4
その報せを受けたとき、伊沢は、広大な自宅の裏に建てた剣道場で瞑想をしていた。
午前七時。まだ薄暗い朝の空気は刃のように鋭い。切れそうな寒さだ。
深く規則正しい呼吸が、体内の気の流れを正常なものとし、身体を芯から甦らせる。
道場内の空気は、恐らく外よりも冷たいのではないか。
伊沢の吐く息が白い。
伊沢聡一郎。今年で六五歳になるが、肉体はそれに宿る精神とともに、いまだに衰えを見せてはいない。
老体を思わせぬ筋肉質の身体に、今羽織っているものは剣道着だけである。
その伊沢が眼を開いた。炯々とした鋭い光を帯びた双眸である。
ゆっくりと立ち上がる。無論、素足だ。
彼は冷えきった床から伝わる冷たさが気に入っていた。身体を緊張させてくれる、そんな気がするからだ。
伊沢の前方約三メートルの所に、試し斬り用の巻藁が立てられている。
巻藁といっても、正確には「竹入り畳表」といった方が良い。青竹の芯が入った、一畳分の畳表が巻かれてある。
畳表は肉のかたさに相当すると言われ、青竹は骨にあたる。つまり、青竹入りの畳表を斬りおとすことが出来れば、まさに人間の首を落とせるということになる。
これを叩き斬るのが、伊沢の毎朝の日課の一つであった。その後、約四キロのランニング、そしてストレッチを行い、ようやく朝食を摂るのである。
伊沢が、左手に持っていた日本刀を鞘走らせる。
何という優美な動きか。
日本刀の刃の描く曲線もさることながら、伊沢の動きの優雅なことよ。
鞘を床に置いて、正眼に構える。
そして今、獅子の如き顔が、きっと引き締まる。
空気が、キンと凍りついた。
「いえええええぃ!」
そして迸ったのは、獣の咆哮にも似た裂帛の気合いであった。
気合いを放ったときには、地を蹴っていた。
銀光一閃。
空気を切り裂いて走った刀は見事に畳表を芯の青竹もろとも分断していた。
日本刀を一颯し、深く息を吐く伊沢の背後で拍手が起こった。
肩越しに振り返ると、道場の入り口に一人の青年が正座をしている。
伊沢の腹心の部下、江崎慎一である。
わずか二三歳の江崎を護衛として自分の屋敷に住まわせるようにしたのは、伊沢本人の独断である。誰も反対しなかった。それほどに、伊沢はこの若者を気に入っていた。
実に真っ直ぐな眼をしていた。そして、何と言っても笑顔が良かった。何故、この世界に入ったのか、その笑顔だけを見ているとわからなくなってしまう。しかし、伊沢が彼を気に入る理由はそれだけではなかった。
いざ戦いになったとき、江崎はまさに別人のように変貌するのだ。そう、冷たい双眸を持った、正確無比残忍非情な殺人機械――奔騰する血に笑みを浮かべる殺人鬼と化すのだ。
「相変わらず、お見事です、総長」
白い歯を見せて、江崎が言う。
「うむ。――日々、神経が研ぎすまされていく気がするわ」
伊沢は獅子の如き顔に笑みを浮かべ、刀を鞘に収め、江崎の差し出した手拭いを受け取った。
江崎に刀を渡し、伊沢は額にうっすらと浮いた汗を拭いながら、
「――何かあったのか」
と訊いた。
すると、江崎は思い出したように、
「あ、はい。昨晩遅く、『ノウド』の大竹様よりお電話が入りまして」
「大竹? それで、何と言っておった」
「本日一二時までに、ノウド日本支部にまで来て頂きたい、と。総長はすでにお休みでしたので、報告が今になってしまいました」
「かまわんよ」
伊沢は、すっかり白くなった髪を両手で後ろへ流すようにして、薄く笑いながら言った。
「何かあったかな。ならば、行かねばなるまい」
「はい」
午前八時。いつもの朝の日課を済まし、朝食を終えると、常に屋敷の離れで待機している百人余りの選り抜きの組員たちに見送られながら、伊沢は江崎の運転するベンツで屋敷を出た。
「――さて、何が待っているのかな」
伊沢は、ベンツの後部座席にどっしりと腰を下ろして、嬉しそうにそう呟いていた。
熱が下がり、少年が目覚めたとき、外はすでに明るくなっていた。
「…ここは?」
という少年の呟きに、ベッドの脇でうつらうつらしていた早坂京子は、ハッと目を覚ました。
「気がついたのね、良かった」
と、眠い眼をこすりながら笑いかける美女に、少年はとっさに警戒の眼を向けた。
「だ、誰だ、あんたは」
その言いぐさにムカッときたのか、京子は少年の額に人差し指を突き立てて、
「こらっ! 命の恩人を捕まえて、その言い方は何なのよ!」
「え!? あ…ご、ごめんなさい」
その剣幕に思わず謝ってしまう。
「よおし、素直でよろしい。――あたしは早坂京子、君は?」
「ぼ、ぼくは――」
京子の微笑にどきどきしてどもりながら自分の名を名乗ろうとしたとき、少年は、それを覚えていないことに初めて気づいた。
一〇五号。
頭の中にある深い闇の底で、そう呼ぶ声がする。
違う! それは僕の名前じゃない!
そう否定する。
では、本当の名前は――
そして少年は、名前だけではなく、両親のこと、住んでいた場所といった、今まで生きてきた人生の全てを失っていることに気づいたのである。
自分は何歳なのか、兄弟はいたのか、学校は…。
「どうしたの?」
少年がベッドの上で上体を起こしたきり、急に黙り込んでしまったので、京子は心配になって顔を覗き込むように声をかけた。
「…覚えて、ないんだ」
「え?」
「自分の名前も親のことも、自分が何処に住んでいたのかも、何もかもみんな覚えてないんだ!」
少年が半ば狂乱状態に陥って、泣き叫ぶように言った。思わず、京子に抱きついてきた。
今、京子のすがるようにして泣きじゃくる少年が、昨晩、ある街の教会の地下で、数百名の人間を一瞬にして皆殺しにした張本人だと、たとえ知る者がいても到底信じられなかっただろう。それほどに弱々しく、まるで仔犬のように打ち震えていたのである。
「――記憶喪失、だなんて」
思わず、京子は泣きじゃくる少年の裸体を、ぎゅっと抱きしめていた。
「――ねえ、じゃあ、その胸の変な傷も、どうしてついたのか覚えてないわけ?」
ふと思い出して何気なく訊いたとき、少年の身体が腕の中でビクンと跳ねた。
少年は京子から飛び離れ、ベッドの端でシーツを身体に巻いて京子を凝っと見つめた。
京子は、やれやれという風に肩をすくめると、
「見られたくないし、言いたくない理由があるという訳ね」
京子の言葉に、少年がこくりと頷く。
「――わかったわ、じゃあ、もう訊かない。誰にだって知られたくないことはあるもんね。それより、熱が下がったのなら、シャワーでも浴びてきなさい。そのシーツ、血と泥で汚いから。――下着はこれね」
そうまくしたてると、京子はコンビニの袋から真新しい下着を取り出した。
「服は、今日、君に似合うのを買ってきてあげるから、それまでは、あたしのジャージで我慢してね」
「あ、ありがとう」
少年は、京子の優しい笑顔を見て、警戒を解き始めたようである。眼が、年相応の純粋な光を取り戻しつつあった。
いったい、この子はどんな過酷な運命を背負っているのだろう。どうすれば、これほどの鋭い眼を、こんな小さな子供が持てるのだろう。
京子は、こみ上げてくる熱いものを感じつつ、
「偉い偉い、それが言えたら上出来よ。ずっとここにいてもいいからね」
京子は涙を滲ませながら少年の頭を撫でて、にこっと笑った。
その言葉に、少年は驚いたようだ。
「い、いいの?」
「ええ。ここにいていいのよ」
「でも……」
素性もわからぬ自分を、何故この女(ひと)は受け容れられるのだろう。
少年は理解できず、戸惑っていた。何故なら、その優しさは、少年が初めて感じる暖かいものであったからだ。
「――きみがここにいたいと思うのなら、ずっといていいのよ」
本当に、僕はここにいていいのか…。
ここにいれば、僕はあの運命から逃げられて、安らぐことが出来る。
この女は、僕を安らいだ気持ちにしてくれる。
だから――
「…僕は…ここにいたい」
少年は、絞り出すように言った。
素直な気持ちであった。
京子はニッコリと笑いながら、少年の頭をくしゃくしゃに撫でて、
「この世にいちゃいけない人間なんて、一人だっていないんだからね」
そう言った。
「――そうだ、君の名前!」
「え?」
「君の名前さぁ、順弥っていうのどう?」
「順…弥…?」
「そう、あたしにもね、弟がいたのよ。もう一〇年くらい前になるかなぁ、神隠しにあったみたいに行方不明になっちゃって、それっきり。生きてたら、ちょうど、君くらいかなって思ってね。――いや?」
「ううん」
「よし、じゃ、これから君は早坂順弥よ、いい?」
「はい!」
少年は、その名が気に入ったようであった。
「じゃ、順弥、さっさとシャワーを浴びてらっしゃい!」
「はい」
少年――早坂順弥は元気よくベッドを飛び出して、京子の指さした方向に走っていった。
もう、少年の身体の傷は完全に癒えていた。胸の奇怪で無惨な傷を除いて。
このとき、部屋を駆けていく少年の姿を見る自分の心が、妙に和んでいるのに京子は気がついた。
素直な少年の、その心に触れているからだろうか。
京子は、スポンサーの社長との件は断ろうと、このとき思い始めていた。漠然とではなく、それは決然としたものであった。
そのとき、風呂場から少年の京子を呼ぶ声がした。
「あ!? しまった、順弥にシャワーの使い方、教えてなかったわ」
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