7

 早坂京子がその日、マンションに戻って来たのは、午後七時を少し過ぎてからのことだった。

 由紀がロードスターを地下の駐車場に入れると、京子は先に車を降りて、うーんと背伸びをした。

 京子自身は車を持っていないのだが、今晩のように由紀やモデル仲間が部屋を訪ねてくることが良くあるため、仲間うちでお金を出しあって、駐車場の契約を結んだのである。

「今日は早く終わって良かったね」

 由紀にトランクを開けてもらい、帰りがけにスーパーで買ってきたワインや食べ物を取り出しながら、京子が言う。

「そーね。ま、たまにはいいんじゃない?」

 京子の手から袋を二つほど受け取って、由紀はにっこりと笑った。

 二人は並んで、なにやら楽しげに話をしながら、駐車場の端にあるエレベーターに向かう。エレベーターは地下一階に降りていた。

 そのドアの脇にはインターホンとテンキーがあり、目的の部屋にいる人に、インターホンを通じてエレベーターのドアを開けてもらうか、居住者のみが知る暗証番号をテンキーで打ち込むしかマンション内に入れないようになっているのだ。

 そして京子は、当然部屋に順弥がいると思っていたので、インターホンで自分の部屋を呼び出した。

 返事はない。無論、順弥はまだ帰ってきていない。その理由を京子は当然知る筈もない。

「――どうしたの?」

 京子が少し不安そうな顔をしているのを見て、由紀が声をかけた。

「え? ああ、順弥、いないみたい」

 不安を隠しきれない様子で、京子が答える。

「部屋への入り方は教えておいたから、帰ってこられると思うけど…」

 言いながら、京子はセキュリティシステムを暗証番号で解除し、エレベーターのドアを開けた。

「どうする? 帰ってくるまで待つ?」

「私はいいけど?」

「ごめんね。――ほんとに、何処に行ったのかしら、あの子」

「ふふ、本当にお姉さんみたいね」

「ありがと」

 ドアが閉まった。


 破滅のあしおとが聞こえる。


 エレベーターは、一気に二〇階の京子の部屋を目指して上昇する。

 途中で、誰かが乗ってくることもなかった。

 二〇階まで、ほんの数十秒で着いた。が、その間、二人は沈黙を守っていた。

 京子は、嫌な予感に心を奪われていた。

 順弥は何処へ行ったのか。

 街へ行ったのか? それならばまだいい。

 出ていったのではないか。自分に迷惑をかけまいと…。

 あの順弥の胸の傷。尋常ではなかった。何か、恐ろしいことにあの子が巻き込まれているのではないか。

 生きているのか。それとも、すでに――

 一方、由紀の方も、エレベーターの壁に背をあずけ、腕を組んで眼を閉じていた。

 何かを待っているように思えた。

 軽い振動。そして、チン、という小さな音とともにエレベーターのドアが開いた。

 京子が先に下りた。

 京子の部屋はエレベーターを下りて左手の最奥にあった。

 ドアノブの脇にあるテンキーで、京子が決めた二つめの暗証番号を打ち込むと、ドアは開く。

 室内は真っ暗だった。

「どうぞ、由紀ちゃん。散らかしてるけど気にしないでね」

「いつものことでしょ。もう、気にもならないわよ」

 いつもなら、そんな悪口がかかる筈だった。

 だが、このとき、ヒールを脱ぐ京子の背中にかかったのは、身の毛もよだつほどの冷たい男の声であった。

「ここにいるのか」

 その声は、京子の背後――由紀との間から聞こえた。

「ええ。そうらしいわ」

 そう答える由紀の、別人のような声。

「――!?」

 京子は愕然と振り返った。

 しかし、眼の前には由紀しかいない。

 邪悪な微笑を艶然と浮かべる由紀だけが、そこにいた。

「ごくろうさま、京子ちゃん」

「え?」

「あなたの役目はこれで終わり。順弥君、いえ一〇五号の帰りは、私たちだけで待つことにするわ」

「私たち? 一〇五号?」

 事情が呑み込めない京子は、茫然と立ち尽くすばかりだ。冗談では済まされない雰囲気があった。

「そうだ」

 また、男の声がした。

 そして、唐突に、由紀の足許から立ち上がった男がいる。

 今まで、そこには誰もいなかったのに!?

「ひぃ!?」

 悲鳴を上げる京子の口を、今度は背後から押さえる手があった。

 眼だけを動かして背後を見る。

 玄関灯に照らされたその男は、忍者のような格好をしていた。

「――いい肉体からだをしている」

 正面の、熊のような体つきの男が言う。

 背後からの束縛から逃れようとする京子であったが、正面の男は強靱な猿臂を伸ばし、京子の両腕の自由を奪った。

 それでも足でその男の急所を蹴って抵抗したが、一向に効いた様子はない。

「さぞや、肉もうまかろうな」

 よだれを垂らして、男は舌なめずりした。

「ふふ。一〇五号が戻ってくるまで、存分になぶり、犯し、くらうがいいわ」

 冷然と言い放つ由紀。

 悪夢の始まり。それは身の破滅、人生の終わり。

 狂いそうになるほどの絶望と虚無。眼の前が真っ暗になり、何も考えられなくなる。

 そして京子は、この世の最期の記憶に、眼前で獣人に変貌する男と、引き裂かれて飛び散る自分の衣服、そして異臭を放つ巨大な獣のあぎとを見ていた。

 京子は、絶叫を放っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る