5
伊沢と江崎を乗せたベンツは、その教会の敷地内に音もなく吸い込まれていった。
あの運命の日、禍々しき術式が執り行われていた、あの教会だ。
しかし、今はその狂気の片鱗すら見せることなく、静かにそこにあった。
「お久しぶりです、伊沢さん」
寺垣は、笑みを浮かべてベンツを下りた伊沢を出迎えた。
「――おお!? 寺垣殿。いつ日本へ?」
意外な出迎えに、驚きと喜びを隠しきれず、伊沢はそう訊き返した。
「昨晩に。少々厄介なことが起きましてね、日本に引きずり戻されたというわけですよ」
寺垣は、むしろ楽しんでいるような口調でそう言った。
「厄介なこと?」
「ええ。急にお呼びだてしたのは、そのことについて力をお貸し願えないかと思いまして。――ああ、話は私の部屋で」
わかりましたと答える伊沢を自室に招き入れ、二人は本革のソファに向き合うようにして座っていた。
伊沢を送って来た江崎は、別室で待機している。
「それで、厄介なこととは?」
二人の間にあるテーブルには、淹れたてのコーヒーが置かれていた。
馥郁たる香りが部屋を満たしていく。
寺垣が淹れたものである。寺垣は、伊沢を招いたときだけ、自分でコーヒーを淹れるのだ。
伊沢は、寺垣の視線をそらすことなく、正面から男の眼を見つめ返していた。老人とは到底思えぬ雰囲気が、伊沢の全身から漂っている。また、寺垣も常人よりは体格がいいのに、伊沢は、その寺垣よりも肩幅が広く、がっしりとしていた。
「実験体が、二日前の夜、信者たちを皆殺しにして逃亡してしまったのです」
寺垣が平然と言う。
それを聞いて、伊沢の獅子の如き顔が、ピクリと動いた。
「実験体が?」
「はい。以前にお話ししたと思いますが、汎用型を目指して開発していた『騎士』型の実験体です。――それを、あなた方に捕らえていただきたいのです」
「無論、我等に断る理由などありませんからな。寺垣殿の命令とあらば、すぐにでも行動を開始いたしますが」
伊沢の率いる牙狼連合は、一〇年ほど前までは牙狼会と名のり、別の暴力団組織の傘下の弱小組織にしか過ぎなかった。
構成員も、当時は百名にも満たず、何らかの抗争に巻き込まれて消滅するのを待つだけであった。
苦悩の毎日を過ごす伊沢らの前に、寺垣が現れたとき、彼等は生まれ変わったのだ。
寺垣は、伊沢に力を与えてやろうと言った。
力?
そう訊き返す伊沢に、寺垣は、あの悪魔のような微笑を浮かべて、そうだ、誰にも決して負けることのないすばらしい力だ、そう言って、伊沢に手を差し伸べたのだ。
組織の生き残りを賭けていた伊沢にとって、寺垣の誘惑は拒めないものがあった。そう感じさせるものを、寺垣は持っていたのだ。
そして、牙狼会は『ノウド』の誘いを受け、悪魔の如き力を手に入れた。
それが、魔装鎧である。やがて、構成員のほとんど全てが魔装鎧を着装できるようになり、地上の全ての兵器に打ち勝つ力を手に入れた牙狼会は徐々に勢力を伸ばし、やがて牙狼連合と名を変え、次々に他の組織をその傘下におさめていった。
これが、『ノウド』と牙狼連合とのつながりである。
「では、お願いします。もし、一〇五号――逃亡した実験体のナンバーですが、こいつが組織に戻り再手術を受けることを拒否した際は、殺してもらっても結構です」
寺垣は、逃亡した少年の写真を伊沢に差し出しつつ、そう告げた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「わかりました。では、早速一〇五号の居所を探させましょう。――しかし、これだけなら電話だけで話も済みましょうに」
「いえ、実は、もう一つあるのです」
そう言うと、寺垣はキザな仕種で指をぱちんと鳴らした。こんな仕種が似合う男などそういないであろう、そう思われる仕種であった。と、寺垣の背後の壁が左右に割れ、巨大な液晶モニターが現れる。
同時に、天井のシャンデリアが消えた。そして、その液晶モニターに一体の邪悪な影が映し出される。
「おお!」
それを見た途端、伊沢が珍しく興奮して腰を浮かし、感嘆の声を上げる。眼が輝き、身体が、声が震えていた。
「気に入っていただけましたかな?」
寺垣がその映像を背に、足を組んで伊沢とは対照的に冷ややかに告げる。
「あなた用に開発した鎧です。魔装鎧『銀獅子』――獣王系の鎧です」
その名の通り、スクリーンには白銀の装甲を持つ、獅子頭の魔神が映し出されていた。
「いかがです? 手術を、受けていかれますか?」
鎧の美しさに心を奪われた伊沢の麻痺した脳髄に、寺垣の冷たい声が染み渡る。それは、そう、悪魔の囁きにも似ていた。
津田由紀は、その日、彼女がマネージャーをしている早坂京子が妙に上機嫌なのを見て、少し不思議に思った。
二日前のあの雨の夜、京子は一つの大きな岐点に立たされて、その選択に迷っていた。
自分の身体を売ってでもより大きな仕事への足掛けを得るか、それを蹴るか。
もし後者を選べば、生意気な娘としてこの業界から追放され、路頭に迷うかも知れない。だからといって、一度抱かれてしまえば、相手の増長を招くことにもなりかねない。いや、必ずそうなるだろう。
そのことで迷っていた筈の京子が、その日、撮影所に姿を現したとき、実に生き生きとした笑顔を浮かべていたのである。それに、足どりが軽やかであった。
いったい、何があったのかしら。
由紀は、その理由を京子に聞いてみることにした。
マネージャーとして、知っておかねばならないことだと思ったからである。
京子はそのとき、撮影所に設けられた楽屋で、スタイリストさんに手伝ってもらって化粧をしていた。
「――あ、おはよう、由紀」
京子が、鏡に向かったまま、部屋に入ってきた由紀を見てそう言った。
「おはよう。――ねぇ、京子ちゃん?」
「ん――?」
口紅を塗りながら返事をする。
「今日はどうしたの? いやに機嫌がいいじゃない?」
と、由紀が京子の顔を覗き込むようにして訊く。
「そう? やっぱり、わかるかなぁ」
照れ隠しに、へへへと笑う。
「ねぇ、何があったの?」
と小さな声で言い、京子の脇を肘でこづく。
スタイリストのお姉さんも、微笑を浮かべて、二人の会話を興味深そうに聞いている。二人の仲の良さは、このプロダクションでは有名なのである。実際、京子も由紀のことを姉のように慕っていた。
「あのね、あの話、断っちゃった」
ぺろっと舌を出して、京子がおどけて言う。
「え? こ、断ったって、京子ちゃん、あなた……」
「考えてみたらさ、馬鹿馬鹿しいじゃない。どうして売れるために、あんな脂爺いに抱かれなくちゃいけないのよ。――ね、そうでしょ?」
京子が、あまりにもあっさりと言ってのけたので、由紀はすぐに反応できず、しばし茫然となった。
「そ、そりゃ、まあ、そうだけど…。――ねぇ、何があったのよ、いったい…?」
「ま、いろいろとね」
京子は微笑んで、あの雨の晩に出会った少年のことを、由紀に話して聞かせた。
「へえ、そんなことがあったんだ」
「そ。――あの子見てるとね、何だか、こんなことで悩んでいるのが馬鹿みたいに思えてきたのよね」
「だから断ったと」
溜息まじりに、由紀が肩をすくめる。
「やれやれ。社長、怒ってたでしょ」
「へへっ、まあね」
かわいく舌を出す京子。
「でもね、これでいいんだ。この世界にいられなくなったって、何とかなるわよ」
「あらま、大した変わりようね。その、順弥君だっけ? 京子ちゃんを覚らせるなんて、大した子ね」
「なにそれ? 覚るだなんて、お婆ちゃんみたいよ」
京子はそう言って、クスクス笑った。
つられて、由紀も笑う。
「――ねぇ、私、順弥君に会ってみたいな」
「え?」
「だって、京子ちゃんをここまで変わらせたんだもの、会ってみたくもなるわよ」
「私はいいけど?」
「――じゃあ、決まりね」
京子は、鏡の前でにっこりと笑った。
早坂順弥は、京子に救われてから二日ほどの間に、急速に言葉を覚え、知能を高めていった。というよりも、今まで覚えていて失っていたものを、徐々に思い出しつつあるといった感じであった。それほど、知識の吸収性が高かったのである。
また、京子と一緒に街を出歩けば、一度でその辺りの地理を頭の中に納めることも出来た。
だから、その日、朝早く京子がモデルの仕事で部屋を出ていった後、順弥は一人で街に出てみたいと思ったのである。
年齢的に高校生であっても、知識はそれ以下でしかない。まだまだ好奇心が旺盛な少年に変わりないのだった。
そんな訳で、順弥は胸をときめかせながら、マンションを出たのである。
少年にとって、街の喧噪さえも新鮮であった。
恐らく、記憶を失う前は、当然のこととして全く気にも留めなかったような事柄まで、少年は感動と驚嘆のうちにそれを受け止めていた。
人々がせわしく行き来する往来、ざわめき、車のクラクション、排気ガスの臭い、そして、電柱の根本にしがみつくようにして咲く小さな名も知らぬ白い花。
ふと、工事中のビルの下に立ち、頭上を見上げる。
耳障りな音がして、火花が散っている。
ビルを建設するための鉄筋を溶接しているのだと、順弥は知らない。まだ、京子に教えてもらっていないのだ。
それでも、しかし感動はある。
いや、それだからこその感動だろうか。
人間は、何とすごいのだろう。
そういう素直な気持ちである。
再び、順弥は歩き出した。
楽しかった。
心が高揚して、足どりが軽くなる。
ずっと、このままの生活が続きますように。
お姉ちゃんと、ずっと暮らせますように。
順弥は微笑みながら表通りに出た。
「うわっ!?」
休日ではないのだが、さすがに表通りはもの凄い人ごみであった。
人、人、人。
その人の多さに、順弥はただただ驚くばかりである。
こんなにも人がいて、生活しているのか。
それは、もの凄いことだと思う。
感動して歩道の真ん中で立ち尽くす順弥の耳に、どやどやと騒々しい音が聞こえてきた。
何かしら、と左に眼を向けると、太ったおばさんの集団がこちらに向かってくるのが見えた。
何列にも並んで、歩道を占拠しながらずんずんと歩いてくる。
その迫力に思わず圧倒され、順弥は慌てて街路樹の影に走り寄った。
上手くその集団をやり過ごすと、順弥は、ふうっと溜息をついて、再び歩き出した。
途端、一人の男に正面からぶつかった。
歩き去ったおばさま方の迫力ある背中に眼をやっていたからである。
「あっ……!?」
思わず尻餅をついてしまう。
「大丈夫かい?」
優しげな声がとっさにかかった。
二〇代の、まだ若い男が心配そうに順弥の方を見、手を差し伸べてきていた。
暖かい感じのする笑みを浮かべた、紺のスーツを着た若者であった。
「あ、ありがとう」
順弥はその手につかまりながら立ち上がると、ペコリと頭を下げて礼を言った。
彼はくすっと微笑み、
「この人ごみの中で、よそ見しながら歩いてちゃ迷惑だよ」
そう注意すると、順弥のジーンズについた土埃を払ってくれたりもした。
順弥は、少しこの若者が好きになれそうな気がした。
「――この街は、好きかい?」
唐突に彼が訊いてきた。
「わからないよ。――でも、たぶん、好きだよ」
順弥は戸惑いながらも、自分の感想を素直に若者に伝えた。
「人がいっぱいいるし、ビルもいっぱいある」
活気に満ちあふれているのだ、という言葉を、順弥はまだ知らない。だから、そういう表現の仕方になってしまうのだ。
「ああ、そうだね。――人がいる数だけ考え方があるし、人生がある」
「…………」
順弥が沈黙してしまったのは、彼の言っている言葉の意味がわからなかったというわけではなく、何を言おうとしているのか見極めようとしたからである。
記憶を失っているとはいえ、順弥はそういうことが出来る少年なのであった。
「だが、奴等は愚民だ」
「――!?」
愚民という単語の意味はわからなかったが、少年には、若者から放たれる悪意の念のようなものを察知することが出来た。
「自分たちが、この星で最もすぐれた生物だと錯覚し、他の動物や植物を喰らい尽くしていく。そして、この地上にしか住むことが出来ぬくせに、環境を破壊し、汚染し続ける。それが、悪いことだとわかっていても、だ」
「…………」
「――まさに、愚か者だよ。だから、我々は人類を滅ぼすのだ。そう、粛正だよ」
ゆっくりと、若者が順弥の方を振り向く。
そこには、あの優しく、暖かな笑みはなく、冷徹な氷のような表情のみがあった。
「わかるかい、一〇五号」
「ああ…」
順弥は、眼前の若者の顔に邪悪な笑みが満ちるのを見、知らず一歩後退していた。
「君を、我々の組織『ノウド』から外に出すわけにはいかないのだよ。君のパワーは強力すぎる。――どうだ、戻ってはくれないか?」
「いやだ!」
順弥は、叫ぶように言って、若者の差し伸べてきた手を思い切り振り払った。
その声がかなり大きかったので、まわりを歩く人々が、何事かと思わず彼等の方に顔を向けた。
「――ふむ、場所を変えよう。ここではやりにくい。――ついておいで」
そう告げると、若者は順弥に背を向けて、ひょうひょうと歩き出した。
少年は、その若者の背に凝っと鋭い視線を向けて、その場に立ち尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます