ一つに至るまで、今まで彼が戦って殺してきた顔で形づくられ、口々に呻いていた。

 憎い。苦しい。殺してやる。

 少年は、自分の歯の根が会わず、ガチガチと鳴っていることに気づいていない。

 あまりの恐怖のために視界が狭くなり、思考能力が奪われていた。

 そのとき、その顔一つ一つがいっせいに崩れ始めた。

 突如腐敗が始まったのだ。

 その腐敗の中で、今度は全ての顔が狂ったように嗤い始めた。

 少年の抱いた恐怖と絶望を嘲笑っているのだ。

 そして、その間も崩壊は続いていた。

 顔の肉が凄まじい臭いを放って液体と化して崩れ、目玉が糸を引いて眼窩から抜け落ちる。

 そして、骨も残さず腕がとろけ落ちた瞬間、凄まじい恐怖が、背中を疾り抜けた。

「わああああああ!?」

 少年は、その恐怖から逃れようと絶叫し、眼を閉じた。

 静寂と暗転。


 ゆっくりと眼を開いた。

 ここはどこだ。

 何も見えない。

 いや、ここには何もないのだ、とすぐにわかる。

 永劫の闇。

 では、ここはどこだ。

 周りを見回す。

 自分の身体すらないことにようやく気づく。

 すべて、とろけ落ちたのだろうか。

 しかし、全身を襲う痛みは、依然として続いている。

 身体など、もうないというのに。


〝身体が痛みを感じているのではない〟


 声が、直接脳裡に響いてきた。

「――!?」

〝お前の良心が、あまりの悲しみに耐えきれず、痛みを発しているのだ〟

「良心が……?」

〝そうだ。痛がっているのは、お前の心なのだ〟

「お前は、誰だ?」

 少年は問いかけた。

〝全にして個。個にして全。故に、『我』という表現は当てはまらぬが、お前にわかりやすいように今は使おう。我は、この宇宙絶対の意思――〟

 姿無き声は、そう名のった。

「なんだと? 宇宙絶対の意思? それが、俺に何の用だ?」

 周りから、驚いたような波動が伝わってくる。

 しかし、驚愕したのは、何も宇宙絶対の意思と名のる存在だけではない。

 少年自身、自分が何故それをすんなり受け容れているのかわからなかった。

 魔装兵士に改造される前の記憶が戻ったわけではない。京子や由紀の部屋にあった書物を読んで知ったということでもない。

 っていたのだ。

〝なるほど。どうやら『虚空アカーシヤの記憶』をのぞいたらしいな〟

 声が言った。

「『虚空の記憶』? まあいい。――ところで、俺は死んだのか?」

〝いや、まだ死んではおらぬ。ここはいわば生と死の狭間の世界だからな〟

「じゃあ、また生き返られるのか!?」

〝よしんば生き返られたとして、何をする?〟

 という問いに、順弥は迷わず答えた。

「決まっている。奴等を殺す」

〝何故、そこまで死をもたらそうとする? 破壊は何も生まぬぞ〟

「は。じゃあ、何か。許せとでもいうのか? 奴等は、俺の大切な人たちを殺したんだぞ。許せるものか」

〝お前もまた、殺してきた〟

「当たり前だ。これは、殺し合いなんだからな」

 順弥は、自分が矛盾したことを言っていることに気づいていない。

 声は、淡々と続ける。

〝お前の放つエネルギーは、破滅へと向かっている。よく、それを、「再生のための破壊」という言葉を使っている輩がいるが、あれは有り得ない。お前のように、破滅へと向かう破壊からは、何も生まれはしない。怒りは怒りを呼び、怨みは怨みを生む。それが永遠に繰り返され、やがては、悲しみだけが地上に残るのだ〟

「確かにな。――だが、俺は、何かを生み出すために殺し合いをやっているわけじゃない。全てを終わらせるためだ。だから、許せる筈がない」

 だから、破滅へと向かっていて良いのだ。

〝ならば、何故、あの女は許したのだ?〟

「――!?」

 津田由紀のことを言っているのだとすぐにわかった。

〝あの女も、お前の言う大事な人を殺したのではないのか?〟

「――」

 順弥は返答に詰まった。

 確かにそうだ。

 早坂京子を殺したのは、津田由紀なのだ。

 自分の親友を殺し、目の前で犯し、喰らわせた。

 だが、俺は、彼女を許した。

 何故だ。

〝優しくしてくれたからか?〟

 そうかも知れない。

〝ならば、お前にも出来る筈だ。限りない優しさをもって人に接すれば、悲しみなど増えはしない。そのことを、お前は自分の身を以て示し、感じたのではないのか〟

 それはわかる。わかるような気がする。だが、だからといって、俺が復讐をやめたら、俺は何のために戦ってきた。何のために殺してきたのだ。

 あのひとたちの死は、いったい何だったのか。

 だから、順弥は、

「うるさいっ! 俺をこんな身体にした奴等を許せる筈がないだろうが!」

〝――やれやれ。全く話を聞く気はないということか。しかし、お前のその狭量な心のままでは、あの者たちを相手にどこまで戦えるか……〟

「どういうことだ? 奴等を知っているのか」

〝知っている。だが、その答えは、自分で見つけ出すがいい〟

 素っ気ない答えに、順弥は舌打ちした。

〝――それよりも、地上で今、何が起こっているのか教えてやろう〟

 そう声が告げた途端、順弥の目の前の空間――虚空にぼんやりとある光景が映し出された。徐々にピントでも合い始めたのか、そこに何が投影されているのかはっきりしてきた。

 それがまさか自分だとわからぬ程姿の変わり果ててしまった肉の塊。

 その前に立つ白銀の『騎士』が、かつて順弥であったものの右肩の辺りに剣を振り下ろした。

 やがてその腕が倍以上に太くなり、ゆっくりと右肩から、左脇腹にかけて深々とえぐっていく。

 そして寺垣は、高らかに哄笑しながら順弥の首をねた。

 高々と宙に舞う少年の首。

 濡れた雑巾を地面に叩きつけるような嫌な音を立てて首が寺垣の足許に落下したとき、ゆっくりと『騎士』の脚が上がった。


 ぐしゃ


「わああああ!?」

 脳裡にこびりついて一生忘れ得ない音に、そしてその光景に、順弥耐えきれずに絶叫した。

 自分の頭部が踏み潰され、砕けるのを目の当たりにしたのだ。

 気が狂ってしまいそうだった。

 なくなってしまった。

 俺の身体が、バラバラにされてしまった。

 もう、殺せない。

 奴等を殺して、敵も討てなくなった。

〝何を、そんなに悲しむ?〟

 声には、順弥の絶望の理由が本当にわからないようだった。

「当たり前だ! もう、奴等をみなごろしに出来なくなっちまったんだぞ……」

〝――では聞くが、何を以て、あの肉片の一つ一つがお前のものといえるのだ?〟

 順弥には、声の言わんとしていることが理解できなかった。

「何を言ってる? あれは……今、踏み潰されたのは、俺の頭だ…」

 問うてきた。

「なに?」

 順弥には、声が何を言いたいのかわからなかった。

〝それとも、鼻か? 口か? 腕か?〟

「何を…言っている……?」

〝まだ、わからぬのか。肉体など、お前と他人を隔てる一種の壁に過ぎないのだと言っているのだよ。あの肉体がお前であるためには、お前という魂が必要なのだ。魂のない肉体は、人間ではない。それは、ただの物体に過ぎないのだ〟

「――!?」

〝――だから、人間は肉体に執着するあまり、解脱げだつ出来ないのだ〟

 解脱とは、仏教においては、煩悩による束縛から解き放たれて、全ての執着しゅうじゃくを離れることを言う。

 つまり、迷いの世界、苦悩の世界から、悟りの涅槃の世界へ脱出することを指していると言うが。

〝肉体という、地上に縛りつける鎖を断ち切って、遙か高みに飛翔することが出来ないのだ。大切なのは、心なのだよ〟

 心?

〝――心が、我を知覚すれば、お前は在ることが出来るのだ。わかるか、この意味が〟

「それはつまり――」

 顔を上げた。

 その顔に、もう絶望の色はない。

 順弥は、何かが理解出来始めたようだ。

 震える声が、それを証明している。

〝そう。

「ならば、生き返ってやる。生き返って、奴等を殺してやる」

〝やれやれ。もう、何も言うまい。――しかし、これだけは覚えておけ。お前は、いや、お前たちは、やがて人類を導く存在ものになるということを〟

「導く存在? ごめんだね。残念ながら、俺のガラじゃない」

 笑った。

 いい笑顔だった。

 順弥は、自分の意識が下降するのを感じた。

 戻っていくのだ。

 地上に。

 破壊された肉体の中へ――

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