14

 深い海の底から、ゆったりと浮上する感覚。今まで真っ暗闇に閉ざされていた視界に、海面に揺らめく太陽の光が入って来る。

 ぼくは…だれだ。

 意識が混濁しているようだ。

 ああ、そうだ…思い出した…。

 僕は、早坂順弥。

 そう悟った途端、今まで漠然としていた自分というものが、急速にはっきりとして来た。

 記憶が、輪郭を帯びて鮮明になる。

 どうやら、俺は生きているらしい。

 しかし、あの状態で、俺はどうやって生き延びられたのだろう。

 生きている筈がない――そう思っていた。もしそうなら、俺はやはり死んだのか。ならば、ここは「天国」というところか。

 ああ、眼が覚めるな。

 そう知覚して、順弥はゆっくりと眼を開けた。

「――!?」

 蘇生した途端、自分の肉体の感覚――重さ、体温、脈拍が伝わってきて、生きていることを自覚する。

「ここは――?」

 ベッドに横たわったまま、眼だけを動かして辺りの様子を探る。

 順弥は、自分が白を基調にした清潔な部屋のベッドに横たわっていることを知った。

 病院かと思った。しかし、そうではないようだ。どちらかといえば早坂京子の部屋に近い印象を受ける。つまり、この部屋の主は女だということだ。

 上体を起こそうともがいた瞬間、全身を声すら失うほどの凄まじい痛みが走り抜けた。

 とっさに右肩を左手で押さえる。そこは伊沢の剣に刺し貫かれた場所だ。だが、そのときになって順弥はようやく、斬り落とされた筈の左腕があることに気づいた。

 何の違和感もなく、指も五本ともちゃんと動いている。

 間違いなく自分の腕だ。

 それにしても、いったい誰がくっつけてくれたのだろう。

 思わず眉を潜ませて、順弥は自分の手を凝っと見つめていた。

「あら、気がついたのね。――おはよう、順弥君」


 唐突にそう声がかかって、順弥は愕然と振り向いた。

 馬鹿な!?

 誰も、この部屋にはいなかった筈だ。死角にいたのか? いや、そんな筈はない。確かに誰もいなかった。なのに、どうして――?

「どうやら、その様子だと、まだ気配を察知できるほどに回復していないようね」

 順弥の左手の壁にあるドアの前に佇む女が、薄く笑ってそう言った。

「お、お前は――」

 その顔を見て、思わず絶句してしまう。

 それほど意外な人物。

「…………」

「誰だっけ、なんてくだらないことは言わないでね、順弥君」

 半目でその女は言った。

「……由紀さん、だったな」

 順弥の返答に、津田由紀は満足そうに微笑んで、手にしたトレイをベッドの上に置いた。

 どろっとしたものが皿に注がれてあった。

 どうやら食事らしい。

「…………」

 順弥は、その食事と由紀の顔を交互に見比べて、こう訊いた。

「あんたが助けてくれたのか? 何故だ?」

「助けたんじゃないわ」

 由紀は、ベッド脇のイスに腰かけ、長い足を組んだ。

「あんな奴等に、きみを殺させたくなかった。きみを殺すのは、私。それだけよ」

 由紀の言葉に順弥は一瞬びっくりしたが、そういう理由もあるのかと納得した。

「……なるほど。で、俺はこれを食べればいいんだな」

「そういうこと。元気になってちょうだいね、私に殺されるために」

 順弥は薄く笑って、スプーンに口をつけた。

「……。何だか、おいしくない」

「我慢なさい」

 由紀は腰に手を当て、まるで姉が弟に言うように、叱りつける。

「きみは三日間も昏睡状態だったのよ。まともな食事なんて胃が受け付けないわよ」

「三日――!?」

「そうよ。あれからもう三日。今頃『ノウド』はきみを血まなこになって捜しているわ」

「報告していないのか!?」

「意外かしら? 言ったでしょ、きみを殺すのはこの私だって」

 由紀が言葉の内容とは裏腹な優しい笑みを浮かべたので、順弥はつられて笑ってしまった。

「そうだな…」

「――とにかく、今はそれを食べて、よく休みなさい。いいわね」

 その優しい言葉と微笑みに、順弥は由紀がわからなくなってしまった。


 マホガニー製のデスクをはさんで、このとき高垣はドクター池田と向き合っていた。そして、老人の隣には、大竹と由紀が無言で控えている。

 順弥が姿を消してから、毎日、寺垣は大竹を呼んで偵察部隊の持ち帰った情報を報告させていた。

 この日は、由紀が池田博士に聞きたいことがあるということで、彼も呼び出されていた。

 そして由紀は、順弥が再び眠りについてから、この部屋に姿を現したのだった。

 報告が始まったのは、それから五分後であった。

「伊沢さんの部隊を全滅させ、一〇五号が姿を消してから三日――。まだ、見つからないのか?」

 報告を聞き終わると、寺垣は溜め息まじりにそう言った。

 しかし、その言葉に焦燥は感じられない。むしろ、よくも逃げおおせるという感嘆さえ含まれていた。

「全力で探させておりますが、未だ…」

 それに対して、大竹の表情は苦渋にまみれていた。

 屈辱だった。

「『ノウド』の情報収集力をもってしても見つからないとなると、それは全力とは言わないのだよ、大竹」

「は…。しかし――」

「言い訳はいらん。奴が、伊沢さんの部隊を全滅させて、なお無傷とは思えない。相当のダメージを負っている筈だ。ならば、必ず奴は、まだこの街の何処かに潜んでいる。――必ず、見つけ出せ」

「は」

「承知しました」

 大竹の隣で由紀は、自分が一〇五号を捕らえていることなどおくびにも出さず、頭を下げていた。

「――ところで、ドクター。お訊きしたいことがございます」

 由紀が、池田に鋭い視線を向ける。

 明らかに嫌悪感を漂わせた視線だ。

 確かに、由紀は池田が嫌いだった。魔装兵士を人と思わぬその態度が気に障るのだ。

「牙狼連合が一〇五号に破れたいま、奴に対する次の作戦をお聞かせ願いたいのですが?」

「それは、私も聞きたいな、ドクター」

 寺垣も、興味深そうな視線を池田に向けている。

「承知しました。その前に、お人払いを――」

「ここには、我等しかおらんが?」

「大竹様と津田様がいらっしゃいます。ですから、お人払いを」

 そう言って、池田は寒気のするような、気違いじみた笑みを二人に向けた。

「なるほど」

 背中を冷たいものが流れ落ちる二人に、寺垣は退室するよう命じた。

「何故です? 我等とて、聞く権利はあると思いますが?」

 食い下がる由紀に、寺垣は冷たい言葉を放った。

「きみは、一〇五号と戦い、生き延びた戦士として、この部屋に入ることを許したが、所詮一介の兵士に過ぎないのだよ。自分の立場も忘れて、ドクターに意見するとは、どういうことかね」

「そ、それは――」

 思わず絶句してしまう。

 だが、次の作戦の内容を知ることが出来なければ、何のために今日、寺垣の部屋を訪れたのかわからなくなってしまう。

「もう一度言う。大竹、津田、退室しろ」

 もはや逆らえなかった。

 寺垣の眼が、氷のような光を放っているのを見たからだ。

 由紀は肩を落とし、大竹に伴われて寺垣の部屋を出た。

 忘れていたわけではない。

 自分たち魔装兵士など、『ノウド』の大いなる野望の達成の前には、捨駒でしかないのだということを。

 それを、今までは当たり前のことだと思ってきたし、何の疑問も感じなかった。

 だが、何かが自分の中で変わり始めた。

 それがいつ、どのようにして起こったのかわからない。言えることは、何かがおかしい。それだけだった。

 由紀は、大竹と別れて自分の部屋に戻ることにした。

 今頃は、新たに編成された偵察・策敵部隊が街中を飛び回っている頃だろう。

 彼女も、数日後には偵察任務に就くことになっている。それまでは、部屋にいたかった。

 大竹は、ずっと何か言いたそうな視線を由紀に向けていたが、彼女はそれに気づかずに、自分に与えられた部屋に向かって歩いていった。

 大竹は、由紀の何処か寂しそうな背中が見えなくなるまで見送ると、教会内にある彼の部屋に引き返していった。

 彼の背中もまた、悲しみに小さく見えた。

 その頃――

 池田は、寺垣の前で、彼の狂気的な作戦を話し始めていた。

 話すうち、池田は自分の言葉に酔い、狂気に身を震わせた。自分が、悪魔――いや、造物主にでもなったかのような、そんな話し方だ。

 尊大で、しかも狂っていた。

 寺垣でさえ戦慄を禁じ得ない内容を、池田は嬉々としてしゃべり続けるのだった。

「恐ろしいな」

 池田が話し終えたとき、寺垣は嘆息してそう言った。

「『ノウド』本部にいるときも、あなたの狂気的言動は群を抜いていたが、実際、このような事態になってみると、それを実感するね」

「恐れ入ります」

「――さて、そこまでやって、なお奴が無傷なときは、どうするね?」

「もはや、我等に打つ手はございませんな」

 寺垣は、思わず口笛を吹きそうになった。

「あなたの口から、その言葉が出ようとはね」

「ヒッヒッヒ。しかし、事実でございますよ。奴の鎧のプログラムが正常のものであるならば、すでに処分は完了しておりましょう。よしんば生き延びたとしても、鎧破壊用のプログラム『妖蛆ワーム』を注入するだけで鎧を分解させることが出来ます。しかし、奴には恐らく効くことはないでしょう。それ故に、これが最終手段なのです」

「なるほど。――では、もう一つ。確か、奴を上回る鎧をつくると言っていたな。あれはどうなっている?」

「完成しつつあります」

「ほお。それは素晴らしい。どういう鎧だ?」

「奴同様『騎士』系の鎧です。ネーミングはやや安易ですが、『銀騎士シルバーナイト』と名づけようかと考えております。無論、寺垣様用に調整してございますが」

「さて、身にまとうことがあるのかな?」

「今は身につけることがなくとも、いずれ必ず」

 池田が楽しそうに笑うので、寺垣は苦笑するしかなかった。

 池田にとっては、『ノウド』の幹部といえども、自分のプログラムの集大成の実験体にしか過ぎないのだった。


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