6

 彼が順弥を導いたのは、小さな雑居ビルが建ち並ぶ薄汚い路地であった。

 路地に置かれたポリバケツから、すえたような臭いが立ちのぼっている。

「ここならいいだろう」

 若者は路地の半ば辺りで足を止めると、辺りに眼をやりながらそう呟いた。

 そして、背後の順弥を見る。

 三メートルほど離れて、順弥が立っていた。

「この付近一帯に結界を張った。これで、人はこの路地の存在を知覚することはない。つまり、誰にも見えないし、誰も入っては来ない。そして、この結界は、僕を殺さない限り解けることはない」

「――!?」

「もう一度訊く。組織へ戻って来ないか。君は普通の人間にまぎれて生きてはいけないのだ、一〇五号」

「いやだ! 誰があんな所へ戻るものか! それに、僕は一〇五号じゃない、順弥って名前があるんだ!」

「それは失礼。では、僕も名のろう。牙狼連合の江崎慎一という。――さて、戻らぬと言うのであれば仕方ない。君のパワーは、我々『ノウド』にとっても無視できるものではない。だから、まだ君のレベルが低く、魔装鎧の力が完全に覚醒し切らぬうちに、殺させてもらうよ」

 若者、江崎の眼がスッと細められた瞬間、今までの優しさが嘘のように消え、刃物のような鋭い殺気が全身から噴き上がった。

「――死ね」

 刹那、だんと地を蹴って疾る!

 反応できずに立ち尽くす順弥との間合いを一瞬でつめ――

「哈っ!」

 裂帛の気合い。そして、江崎の脚が跳ね上がる。

「――!?」

 強烈な蹴りをまともに側頭部にくらい、順弥はたまらずにブロック塀に激突していた。

 倒れかかる順弥めがけ、間髪入れずに江崎の拳が襲いかかる。

 相手は生身の人間だ。しかも、まだ子どもだ。

 だというのに、躊躇も逡巡もまったく感じさせない。

 凄まじいまでの暴力だった。

 血が飛沫を上げる。

 路面を、壁を、そして江崎を、順弥自身を赤く染め上げていく。

 まさにめった打ちだ。

 普通の人間の子どもなら、もうすでに死んでいる。

 だが、順弥は死ぬこともなく、倒れることすらかなわずに、江崎のサンドバッグと化していた。

「どうした? 素手で僕にかなわないのなら、鎧を着けてみたらどうだ? 死にたくないのならなぁ」

 嗤っていた。

 江崎のストレート・パンチ。

「――!?」

 そのとき、江崎の顔が驚愕に染まる。

 初めて、順弥がこれを躱したのである。

 もうすでに数え切れないくらいの拳と蹴りを受けて、順弥は意識を失いかけていた。それ故に、ほとんど無意識の動きであった。

 だからこそ余計に、愕然となったのである。それで、次の攻撃までに一瞬の隙が出来た。

 そのわずかの間隙に、順弥の両手が、伸びきっていた江崎の右腕にかかり、刹那の内に肘をめてへし折っていた。

「ぐぅ…!?」

 江崎は呻いて、肘を押さえながら順弥から跳び離れた。

「クク、無意識のうちの攻撃か。――しかし、やるな、さすがだ」

 痛みに顔を引き吊らせながらもそう呟く江崎の眼の前で、順弥は信じられないといった表情で、己れの両手を見つめている。

 何故、あんなことが出来たのだ。

 しかも、容赦なく折れた。

「――教えてやろうか」

 江崎の声に我に返ったのか、順弥がビクッとなって顔を上げる。

「それが、それこそが、君に植えつけられた異世界の獣――魔獣の闘争本能なのだよ。君は、自身では戦いや殺し合いから逃れたくとも、身体はそれを求めているのだ」

「そんな……」

「クク、しかし、僕も君を見損なっていたようだ。腕をへし折られるとはね」

 そう言うと、江崎は熱を持ち始めた肘を引っぱり、強引に折れた骨をつなげた。その際に生じた激痛に、思わず端正な顔が歪む。

 冷や汗が浮かび、顔面が蒼白になる。

「――さて、本気でいくか。もう油断は出来ないからね。君も、死にたくなければ鎧を着けることだ」

 言い終えた瞬間、江崎の双眸が、ギラリと輝いた。

 スーツを通してでもわかる。江崎の身体にも順弥と同じように刻み込まれた魔文字があり、それが朱く輝いているのが。

 正確に言えば、江崎の魔文字と順弥のそれとでは刻まれている文字がいくつか異なっていた。それは、二人が異なる魔装鎧を身につけるということを意味している。

 江崎の顔が天を向き、その口から咆哮が上がった。

 まさしく魔獣の咆哮である。

 順弥は、自分の足が恐怖に慄えていることにも気づかず、眼前の恐るべき変貌にただ声もなく立ち尽くしていた。

 順弥は、人が悪魔の如き姿に変わるのを初めて見るのだから、そうなっても仕方のないことだった。

 しかも、自分も変わるのだ。

 江崎の背後に暗黒の穴が開き、そこから不気味な触手のようなものが伸び、江崎の身体に巻きつき、包み込む。

 やがてそれは灰色の鎧となり、数瞬後、順弥の眼の前に騎馬が出現していた。否、正確には、それは単なる騎士と馬の組み合わせではない。全身を灰色の鎧に包まれたケンタウロスであった。

『騎馬』――パラディンは蹄を鳴らし、手にした二メートル近くもある長大な馬上槍ランスを構える。

「どうした、鎧は着けないのか?」

 馬上から、そう江崎が忠告してきたが、依然として順弥が魔装鎧を鎧う気配はない。

 少年の様子を見て、江崎はあることに気がついた。

「――そうか、鎧の装着の仕方を知らないのか。教えてやろう。――念じるのだよ。あの悪魔の如き鎧を頭に思い浮かべ、強く念じればいい。そのときに、例えば一つの単語をキィワードにしておけば、次からはそれが引き金となって容易に鎧を喚ぶことが出来るようにもなる」

「いやだ! 誰が鎧なんか着けるものか!」

「そうか、人として死ぬことに幻想を抱くというのか。――ならば、虫ケラのように這いつくばって、死ね!」


 ひゅっ


 それは一瞬だった。その音が何を意味するものなのか、順弥が理解するよりも早く、少年の身体を灼熱が貫いていた。

 直径の最大が二十センチ近くにもなる馬上槍が、順弥の腹部をまともにぶち破って、背後に走り抜けていた。

 槍の尖端には、少年の胃や腸などがぶら下がり、血が地面に奔騰していた。

「あはは! 馬鹿な奴め!」

 江崎は、『騎馬』パラディンランスを垂直に立たせるようにしながら笑った。

 順弥は、その槍の先端部分に貫かれたまま呻いている。

「逃げられるとでも思っているのかい。『ノウド』の情報収集能力を舐めてもらっては困るな。たとえ、今、僕と出会っていなくても、君は必ず殺される運命にあったのだよ。そして、

「――!?」

 半ば意識を失いかけていた順弥の身体が、ビクンと跳ねた。

 血の気の失った顔を、鉄兜に覆われた江崎の顔に向ける。

「そうだ、あの女だよ。じきにあの女のもとへも『ノウド』の刺客が向かう。――まぁ、君には関係ないか。どうせ、ここで僕に殺されるのだからね」

 江崎の気合いとともに、『騎馬』が槍を横殴りに振るう。

 順弥の身体がその拍子に槍からすっぽ抜け、ブロック塀に激突する。

 濡れた雑巾を壁に叩きつけたような音がした。血が激しく飛び散り、壁が真っ赤に染まる。そして、順弥はぼろ布のように地面に落ちた。

 呻いている。

「クク、生きているかい。辛いだろう? 普通の人間なら、もう何回死んでいるだろうね。魔装鎧を身にまとうために改造された身体は、強じんな筋肉と素速い反射神経、そして素晴らしい生命力を与えられた。それ故に、魔装兵団は無敵だ。――だが、それがアダになることもある」

 その通りだった。

 順弥は死にかかっていた。

 通常の人間ならば出血多量やショック死、または複雑骨折、内臓破裂等によって死んでいる筈なのだ。

 それが死ねない。そればかりか、引き裂かれた内臓や筋肉、神経、皮膚等がもとに戻りつつある。

 正直に言えば、今、ここで死にたかった。

 この、『騎馬』型パラディン・タイプの鎧を着装した江崎という名のヤクザに殺されるのなら、殺してもらえるのなら、死にたかった。

 それで、この呪われた運命から逃れることが出来るのなら…。

 しかし、あのひとまでも、『ノウド』は殺すという。ほんの偶然から自分と出会い、生命を救ってくれた恩人であり、心優しき姉でもあったあの女を!

 ただ、僕を救ったという、それだけの理由で!

 それだけはさせない。

 決して、殺させはしない。

 ならば、今、自分がすべきことは何か?

 順弥は、血の海の中で考えた。いや、考えるまでもなかった。

 何故なら、答えは眼の前にあるからだ。

 生きろ。生き延びるのだ。

 それは、つまり、自分に課せられたあまりにも過酷な運命から逃げるのではなく、運命それに立ち向かうのだということ。

 それに、この運命から逃げることなんて、最初はなっから出来はしなかったのだ。

 ならば、闘ってやる。闘い、殺し、生き延びてやる。そのためには、鎧――あのパワーが必要なんだ。

 ガシャガシャと耳障りな金属音の間に、馬の蹄の音が聞こえる。

 ゆっくりと近づいて来ているのだ。

「抵抗する気がないのなら、それでもいい。少々張り合いがなかったが、ま、仕方あるまい。――死ね!」

 江崎が、馬の前脚を高々と上げさせる。

 両の蹄で順弥の頭部を踏み潰そうというのだ。

 このとき、江崎の双眸は血の色に狂っていた。少年の頭が、自分の足に踏み砕かれる感触を幻想して、歓喜していた。

 しかし――

「――何!?」

 江崎は愕然と眼を剥いた。

 己れの蹄が砕く筈の少年の頭はその真下になく、凶器と化した両の蹄は、ただ地面に深々とめり込んだのみであった。

 順弥は、『騎馬』と二メートルほど離れて立っていた。すでに出血は止まり、傷口がふさがりつつある。

 そして少年は、明らかに妖気を身にまとっていた。

 それを感じたのか、江崎は兜の奥で、ニィッと嗤った。

「――とうとうやる気になったか。おもしろい」

 笑う江崎の眼前で、順弥は変身した。

 身体に刻まれた魔文字が朱々と輝き、少年の体内にインプットされた二つのプログラムが作動する。

 魔界に棲む無数の妖魔が、プログラムに従って鎧と化し、魔文字呪文によって少年の身体に召喚――着装される。

「お前を殺さなければ生き延びれない。――それなら、俺はお前を殺してみせる」

 順弥が咆哮する。

 変身は、わずかな間であった。

 漆黒の魔装鎧は、それを暗黒の穴から運んできた炎に包まれてなお、闇色であった。

 順弥は、腰間ようかんいていた大剣を抜き放ち、構えた。

「ぬかすなよ、小僧!」

 大地を轟かせて、江崎が疾走する。

『騎馬』の腰から銀光が伸びる。槍を突き出したのだ。


 ぎぃん!?


 戛然かつぜんと鉄火が散る。

『騎士』の胴を刺し貫く筈の槍は、しかし、少年の打ち下ろした剣によって進路を阻まれ、途中で止まってしまっていた。

「――ちぃ」

 江崎の右腕に力がこもり、槍を抑え込もうとする順弥の剣を、逆に跳ね上げていた。

「――!?」

 あっと思う間もなく、剣が少年の手を離れ、天高く円を描く。

 思わず順弥が顔を上げ、剣の行方を眼で追った。

 その一瞬の間隙を江崎が見逃す筈もなく、咆哮を上げて突進してきた。

「しまった!?」

 順弥が、その咆哮に眼を正面に向けたとき、槍の尖端はまさに眼の前にあった。

 視界が朱に染まる。それも一瞬、左眼が暗転した。

 槍が、順弥の左眼を貫いたのだ。

「ぐわああああ!?」

 絶叫してのたうちまわる順弥を、江崎は冷笑を浮かべて見下ろしている。

「レベルも低く、経験もろくに積んでいないお前が、僕に勝てるとでも思っていたのか、馬鹿め」

 江崎が吐き捨てる。

「これで終わりだ。――怨むのなら、自分の運命を怨むがいい」

 江崎が、絶対の自信を持ってその長大な馬上槍を振りかざした瞬間、その頭上でキラリと光るものがあった。

 そしてそれは一瞬で跳ね飛ばされた筈の剣となり、まさに順弥に槍を突き刺そうとする江崎の延髄を貫いたのである!

 まさに奇蹟!

「げえっ!?」

 江崎が、あまりにも似つかわしくない声を上げた。

 血が迸り、死にかけて意識を失いつつあった少年の鎧に、ざあっと降りそそぐ。

 そして、槍は振り下ろされた。ただし順弥にではなく、彼の頭からほんの数センチ程ズレた場所に、虚しく突き刺さっていた。

 順弥は血の臭いに蘇生し、ゆっくりと身を起こした。

 眼前の光景に眼をやる。

 魔装鎧『騎馬』型が、順弥の剣に首を刺し貫かれて硬直していた。

 兜の隙間から覗く双眸が、凄絶な輝きをもって見開かれ、順弥を睨みつけている。

 動かない。

 だが、それは死を意味する言葉ではない。悪魔の力を得た彼等を完全に殺すのなら、脳の破壊か断頭しかない。

 それを、順弥は知っていた。

 だからこそ、力を振り絞って立ち上がり、馬の胴体にまたがったのである。

 刀身の半ばまで埋まった大剣の柄に手をかける。と、順弥は両腕に力を込めて剣を右に倒した。

 江崎の首を切断しようというのだ。

 順弥は、江崎の素顔を知っていた。

 優しい声を知り、笑顔を知っていた。

 その男の首を、今、自らの手で断とうとしているのだ。

 それこそが、順弥の意志の顕現であった。

 生き延びるには、知人であれ敵ならば殺す。

 それしかないのだから。

 そして、江崎もまた、『ノウド』の犠牲者だと思いたい。そうでなければ、順弥は救われない気がした。

 刃は魔装鎧もろともに貫いていたから、剣を半回転させるのに相当の時間を費やした。が、それでもようやく首を落とすことに成功した。

 ずん、という音を立てて地面に落ちる首を見つめて、順弥は兜の奥で唇を強く噛んでいた。そのときになって、初めて自分が泣いているのに気づいた。

 そして、改めて誓うのだ。

 必ず生き抜いてみせる、と。

 順弥は馬を下りた。

 鎧を脱いで、表通りに向かう。しかし、その足取りはおぼつかない。血を流し、力を使い過ぎたために、視界がぼやけ、足もふらつくのだ。

 それでも、順弥は歩みを止めない。

 行くんだ、京子姉さんの所へ。

 助けなきゃ。今度は、俺があの女を助ける番なんだ…。

 順弥の意識は、そこで途絶えた。

 右眼しかない視界は真っ暗になり、少年は薄汚れた路地に倒れた。大通りまで、あと数歩という所であった。


 姉さん…。

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